武士の家計簿ならぬ五卿の家計簿

とても面白い資料を発見しました。
幕末の動乱期、京都を追われた三条実美以下七人の公家は長州に逃れ、その後、五人になって筑前の大宰府にある延寿王院へ下ってきます。彼らは、関門海峡を渡って黒埼湊に到着し、黒崎の町茶屋(桜屋東四郎)に3泊します。その後、木屋瀬宿を経て遠賀川を渡り、赤間宿で25日間足止されます。その際かかった費用が事細かに記されているのが、武士の家計簿ならぬ五卿の家計簿です。

内容は、五卿が宿泊した御茶屋(福岡藩主の別邸)の掃除を4人でおこない、1日に銀3匁支払ったので、合計120匁支払ったとか、五卿に賄用の白魚とジャガタラに32匁支払っただとか、五卿が赤間を出て行くまでの金額が記されています。特に面白いのが、黒埼の桜屋東四郎に支払って「澤亀」という銘柄の酒を度々購入している事、福岡藩家老の加藤司書が訪れた際の鯛や肴、野菜に127匁2分支払われ、西郷吉之助が訪問した際には、料理代に137匁3分が支払われています。さらに、給仕子供袴十具仕立賃に50目支払っているので、給仕には子供が出ていたこともあったようです。訪問の際に出したお菓子には、金玉糖や羊羹など、お茶には正喜撰という前茶、漢方薬としてサフランや九味半夏湯を取り寄せたりもしています。
こうして赤間に滞在した費用の合計は、金38両1朱、銀45貫924匁にも及び、相当な費用であったことが分かりました。
家計簿を見ると、歴史書には書かれていない生き生きとした歴史が伝わってきますね!!


江戸城 再登城!

念願叶って、再度、挑戦することができた江戸城への登城
この前行ったときは、金曜日だったので、江戸城は休園日
今回は、中まで入ることができました。
今回も出発点は、東京駅
この前は、養生シートがかかってましたが、
今回は、養生も取れて、その一部分が姿を現していました。

東京駅を取り囲む塀には、東京駅に関する解説が掲げられていました。

駅の敷地は、江戸時代大名屋敷だったんです。
それから、江戸城の正面口「大手門」に向かいました。

諸大名は、登城の際、この門から登城し、門前の広場には供侍たちが、藩主が戻ってくるまでずーっと待ち続けたそうです。今はその面影も無くただビルの林となっております。

お堀を渡って高麗門を潜ると渡櫓門、それを潜ると三の丸尚蔵館という皇室の名品を展示する資料館があるのですが、休館中でした(残念)

少し進むと、三の丸から二の丸へ渡る橋がかつて架かっていましたが今はありません。二の丸へ入るための三之門前に同心番所があり、大名の供侍を監視していました。ここからは、馬上の者も下馬して本丸へと向かいました。

大手三之門跡、ここから二の丸へと入ります。

切石の美しい中の門を潜ってさらに中雀門を潜ると、本丸に到着です。

かつては壮大な御殿が広がっていた本丸も、今は何も無く、大きな桜の木が満開でした。

もちろん、松の廊下跡も見ました。

大奥があった場所も芝生の原っぱです。

天守台跡、日本一の天守閣があった場所。切石が美しい

角を落として製材された石がきれいに積まれています。

そして、天守を後に平川門を出ました。ところが、この場所で愛機キャノンG11にレンズエラーの表示がでて、壊れてしまいました。まだまだ撮りたいところいっぱいあったのに・・・・福岡に帰ってカメラは入院させました。


日本橋

 日本橋に行きました。
全国の街道の基点となる日本橋

現在は、川の上を高速道路が走っており、江戸時代の景観は失われていますが、
やはり、実際の場所に立ってみると、江戸のメインストリートの空気が漂っていました。
三越など大店が並ぶ当時の姿を想像しながら歩きました。

橋の飾りの麒麟と獅子は、町の繁栄と守護の守りだそうです。
また、「日本橋」の文字は、15代将軍慶喜公の筆によるものだそうです。

江戸時代は木造でしたが、現在は明治の頃につくられたアーチ橋です。

川面にはサクラの花びらがドローイングのように流れていました。

橋の中心には、道路元票がありますが、車がびゅんびゅん通るので遠くから撮影しました。


長崎街道の松並木(曲里の松並木)

