足軽先生は福岡にいた!

青柳種信肖像より部分(福岡県立図書館蔵)

 

元SUPERBUTTER DOG池田貴史のソロユニット「レキシ」に参加する「いとうせいこう」さんは、レキシネーム足軽先生というが、足軽なのに先生という人物が福岡藩に実在する。福岡藩の足軽で国学者の青柳種信である。

青柳種信は、明和3年(1766)福岡藩足軽鉄砲組の次男として福岡城下に生まれた。江戸藩邸詰の際には、諸国の学者と交わり、国学の大家として有名であった本居宣長の弟子でもあった。福岡では、藩士として島御番や普請方、浦方に勤めるかたわら、『筑前国続風土記附録』の助録を命じられ、次第に国学者としての頭角をあらわしていった。文化9年(1812)には測量のため筑前を訪れた伊能忠敬の案内役を勤め、忠敬から「貴殿程国学に達し候人に逢不申」とも評価されてる。

文化11年(1814)種信は、浦方より御右筆記録方に転じ『筑前国続風土記附録』の再吟味を命じられた。これが後の『筑前国続風土記拾遺』である。『拾遺』は、筑前国内の地理・歴史・古跡などを郡村ごとに記した地誌で、9年以上にも及ぶ調査を終えた文政12年(1829)種信は、藩から地誌編纂の功労を賞され加増を受けるまでになった。

あるとき、幕府の役人が、種信の事を尋ねたが、家老ら藩の上層部は足軽だった彼の事を知らなかったというエピソードがある。

足軽なのに先生ってかっこいいですね。私もかくありたい

 

参考:福岡市博物館


博多町屋について

博多町家について考えてみる。

旧糸島郡前原に残る商家 西原家は、明治34年の大規模な町屋建築で、土間から二階への吹き抜け空間が大きく、朱塗りの欄干が特徴的な建物である。この吹き抜けの作りは珍しいものと思っていたが、櫛田神社前の博多町屋ふるさと館に行った際、同じような朱塗りの欄干が二階に使ってあったので、少し気にするようになった。次に、福岡市東区馬出の箱嶋邸に入ったとき、小規模ながら吹き抜けに朱漆の欄干があり、すぐ下には荒神様が祭ってあったので、これは、博多町屋の特徴なのかもしれないと考えるようになってきた。そして、決め手は、津屋崎の豊村酒造であった。ここの店の間を覗かせてもらった際、吹き抜けに朱漆の欄干、神棚、納戸の戸にも朱漆であり、この/瓩抜けの二階に朱漆の欄干がある。△垢芦爾惑叱佑覇韻舷Г播匹蕕譴討い襦2爾虜舵澆砲録醒が祀ってある。この共通する作りを発見した。その後、訪れた早良区金武の町屋も同じであった。そして、共通するのは建築年が明治34年前後であるという事。建築史を学んではいないが、明治30年代半ばに博多で流行った博多町屋は郊外に残っていることが分かった。

糸島市前原 旧西原邸

福岡市博多区 博多町屋ふるさと館

福岡市東区馬出 箱嶋邸

福津市津屋崎 豊村酒造

金武 ギャラリー花うさぎ
 

 

 

 

 


第10回目の唐津街道サミットを開催しました!

2018年6月9日、今年で10年目で10回目となる唐津街道サミットをついに唐津城下で開催することができました。
唐津街道サミットは、2008年に前原宿で行っていた唐津街道ツアーに、赤間地区コミュニティー運営協議会(赤間宿)の方々が視察に来られるという事で、宿場散策の後、赤間と前原そしてサプライズ的に博多、姪浜宿、門前町高取を呼んで交流会を行ったのが始まりでした。その後、※感銘を受けたと思われる赤間宿の方々が、今度は赤間の赤間宿祭りでサミットを行いましょうということで2回目を行い、その後に続き10年目に10回を開催できたという次第です。