長崎街道は、豊前国大里より小倉、黒崎、木屋瀬、飯塚などを通って長崎へ通づる九州の主要幹線道路です。この街道は、九州の諸大名や長崎奉行、文人墨客等が往来しました。これら旅人が街道を通る際、木陰になるように、また街道が人目で分かるように、街道には松や杉などが植えられていました。

しかし、現在はマツクイムシの被害や、道路拡張、戦時中に松脂を取っていたなど様々な理由で伐られ、ほとんど残っていません。

かつては、糸島市松末を通っていた羅漢川の沿った唐津街道にも松並木があり、郷土の日本画家松永冠山が大正11年に描いた作品には、その風景が描かれています。

さて、北九州の黒埼には、曲里の松並木と呼ばれる街道松が整備され残っています。
先日、北九州に行く用事があったので、実際に歩いてみました。

江戸時代後期の代表的な狂歌人であった太田南畝(蜀山人)は、文化元(1804)年に長崎奉行所に支配勘定役として赴任し翌年10月に帰府しました。その道中などを記録した「小春紀行」には、「坂を下るに赤土の岸あり、松の並木をゆくゆく上り下りて又坂を下りゆけば左に黒崎の内海見ゆ」と記しています。

気分は江戸時代の旅人!!

まさに、この浮世絵の風景と同じです。

江戸時代の松は2本程しか残っていなく、そのうち1本は切り株に、
もう一本はこのように表示板がありました。

「古街道」と刻された表示石がかっこいい


福岡藩士辻山家の事

主に福岡藩の事を調べている私であるが、福岡藩に何か縁があるかと問われれば何もないというのが実際のところである。私の出身は、旧筑前国怡土郡有田村の農家であり、江戸時代は豊前中津領の飛び地であったため、これまた福岡藩との直接の関係はない。
しかし、結婚によって、福岡藩との縁が出来たのである。ある時、嫁の実家が福岡藩士であったことが判明し、明治期に、辻山吉三郎という人物が旦那寺である上人橋通りにある香正寺の墓が整理される際、写し取ったといわれる文書が出てきたため、嫁の先祖である福岡藩士辻山家について色々と調べる機会を得た。

福岡藩士辻山家は、福岡藩4代藩主黒田綱政の時(元禄元1688年〜正徳元1711年)に、初代文之助が無足組30石6人扶持で召抱えられ、明治まで続いた中下級藩士である。

辻山家は、もと備前辺りに居住していたのを、福岡藩参勤の道中でて召抱えられたと伝えられ、正徳元年よりおおよそ35年を経た延享の頃の分限帳では、辻山文之助は、無足組20石6人扶持で御納戸役である。御納戸とは、藩主の身の周りの世話をする役である。
その後、2代半蔵(〜明和元年10月)、3代吉太夫(〜宝永5年8月)、4代波次郎(天明6年2月)と続き、波次郎は、宝暦11年藩主継高が西郡巡見と称した志摩郡桜井神社や雷神社の参詣に供として随行した。また、安永4(1775)年10月、この年6月に死去した福岡藩主継高の御遺髪を京都龍光寺に埋葬のため、福岡藩の菩提寺崇福寺の裏より乗船し、馬廻頭の竹中伝右衛門はじめ、野田新兵衛、吉岡多膳、早川幸太夫、大格文二郎、そして辻山弥次郎が供として随行している。
5代波江は、江戸参勤を3度仰せ付けられたが、寛政7年5月江戸に於いて病没した。6代文左衛門(〜文政13年)は、右筆として勤務し、7代文之助(〜明治5年)は、文政7年2月に組外勤務を仰せ付けられ、同年5月に長崎警備のお供を仰せ付けられている。
しかし、天保8年3月、登城途中に遅参し、お家取り潰しの危機にまで陥ったが、一族評議の上乱心という事で届けを出した。大目付梶原平十郎(大組715石)よりの沙汰は、文之助は隠居し、吉見新兵衛の弟八十八を養子として迎え、さらに格下の城代組20石6人扶持で辻山家は存続した。八十八は、吉太夫(〜安政3年)と改名し、24年間勤めた後、養子の傳(〜明治7年)に家督を譲り、傳は、嘉永2年右筆見習(秘書官)を仰せ付けられ励んでいたが、明治4年病気により退役を余儀なくされ、長男吉三郎(〜大正12年)に家督を譲り、傳は隠居し、吉三郎が家督を継ぎ、城代組17石6人扶持で明治を迎えている。
住居は、延享の頃は、追廻堀端(現在のけやき通り付近)、その後柳原に移り、幕末期には大西二番町(西新付近)そして、戦前は西職人町(現在の舞鶴検察庁裏付近)に居住していた。頭山満らがつくった結社玄洋社筋向いに辻山家があった。
下の地図は、昭和13年の西職人町付近の地図。左側に麻生邸や、黒田家別邸がある。現在の浜町病院辺り。赤の部分が旧辻山邸で、筋向いの小路先に玄洋社があった。いずれも戦災によってなくなった。
 