唐津街道の宿場町は、その後商店街となり、現在は経済構造の変化に伴って衰退しています。それぞれの町でなんとか賑わいを取り戻したいとがんばっておられますが、なかなか思うようにいかず、唐津街道という共通のアイデンティティを持ち、点が線になったら、総延長約130Kmの「唐津街道商店街」ができるのではないだろうかと考えてもいました。

サミットと聞いて大きなイベントを想像される方も多いのですが、それぞれの宿場の団体なり個人なりが、それぞれの宿場の自慢をしてもらい(趣向をこらした街並み散策や交流の場を用意して)親交を深めていくという任意の会です。このサミットの開催がきっかけで、箱崎には新たな団体ができたりしたので、地道に活動していてよかったなとも思っています。

唐津では、唐津城の発掘担当の方やNPO唐津ヘリテージ機構の方々も参加していただき、念願だった唐津の方との交流もできました!近年移築された大島邸でのサミット終了後、隣接する唐津大明神にて記念写真を撮りました。ここは、唐津街道を毎年参勤交代で上下していた唐津藩主が道中祈願を行っていた場所なので、第10回目にふさわしい場所となりました。

 

第1回 2008年 11月 前原

第2回 2009年 2月 赤間

第3回 2010年 7月 高取

第4回 2011年 3月 姪浜

第5回 2011年 10月 深江

第6回 2014年 2月 畦町

第7回 2014年 11月 箱崎

第8回 2016年 6月 赤間

第9回 2017年 6月 姪浜

第10回 2018年 6月 唐津

 

 

 

 


箱崎宿について(新道の付け替え)

 箱崎宿は、唐津街道上にあって博多と糟屋郡青柳に継ぐ宿場町であり、敵国降伏の勅額で有名な筥崎宮の東側に位置した場所でもある。近世初期に御笠郡二日市村の庄屋帆足遊元が記した『二日市宿庄屋覚書』によると、「古へは冷水道もなく山家の宿もなく原田宿もなく、上方、長崎の道筋も二日市より箱崎、あるいは二日市より田代、また豊後の方へは甘木まで、只今冷水筋お通りなさる大名様方、皆、二日市お通りなされ候由なり」とあるように、九州の諸大名の多くが通行する長崎街道の開通以前は、箱崎を通って通行していたことが分かる。

 箱崎宿について、改めて調べてみると、元禄の頃までは街道は宿場の中を通っていなかったことが分かった。筑前国続風土記付録』には、古しへの往還筋は、東は原田の南西一町斗より南にして轉して、八幡宮の後に通りて馬出村の東の口に至れり。古道跡今も有。其行程凡八町斗、其間に川二流有て橋を渡せり。寛文三年に宿の東佛華寺の古址を開きて新道を箱崎より直に原田の方へ付け替えたり。寺址の地今は民家となりて新町という」青柳の方から博多に向かって街道を進むと箱崎村の枝郷原田という集落がある。そこから箱崎八幡宮の裏を通って馬出村の東口に向っていたということである。天和の国絵図には赤線で街道が記され、筥崎宮前で直角に折れて多々良川の川幅の狭くなる歩いて渡れる部分を通るように描かれている。

 さらに、『黒田家譜三』によると、「箱崎宿の古道は、御宮の前までゆかずして、御宮の西より右に轉し、弥勒寺(座主坊)の前を経て御宮の後を通路とす。馬継所は、御宮よりはるか東に有て、其の先は道ふさがれり。是に依て往来の路より東の方に入り込て馬を継ぎ、又もとの道を返りて通路に出る故に、旅人の往来に悩み、邑人も労多くして便ならずとて、路を改めたき旨彼所より願し故、去夏其所を絵図に写して江戸に伺われ、今春に至りて古路をととめ、馬継の東に新たに道を開かれしかば、往来の人直に社前を通りて東に行、馬継の前に至り、其東の新路に出る故に、其の往来の便ゆく成ける」

今度は、博多から青柳方面に進む様子が記され、街道を進み筥崎宮の手前で右に折れ、筥崎座主坊(弥勒寺)の前を通り川を二つ渡って原田を通ると『続風土記付録』の逆から通行する様子が記される。

さらに、『黒田家譜』には、人馬継は箱崎村で行っていたため、筥崎宮から右に曲がる街道を直進して箱崎村に入り、そこで人馬継を行って来た道を戻り、街道に出て進むという状況であったという。そこで、元禄五年(1692)に箱崎宿より直接枝郷原田にショートカットできる道を造ることを許可され、ようやく街道が宿場内を通るようになり、宿場として整備されていったのでないかと考えられる。このしばらく前に多々良川河口の干拓工事も行われ、枝郷の原田村もできたため、新道が作られたのではないかと考えられる。

同じように、唐津街道の上の前原や畦町も、街道は村の中を通ってはいないため、強制的に民家を移動して町立されている。

このように、唐津街道のいくつかの宿場町では、元禄期に不便さを理由に民家を強制移転して町立したり、街道を付け替えるようなことが行われたのではないかと考えられる。

 


フィールドミュージアムにおける資料の保存

景観や町並み保存の法律などが一切かかっていない前原宿は、古い建物がいくつか残ってはいるが、持ち主の意向次第ではすぐにでも解体されてなくなってしまうような場所でもある。そんな中、一つの町屋が再生された。老夫婦が二人で住まれている間口が狭く奥行きの長い造りの町屋である。以前より通りの歴史や古い建物のある景観についていろいろな場所で話したり、見せたりしてきたが、持ち主の方がその歴史性を知って、建て直す際にかつての町屋の景観を残しつつ改装された。法的縛りも補助金もないのにかかわらず自発的にこのような佇まいを持つ建物にしてくれた。博物館の三原則の一つに「資料の保存」がある。私は、この通り全体を一つの大きな博物館と考えている。その中での資料の保存とは、住民に通りの歴史性を理解してもらい自発的に行動してくれることにあると思っている。




 

湯太夫 小浜・雲仙紀行

江戸時代、筑前福岡藩内にあった御笠郡武蔵温泉(現在の二日市温泉)は、黒田家の中老(家老になる資格を持つ家)立花勘左衛門の知行地にあり、陪臣(藩主の家臣の家臣)を湯奉行または温泉奉行として管理させていた。
長崎県にある小浜温泉にも同じような温泉の管理者が居たことを知ったので少しまとめてみたい。

小浜温泉は、島原半島の西側にあり、山がそのまま海に入りこんだ地形で、平野はほとんどない。

藩の居城である島原城からは、普賢岳を隔てた反対側にある。
それでも藩主は度々小浜温泉に入浴に来たようで、城を出て南へ(原城方面)下り、山越えして小浜へ行ったり、長崎警備の行き帰りに立ち寄ったという。

この温泉の管理を任されていたのは本多家である。
本多家は、慶長19(1614)年に島原藩主松倉氏に従って三河国から来たといい、藩主より湯太夫として代々温泉の管理を任されていたという。現在は小浜歴史民俗資料館となっている場所が湯太夫の館跡である。

明治になって島原城から買い取ったという長屋門をくぐると、蒸気が高い櫓からもくもくと上がる光景を目にした。これが、小浜温泉の元湯で、ここから各湯壺に温泉を引いていた。この管理をしていたのが湯太夫であった。

現在は資料館として整備されている本多湯太夫の屋敷

まるで城を思わせるような高く立派な石垣。屋敷の前に豊後湯という場所があった。なぜ豊後なのか分からなかったが、ガイドの方に聞くと、入浴中に急死した島原藩主松倉重政の官職が豊後守だったから、その場所を豊後湯と呼んだそうだ。