 

 

 


武士の家計簿

今回は、前原宿に勤務していた武士の給料について考えてみたい。
しかし、武士といっても、藩に直接仕える武士ではなく、現地採用の下級武士である。
福岡藩には、藩主の次に家老、中老、大組、馬廻組、無足組、城代組、足軽というように分けられており、藩主にお目見えできるのは城代組までであった。
ニュアンス的には、藩主=知事、家老=副知事、大組=部長、馬廻組=課長、無足組=係長、城代組=主査といったところであろうか。
この他に、家老や大組などの家臣の家臣(陪臣)という武士も存在していた。前原宿に勤務していた武士は、福岡藩の馬廻組で、前原宿に駐在していた代官と、現地採用で、代官の下で勤務していた下代と関番がという武士がいた。
今回は、この下代、関番という武士の給米について考えてみる。
前原宿には、下代が3名おり、代官所に1人ずつ日直勤務し、代官の補佐を行っていた。関番は、6人おり、毎日関番所に2名づつ勤務して旅人の持つ通行手形を改めていた。
文化9年の下代、関番の給米は以下の通りである。

下代
・寺坂権次    二人扶持六石
・金丸武作    三人扶持八石
・青木円助    二人扶持七石

関番
・高木宇右衛門 二人扶持五石 
・萩尾定蔵    二人扶持四石
・高木林平    二人扶持四石
・金丸甚蔵    二人扶持四石
・波多江延助   二人扶持四石
・筒井幸内    二人扶持四石

このうち二人扶持五石を給米として受けていた関番高木宇右衛門を例に年収を考えてみる。
五石二人扶持をそれぞれ説明すると、基本給として5石(2.5俵×5=12.5俵)と2人分の扶持米(男1日当り米5合支給×354日(1年)=1770合(1石7斗7升)×2人分=3石5斗4升)の合計8石5斗4升=20俵5斗4升が関番高木の年収となる。
これを現在の米の価格に当てはめてみるとどうなるか。
現在米10kgの価格を4000円とした場合、1俵(60kg)は約30000円である。
高木の給米は、20表5斗4升なので、おおよそ年収64万程度となる。
1石を貨幣になおすとおおよそ1両であるので、8.5両の現金に置き換えることができる。
1両の価値は、約30万円位なので、おおよそ250万円の収入であったと考えられる。
しかし、支給される給米をすべて現金に換えるわけではなく、そのうち家族の食べる分は米として使用するので、実際には6石程度が換金されたものと考えられる。つまり180万円の現金で1年間暮らすので、いかに貧しい暮らしであったかが伺える。