小浜温泉と雲仙温泉は車で20分程の距離にある。明治になって外国人が多く訪れるようになり、雲仙は避暑地として利用された。その際、利用されたのがチェア駕籠と呼ばれる椅子式の駕籠であった。雲仙に登る途中に駕籠立場があった。

雲仙には加藤氏が藩より雲仙湯守を仰せつけられて管理していたという。

また、現在は廃線となっているが、小浜温泉まで鉄道が通っていた時期があった。
この鉄道の開通によって小浜温泉には多くの人が訪れるようになった。

現在でも駅の跡や

細い切通の跡がそのまま残っている。

小浜温泉へ向かう列車からはこのような光景が見えたのだろう。



 

書いた絵を額装してもらった話

筑紫野市教育委員会が発行する『ちくしの散歩』に2004年に「山家宿の御茶屋」というタイトルで書かせてもらった。その際、間取り図しか残っていない御茶屋の姿をどうにか表現したくて、御茶屋の復元鳥瞰図を描いた。今から10年も前の話である。思い返せば一番最初に触れた印刷物がそれであった。その際、何度も何度も修正を重ねてようやく描いたのがこの図であった。絵具でも色鉛筆でもうまくいかなくて、水彩色鉛筆という色鉛筆で書いて水筆でなぞると絵具ような風合いになるというのが自分に一番しっくりきて、それで書いた一枚であった。
この思い出の絵はパネルに貼って保管していたのだが、落とすたびに角が丸くなるし絵を保護するものもない。それに展示するにも額に入ってないのでかけることもできないでいた。

そんなとき、糸島の二丈浜窪にハナトライフという額装を専門に行うお店があり、思い切って額の制作を頼んでみたのが年末の29日。「この絵にある額をお願いします」と頼んだところ、数ある額縁の中から絵の雰囲気にあった縁の選定から、余白に入れるマット紙の色や材質などを選定し、さながら掛軸の表装をしに表具師の所へ来たような感じであった。

こうして絵が生きるように選ばれて出来上がったのが下の写真である。古材のような雰囲気の額縁に少し緑がかったマット紙をあて、内側には金の縁が入っている。江戸時代末より明治・大正にかけて隆盛を極めた文人や南画家と云われた人たちは、自分で描いた絵を表装してもらっていたが、掛軸の絵を描くことが少なくなった現在、額装してもらいにいきさながら文人の気分を味わったのであった。



 

福岡藩主の西郡巡見

福岡藩の領地であった糸島には、歴代の福岡藩主が領内巡見で訪れました。
今回は、現在人気スポットとして注目を集めている糸島のどの部分を訪れていたのか紹介します。

糸島への巡見は、西郡巡見として行われました。

4代藩主綱政は、歴代藩主の中でも寺社政策に力を入れたことで有名で、桜井神社など領内の寺社へ度々参詣しています。また、6代継高は、雷山に金剛坊(後の大悲王院)を創建してすぐに雷山に登るため糸島を訪れています。

 桜井神社

江戸時代は、興止姫大明神と呼ばれ、慶長15(1611)年の大雨で岩戸が開いたことがきっかけに創建されました。2代藩主忠之はその神威を畏み、寛永年間に本殿・拝殿・楼門など社殿を建立。神宝などを奉納し、その後、宮司家を筑前国中神職の惣司に任命しました。忠之は死後、島岡大明神としてこの神社の祭神に加えられています。以後の歴代藩主の手厚い庇護を受け、藩主が西郡巡見の際には必ず当社を参詣するのが習わしとなっていたようです。
神社には、創建主の2代忠之が寛永年中に奉納したとされる宝物が伝存しています。初代長政が朝鮮出兵の際に晋州城から持ち帰ったと来歴が伝わる寶珠などが含まれ、歴代の福岡藩主は参詣の際、これらの神宝を拝覧していました。殿様が通った桜井の古道は現在「殿様通り」と名付けられています。