2012あけましておめでとうございます。

 
あけましておめでとうございます。
2012年もどうぞよろしくお願いいたします。

江戸参府紀行

昨日、出張で江戸に参府してきました。

31歳にして初めて江戸へ参府することとなり、飛行機で福岡より東京へ向かいました。
飛行機に乗るなんて数えるくらいなんで、わくわくしてましたが、近年グーグルアース等
精密な航空写真を見すぎたせいで、それほどの感動が得られなかったのが残念。
でも、飛行機からは、富士山がきれいに見えました。やはり頭を雲の上に出していました。
かつては1カ月近くかかって諸大名達が江戸へ向かったのに、約1時間半で参府できるなんて夢のようですね。江戸では、古材の森がメセナアワード2011のメセナ大賞部門を受賞したので、その表彰式に出席するのが目的で行きました。時間が1時間半ほどあったので、東京駅から会場の表参道駅すぐそばの青山スパイラルホールまで歩いていこうと思い、まずは御城へ

和田倉門を渡って最初に目に入ったのが三の丸巽櫓、その奥には内桜田門と富士見櫓が見えます。この日、金曜日だったので皇居東御苑(江戸城本丸、二の丸)は休園日。仕方なく西の丸下郭を通って堀端を歩きました。

内桜田門

堀端に沿って歩くと大きな門が次々と現れます。これは坂下門

板倉や水野家の上屋敷があった場所は、ただ松の木が生え遠くにはビルが見えるのみです。

有名な、皇居の入口にあたる二重橋と伏見櫓

井伊掃部頭が殺害されたいわゆる桜田門外の変の舞台となった桜田門(これは内側から撮影)

外から見た桜田門

桜田門より桜田掘と井伊掃部頭の上屋敷(左側)現在は国会図書館あたりを望む

右が安芸浅野家の上屋敷(警視庁)、左が筑前黒田家の上屋敷(外務省)を見ました。
この坂を霞が関といい、坂の上からは江戸湾が遠望できたといいます。

かつてはこんな風景だったそうです。右の赤い門が浅野家、左の黒いほうが黒田家で、江戸へ来た人々が見に訪れる観光スポットでもあったそうです。(『泥絵で見る大名屋敷』より転載)

そして、福岡藩上屋敷があった場所(外務省)の横にあった潮見坂も見ました。

以前はこんな風景だったそうです。(横浜開港資料館蔵 『城下町江戸』より転載)

この本を片手に江戸を歩きました。しかし、今回歩いたところは、山の手と云われるように、坂の多いこと多いこと・・・地図で見るとすぐ近くと思っても、実際に歩くと高低があって、思うようにたどり着けない。夏目漱石の草枕の一文に、「東京はばかにひろいからねぇ」と髪結処の親方が言っていたのがなんとなくわかったような気がします。
【この日歩いたルート】
何々坂」というように坂が非常に多かったのが東京の印象でした。赤坂と六本木の境あたりをさまよい歩いている時、計らずも福岡藩中屋敷跡と勝海舟の氷川屋敷跡の近くへ行き、こんな坂のある場所に住んでいたのかと、地図では分からない地形を体験しました。今回のルートは、上の地図にあるように、和田倉門→坂下門→桜田門→国会議事堂→霞が関→金比羅社→汐見坂→霊南坂→アークヒルズ→南部坂→氷川坂…表参道駅



前原宿庄屋埴生家について

 縁というのは不思議なもので、私が、このブログに書いていた「埴生喜平次」という人物がネット上で検索され、その子孫の方より電話をいただいたのは、昨年の今頃だった。先日、お預かりしていた文書を整理して返却することができ、今まで全く不明であった前原宿庄屋埴生氏についてだんだん分かってきた。今回は、前原宿庄屋を勤めた埴生氏について書いてみようと思う。

埴生文書によると、埴生家の祖先は、土生修理左京太夫源久(永享八年−明応九年1436-1500)といい、長男が早世したため、次男修理進基義に家督を相続させた。三男の與四郎兵衛源国は、筑前国怡土郷波多江村に怡土郷管掌として分家したが、「土生」と乗ると直統の証となるため遠慮して「埴生」と名乗ったのがその起こりであるという。

よって、この与四郎衛こそが、埴生家の初代と考えられる人物である。その子、埴生大和守與三郎(天正八年三月)は、豊後国大友家に属する小田部因幡守の家人となったと考えられ、大友宗麟より感状を賜り、子の埴生采女は義統よりの感状を受けているが、小田部家滅亡の後は、原田家の家臣となったようである。