楼門

楼門には黒田家の藤巴紋が入ってます。
 

 大口浜

大口海岸は、桜井神社の境内地のひとつで、神社創建当時に2代忠之が寄進した木の鳥居がありましたが、4代綱政がそれを石鳥居に改築したといわれています。この鳥居は津屋崎からわざわざ石材を調達したと伝えられているものです。綱政が寄進した鳥居は昭和5年に倒壊し、現在は根元の部分だけ残っています。

 

西浦の鯛網漁

志摩郡の北端に位置する西浦は、古来より鯛網漁で有名な浦です。当地での鯛網漁の始まりは元文2(1738)年とされ、安永2(1778)年より明治期にいたるまで黒田家に鯛を献上したとされています。鯛網の漁法は、古来は地引網でしたが、明治期になって揚操網へと変わりました。
 

大祖神社

芥屋大門脇に位置し、創立年代は不詳ですが、承和元(834)年奉献銘のある石灯籠、文明13(1481)年の社殿再建の棟札などがあったとの記録があり、古社であったことが伺えます。

 塩土神社

芥屋の集落内にあり、塩土翁と大山咋神を祀っています。宝暦4(1754)年、芥屋村の柴田氏妻女が神懸りし、占いがよく当たるということで評判となり小祠が建立されました。特に農作の病害虫守り札受けに郡内外から多数の参詣があったといわれています。天明5(1785)年に九代藩主斎隆が奉行の花房佐兵衛に命じて御供米を寄進し、その後、寛政6(1794)年に自らも参詣しています。

 大庄屋鎌田家

江戸時代初期より志摩郡の西部分にあたる御床触の大庄屋をつとめていました。同家には4代綱政や10代斎清が立ち寄って休憩したと伝えられ、煙草入れや茶碗など黒田家より拝領した文物が伝来しています。
 

六所神社

江戸時代は志摩郡の総社で、樹齢800年の大楠があることで有名です。戦国時代に兵乱で荒廃していましたが、慶安3(1650)年に2代忠之が社殿を再建し、次いで貞享3(1686)年に3台光之、元禄16(1703)年に4代綱政が補修したといわれています。

 志登神社

延喜式神名帳に記載された糸島唯一の式内社です。元禄3(1690)年に光之が社殿を再建しており、宝永4(1707)年に4代綱政、享保2(1717)年に5代宣政が石鳥居を建立しています。

 染井神社

染井神社は、熊野権現社と呼ばれ、熊野三神や豊玉姫、神功皇后を祀っています。境内地に神功皇后伝承にまつわる染井の井戸や鎧掛松があり、怡土七ヶ寺の一つである染井山霊鷲寺の故地としても知られている場所です。染井の井戸には、寛延4(1751)年に郡奉行永田清十郎が石鳥居や玉垣を寄進し、6代継高は、染井井戸の神水を汲んで「濁りなく昔をうつす鏡とはけふぞ初て三染井の水」との歌を詠んだといわれています。

 如意輪観音堂

現在の高祖如意にある日蓮宗妙立寺は、寛永11(1634)年に日芳和尚により創建されましたが、それ以前に如意輪観音を本尊とする如意寺があったといわれています。観音堂の下には貝原益軒により名付けられた「動響ノ滝」と名付けられた滝があり、九代斎隆は寛政6(1794)年にこの滝を見に当地に立ち寄っています。
 

 

高祖神社

怡土郡の郡社で、彦火々出見尊、玉依姫、神功皇后を祀っています。寛文2(1662)年に3代光之が社殿を補修し、元禄6(1693)4代綱政が石鳥居を寄進、後に参道を補修しています。

 金龍寺

太祖山金龍寺は、永正5(1808)年に高祖城城主の原田氏によって創建され、原田家代々の菩提寺となってきた寺です。慶長16(1611)年、社地を福岡荒戸山に移すことになりましたが、旧地にも残され今日に至っています。金龍寺には、初代長政の次男で怡土郡内に1万石を与えられて井原村に居住していた黒田甚四郎政冬の墓所があります。