その後、江戸時代初期の記録は無く、埴生家系図によると享保五年(1720)に、志摩郡小金丸村に在住していた溝口次郎七という人物が前原宿に出てきて茅野屋という酒造業を営んだと記されている。安永二年(1773)遊行上人が、前原宿に宿泊した記録があり、その際、宿泊所となったのは、御茶屋、茅野屋十蔵、庄屋喜八、組頭喜六、組頭伊兵衛、百姓権蔵、百姓初兵衛の七軒であった。茅野屋十蔵すなわち溝口(埴生)重蔵のことと考えられる。その他の宿泊所について御茶屋は、福岡藩主の別館であり、庄屋喜八は、後に町茶屋を経営することになる津田喜八、組頭喜六は、後に志摩郡の豪商となる綿屋の西原喜六のことである。
 その後、寛保(17411743)の頃に、溝口安兵衛は、姓を溝口から埴生に改め、この頃より前原村庄屋を受け持つようになったと思われる。おそらく埴生家が断絶し、溝口氏が埴生家の菩提も共に祭っていたと考えられる。前原宿では、それまで庄屋であった津田氏が庄屋を退き、一時、志摩郡吉田村の西孫七が入庄屋をしていたが、津田氏は町茶屋守を仰せ付けられ、庄屋には代わって埴生氏が任命されたようである。文化六年(1809)唐津藩主水野和泉守、文化八年(1811)の幕府寺社奉行脇坂中務大輔が前原宿に休泊した際、本陣亭主として埴生喜平次がその接待役として出ている。岡山県矢掛宿本陣の記録によると、唐津藩主が参勤の上下で前原宿を利用する際、その宿は御茶屋であったが、本陣亭主は埴生十蔵という人物であったと記録されている。また、文政十一年(1828)に桜井神社に仰古館という神庫ができた際の寄付名簿には、「前原宿 問屋喜平次」とあり、文政の頃は問屋(人馬継所)を経営していた可能性もある。天保十五(1844)年、前原宿の御茶屋がに焼失し、嘉永元年(1848)その再建に際し、隣接する庄屋重蔵抱え古畠の土地を借り上げ御茶屋内に御寝所を増設するに及び、嘉永三年酉十月、庄屋重蔵は、その褒美として「一代居郡御通駕の節御目通り出方」を仰せ付けられた。
さらに、前原・大浦両村の庄屋となり、辺田浦干拓や、飢饉の際の備えについて、郡奉行より褒美その他を受けている。この時の重蔵は、前原宿最後の関番である萩尾定蔵(可朔)と兄弟関係で、共に吉田村の西家より養子として各家に入り、兄惣五郎(文化六年生まれ)は埴生家に入って重蔵と称し、弟の幾太郎(文化十一年生まれ)は、関番萩尾家に入り、定吉を名乗った。維新後は、第九大区、八小区の副戸長や、前原・大浦村副戸長、前原・大浦・荻浦・新田・浦志村戸長などを勤めており、福岡市平尾市埼町に移住するまで旧前原宿に居住していた。




前原宿に居住の際の埴生家の位置は、現在の油比おもちゃ店の東隣です。

明治33年の旧前原宿(旅籠千副屋の隣が埴生家でした)


問屋場の筋向いに埴生家はありました。

古材の森歴史講座のこと

先週金曜日に行った古材の森歴史講座、
大勢のご参加ありがとうございました。
長々と2時間近くしゃべってしまいました。
「地産地消の歴史」を念頭にお話しする講座。
今回、初めて試みたのですが、好評に付きではなく、
しつこく月一位で開催せねばと思っています。
今回は、前原宿というのがどんな宿場だったのかを
お話しました。つまり、舞台をつくりました。
そこで、次回は、この舞台で実際に演じる人々の
お話をしたいと思います。
主な演目は、唐津藩主の前原宿泊、福岡藩主の通行
幕府役人の通行など。
次回は、伊能忠敬の糸島測量日記をお話するつもりです。
日程が決まったら、またお知らせいたします。
※被写体が自分なので、写真はありません。


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