大悲王院

雷山には清賀上人建立とされる雷山千如寺があり、中世には多くの僧坊がありましたが江戸時代には仲之坊など3坊を残すのみとなっていました。宝暦3(1758)年、6代継高が金剛坊(後の大悲王院)とを開創し、本堂や書院を整備し再興されました。

雷神社

現在の雷神社境内は、もともと雷山中宮跡であり、雷山全体の中心であったと考えられる場所です。雷山の社寺は6代継高によって宝暦年間に再興されました。現在、雷山上宮跡にある石祠はいずれも宝暦3(1758)年に継高が建立したものです。継高は、雷山が再興されて間もない宝暦5(1775)年に同地を訪れ、自らが命じて整備した雷山の社寺を見学しています。

糸島の名産品

明和8(1771)年に7代藩主治之が前原宿に宿泊した時、隠居していた父継高のもとへワラビやウドなどの山菜やシジミ貝を贈った記録があります。特に雷山川河口で採れるシジミ貝は前原宿で休憩した幕府役人にも献上された記録があり、このあたりの名産であったことが伺えます。


※内容は、2014年に志摩歴史資料館で開催された展示会の内容を引用しています。


六本松越えのルートについて

六本松越えとは

長崎街道や日田街道を通行する諸大名や幕府役人は、途中、必ずといっていいほど太宰府天満宮へ参詣をしていました。その際、長崎街道から太宰府へ頻繁に使用された道があり「六本松越え」と呼ばれていました。長崎街道、日田街道、薩摩街道から天満宮へ行くには最短ルートであるため、かなり多くの大名が利用したことが記録に残っており、福岡藩主も山家宿からの参詣の時はよく利用していました。

 

六本松越えのルート

長崎街道を通行の大名が六本松越えをして宰府に行くには、まず長崎街道杉馬場を過ぎて、長崎街道方向ではなく、左に曲がり日田街道を通ります。そして、鞭掛という集落にあるかつて筑紫氏の出城であった柴田城の脇を通り、天山集落を過ぎて宝満川沿いを上流に向かいます。宝満川が丘陵に差し掛かかった場所に「六本松」というバス停があり、かつてはここに追分石があったそうですが、ゴルフ場造成のため現在は取り除かれて所在不明となっているそうです。ここから峠を越えて太宰府に向かいます。六本松越えとはこの峠越えの事をいい、高雄山の山頂付近を通って太宰府の延寿王院、もしくは溝尻口に到達します。当時、道はかなり細い山道であっただろうと推測されます。はっきりしないのは、鞭掛から川沿いを通って六本松に到達する道と、宝満川を渡って小鳥持から牛島集落を通って六本松に到達する道があり、どちらも太宰府参詣道と呼ばれているため、主にどちらを通行したのかは不明です。しかし、前者を通行した方が最短であるため、主にはこの道を通行したのでしょう。また、天保7年薩摩藩主松平渓山一行が通行する先触で、道筋の「仮橋御仕置」を命じており、日田街道の宝満川は「飛石」があるので必要なく、少し上流に仮橋を掛ける必要があったと考えられるので前者を通行したと思われます。

日田街道より天山のほうに向かう道。角に天満宮への石灯籠がある。

 
ここが六本松で、この道を進んで高雄山の峠越えしていたが現在は行き止まりとなっている。
太宰府側よりみた六本松越えの峠(高雄山)
 

現在の六本松越え

現在、長崎街道より六本松に至る道はほぼ残っていますが、肝心の六本松の峠声はゴルフ場になっているためほとんど残っていません。明治35年の地図と、現在の地図を重ね合わせてみると、道は太宰府市と筑紫野市との境界付近を通っていたことがわかり、また、現在筑紫女学園大学の横を通る急カーブする道(通称:泣き別れ)はかつての道の名残であり、九州国立博物館駐車場横の細い道(太郎左近口)を通ると天満宮境内・延寿王院に直接行くことができ、直進すると溝尻口となります。慶応二年七月には太郎近口に関門が設置されたため、溝尻口まで行かずに境内に入っていたことが分かります。


明治の漁港の古写真 唐泊

私が所蔵している明治の古写真のうち、港が写されている写真がいくつかある。
おそらく糸島周辺の風景だろうと思うが、なかなか決め手がなくてどこの風景か分からないでいる。その中で、最近になって急に分かってきた古写真があった。

この写真は、手前の砂浜に船が上がっており、左側の松の生えた丘は社のようなものがあって幟が立っている。その先には石積みの防波堤となっており、その先には島影が少し見える。比較的静かな海といった印象と、近いところに島が見えるという点で、野北や西浦、芥屋などの外海に面した港ではないと推測する。また、岐志や船越でもなさそうで、波止の先に見える島は能古島ではないかという仮説をたてて候補としたのが唐泊であった。こういう推測をしたとき、居ても立ってもおられなくなるのが私の性分で、つぎの日、早速現地へ赴くことにした。

現地へ到着すると、100年前と比べて埋め立てがかなり進んでおり、この写真の特徴であった石積みの島は跡形も無くなっていた。しかし、写真に写っていた石積みの波止と社があった丘はあり、その丘には恵比須神社があったことも分かった。幟が上がっていたのは恵比須神社だったのである。

なによりも決め手となったのは、波止の先に見える能古島の島影で、このことからこの写真は唐泊であるとの推測はほぼ間違いないと思った。

また石積みの波止は、石が綺麗なのが気にはなるが、かなり昔からあったと思われる。福岡藩の記録によると、この波止は、江戸時代初期に築かれその後崩壊したが、再度積みなおされ江戸時代後期の絵図には描かれている。

岬の突端部分にあった恵比須神社は崖崩れでも起こしたのだろうか、丘から下に下ろされてプレハブ小屋のようになっていた。それでも地形を見ると当時の地形が分かる。

唐泊港を少し散策してみた。港は海岸線(現在は道路)に沿って家が並び、奥に向かって傾斜に家々が並んでおり尾道のような風景の町である。その一番奥の高台には臨済宗唐泊山東林寺がある。古くから韓泊と呼ばれ天然の良好であった唐泊港を見下ろすように建てられ、文治三(1187)年に宋から帰国した栄西によって開かれたとされる。


ここからは、かつて貝原益軒が『筑前国続風土記』に「小高きところに立たる寺なれば、遠望朗かにして佳景の地なり」と記した風景を今も望むことができる。遠くには今津の毘沙門山を望むことができた。

東林寺にあった説明看板には、唐泊の古図が掲載されており、江戸時代の唐泊の様子がよく分かる。この図を見ると、岬の突端に恵比須神社があり、その下から波止が伸び、砂浜に面して岩場が見える。古写真に写っていた松の生えた岩場はこの図で確認することができた。この図には岩場の名称が古波止と記されている。昔の波止は、現在のように舟を係留するためのものではなく岩場がその名のとおり波を止める「波止」の役割を果たしていたようだ。


 

calendar
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< November 2018 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
recent comment
recommend
recommend
recommend
recommend
福岡地方史研究 第49号
福岡地方史研究 第49号 (JUGEMレビュー »)

福岡藩主の前原宿泊を所収しています
recommend
recommend
recommend
recommend
recommend
福岡地方史研究 47号
福岡地方史研究 47号 (JUGEMレビュー »)

唐津藩主の前原宿泊を所収しています
recommend
福岡地方史研究〈45〉
福岡地方史研究〈45〉 (JUGEMレビュー »)
福岡地方史研究会
福岡藩旅籠屋屋号帳を所収しています。
recommend
福岡地方史研究〈46〉
福岡地方史研究〈46〉 (JUGEMレビュー »)

福岡藩主のおもてなし作法を所収しています。
recommend
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM