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  • 2020.01.04 Saturday
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三田尻港と長州藩の御茶屋

「周防三田尻は、幕末における長州藩の軍港である」

司馬遼太郎の『街道をゆく長州路』に三田尻港の事がこう書かれている。

戦国の瀬戸内水軍の末裔どもを吸収して江戸体制に入った長州藩も、中心地を萩に追いやられたため、交通の要衝である瀬戸内での活動が藩主のお膝元でできなかった。そのため、三田尻に港を整備して瀬戸内方面の拠点としていた。

長州は、長い海岸線を瀬戸内海に於いて持っているが、幕末期ともなると、薩摩藩や佐賀藩の汽船や軍艦が波をけって東西を往復してゆくのをうらやましく見ていたのであろう。そんな空気感が萩とは違って三田尻にはあった。

長州の毛利公は、萩往還を通ってよく三田尻に来ていたらしい。

その目的の一つに三田尻の近くにある防府天満宮への参詣がある。

防府天満宮からは港へと道が続いており、萩往還の終着点であり

藩主の別邸である三田尻御茶屋を中心に長州藩の軍港である御船蔵が広がっている。

三田尻御茶屋は、承応三年(1654)二代藩主綱広の時に設けられた。

今は建物の一部しか現存していないが、七代藩主重就は隠居後に

この御茶屋に住んだため大規模に増築された時があったという。

三田尻の繁栄はこの天明期に一度訪れたにちがいない。

表御門

檜皮葺きの二階建て

二階の座敷には、幕末都落ちした五卿の一人三条実美による大観楼の

額が飾られていた。

御茶屋より歩いてすぐの場所にある御船蔵

かつて長州藩の軍船が停泊していたことを想像すると感に堪えない。

この場所から、瀬戸内海を東西する薩摩の軍艦をうらやましく見ていた

長州人を想像してしまう。

公園にわずかに残る堀の跡と説明看板によって御船蔵であったことが

伺えるが、兵どもが夢のあとである。

御船蔵周辺は、はるか沖まで埋め立てられ、昔の風景を感じる場所ではなくなったが

海のほうまで足を延ばすと、かつて瀬戸内の水軍であった毛利家の事を思わずには居られなかった。

防長三関といわれた下関、中関、上関の一つ中関は、この三田尻一体だったのである。

この埋め立てた場所では長州三白の一つであった塩を生産していた塩田が広がっていた。

 

 


前原宿での下宿割

毎年参勤の上下で通行する唐津藩主のほか、それほど多くの通行が無かった前原宿には、旅館業である旅籠はそれほどなく、一般の民家が宿泊先に充てられている。いくつかの資料から、通行があった際に下宿となった家の名前を見つけることができたため、年代ごとに並べてみることにする。

 

安永二年(1773)

遊行上人が福岡より姪浜を通って唐津に向かう際に前原宿に宿泊している。津田作左衛門が受け持っていた町茶屋は天明三年にできたため、それ以前の記録である。

御茶屋     遊行上人ほか23名

茅野屋十蔵   東陽院ほか7名

庄屋喜八    修領軒ほか7名

組頭喜六    興徳院ほか6名

組頭伊兵衛   洞雲院ほか7名

百姓権蔵    手廻12名

百姓初兵衛   長持・荷物

 

文化八年(1811)

幕府寺社奉行の脇坂中務大輔が朝鮮通信使聘礼のために対馬へ渡る途中、前原宿で休憩している。

御茶屋     脇坂中務大輔

町茶屋     脇坂玄蕃

又六      塩山猪左衛門

玄蔵      横田小一右衛門

藤三郎     井上与三左衛門

与一      脇坂彦兵衛

与三郎     平井舎人

春山      西村雅衛

 

文化十二年(1815)

唐津藩主水野忠邦一行が参勤の途中に前原宿に宿泊した際の下宿割

御茶屋     水野忠邦

町茶屋     家老

又六      柘植平助ほか13名

只次      高宮伊助ほか9名

藤三郎・藤七  藩士3名ほか13名

伊蔵      藩士4名ほか10名

儀蔵      藩士4名ほか8名

甚六      藩士4名ほか8名

孫助      藩士6名ほか7名

与吉      藩士6名ほか7名

千吉      足軽10名


上松山について

かつて、前原宿の東には「上松山・上町山」という山があったという事がだんだんと分かってきた。

現在、旧宿場の東口より福岡方面を見ると、高台から見下ろすような感じで、建物さえ建っていなければ遠く浦志や潤まで見通せそうな感覚を覚える。がしかし、当時は、宿場の東構口を出ると、一度下ってさらに上がるというような起伏のある地形で、丘陵上には松が生い茂り見通しは利かなかった。これは、例えば前原宿を舞台とした映画やドラマを撮影することになった場合、重要な背景の一部分となる。

さて、そもそもこの上町山という山があったというのが分かってきたのは、文化八年に朝鮮通信使の応接のため、副使として対馬へ渡海した脇坂中務大輔の休憩の記録からであった。当時、前原宿では一行を迎え入れるために準備が行われ、遠見の者という連絡係を三か所に配置して行列の進行を知ったのである。その記録には「一番 池田川、二番 潤川、三番 上松山」と記され、前原宿の東側にある現在の瑞梅寺川、雷山川、そして上町山に遠見が置かれたことが分かる。

もう少し調べてみると、前原宿を描いた2枚の絵図があり、1枚は『前原町誌』に掲載される明治になって聞き取りをして作成した図、もう1枚は糸島高校に所蔵される福岡藩の分限方が測量して作成した図である。

明治に入り聞き取りによって作成された図には、宿場の東(右)を出ると山があり薬師様が祀られてていたことがわかる。

江戸時代の絵図には山のようには描かれていないものの、松が生い茂る場所であったことが分かる。

この上町山、明治42年に糸島郡加布里より福岡の今川橋まで北筑軌道が通り、おそらく少し開削されたであろうが、この軌道に乗っていた人の記憶には、車両に人が乗ると坂を上らないのでお客さんが後ろから押していたという。かなりの急坂であったことが分かる。

上町山が写っている写真もあった。これは明治34年頃に綿屋西原家の裏側にあった三階建ての建物から公会堂を望むという写真である。公会堂は今の前原郵便局の場所にあった。茅葺が多く並ぶ中に瓦葺の立派な建物が写っている。その先に松が生い茂る場所がある。ここが上町山である。写真の正面より少し左側に松の切れ間があるが、この部分が唐津街道であろう。

この上町山には、前原高等小学校が置かれ、その後女学校となり現在は伊都文化会館となっている。現在でもこの付近は坂であり、気を付けて歩いてみると、その高低差が分かる。

また、上町山と宿場のある丘陵の間は谷になっており、狭いながらも田地となっていた。明治33年頃に写された写真が残っており、道の両側は急に低くなっていることが分かる。時期は特定できないが、道の部分は普請して丘陵と丘陵を繋いでいたと考えられる。

以上、見てきたように、前原宿自体が丘陵に位置し、その東側には谷を渡って丘を越えてゆかねばならなかったという事が分かってきた。参勤交代の行列が前原宿を出発した時、行列の先頭を行く先払の目には、広がる田んぼではなく、松の生い茂る丘があり、それを超えると田んぼが広がっていたという光景であったという事が想像できる。

上町山を越えたら浦志、潤を見通すようにこのような風景が広がっていたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 


足軽先生は福岡にいた!

青柳種信肖像より部分(福岡県立図書館蔵)

 

元SUPERBUTTER DOG池田貴史のソロユニット「レキシ」に参加する「いとうせいこう」さんは、レキシネーム足軽先生というが、足軽なのに先生という人物が福岡藩に実在する。福岡藩の足軽で国学者の青柳種信である。

青柳種信は、明和3年(1766)福岡藩足軽鉄砲組の次男として福岡城下に生まれた。江戸藩邸詰の際には、諸国の学者と交わり、国学の大家として有名であった本居宣長の弟子でもあった。福岡では、藩士として島御番や普請方、浦方に勤めるかたわら、『筑前国続風土記附録』の助録を命じられ、次第に国学者としての頭角をあらわしていった。文化9年(1812)には測量のため筑前を訪れた伊能忠敬の案内役を勤め、忠敬から「貴殿程国学に達し候人に逢不申」とも評価されてる。

文化11年(1814)種信は、浦方より御右筆記録方に転じ『筑前国続風土記附録』の再吟味を命じられた。これが後の『筑前国続風土記拾遺』である。『拾遺』は、筑前国内の地理・歴史・古跡などを郡村ごとに記した地誌で、9年以上にも及ぶ調査を終えた文政12年(1829)種信は、藩から地誌編纂の功労を賞され加増を受けるまでになった。

あるとき、幕府の役人が、種信の事を尋ねたが、家老ら藩の上層部は足軽だった彼の事を知らなかったというエピソードがある。

足軽なのに先生ってかっこいいですね。私もかくありたい

 

参考:福岡市博物館


博多町屋について

博多町家について考えてみる。

旧糸島郡前原に残る商家 西原家は、明治34年の大規模な町屋建築で、土間から二階への吹き抜け空間が大きく、朱塗りの欄干が特徴的な建物である。この吹き抜けの作りは珍しいものと思っていたが、櫛田神社前の博多町屋ふるさと館に行った際、同じような朱塗りの欄干が二階に使ってあったので、少し気にするようになった。次に、福岡市東区馬出の箱嶋邸に入ったとき、小規模ながら吹き抜けに朱漆の欄干があり、すぐ下には荒神様が祭ってあったので、これは、博多町屋の特徴なのかもしれないと考えるようになってきた。そして、決め手は、津屋崎の豊村酒造であった。ここの店の間を覗かせてもらった際、吹き抜けに朱漆の欄干、神棚、納戸の戸にも朱漆であり、この/瓩抜けの二階に朱漆の欄干がある。△垢芦爾惑叱佑覇韻舷Г播匹蕕譴討い襦2爾虜舵澆砲録醒が祀ってある。この共通する作りを発見した。その後、訪れた早良区金武の町屋も同じであった。そして、共通するのは建築年が明治34年前後であるという事。建築史を学んではいないが、明治30年代半ばに博多で流行った博多町屋は郊外に残っていることが分かった。

糸島市前原 旧西原邸

福岡市博多区 博多町屋ふるさと館

福岡市東区馬出 箱嶋邸

福津市津屋崎 豊村酒造

金武 ギャラリー花うさぎ
 

 

 

 

 


第10回目の唐津街道サミットを開催しました!

2018年6月9日、今年で10年目で10回目となる唐津街道サミットをついに唐津城下で開催することができました。
唐津街道サミットは、2008年に前原宿で行っていた唐津街道ツアーに、赤間地区コミュニティー運営協議会(赤間宿)の方々が視察に来られるという事で、宿場散策の後、赤間と前原そしてサプライズ的に博多、姪浜宿、門前町高取を呼んで交流会を行ったのが始まりでした。その後、※感銘を受けたと思われる赤間宿の方々が、今度は赤間の赤間宿祭りでサミットを行いましょうということで2回目を行い、その後に続き10年目に10回を開催できたという次第です。

唐津街道の宿場町は、その後商店街となり、現在は経済構造の変化に伴って衰退しています。それぞれの町でなんとか賑わいを取り戻したいとがんばっておられますが、なかなか思うようにいかず、唐津街道という共通のアイデンティティを持ち、点が線になったら、総延長約130Kmの「唐津街道商店街」ができるのではないだろうかと考えてもいました。

サミットと聞いて大きなイベントを想像される方も多いのですが、それぞれの宿場の団体なり個人なりが、それぞれの宿場の自慢をしてもらい(趣向をこらした街並み散策や交流の場を用意して)親交を深めていくという任意の会です。このサミットの開催がきっかけで、箱崎には新たな団体ができたりしたので、地道に活動していてよかったなとも思っています。

唐津では、唐津城の発掘担当の方やNPO唐津ヘリテージ機構の方々も参加していただき、念願だった唐津の方との交流もできました!近年移築された大島邸でのサミット終了後、隣接する唐津大明神にて記念写真を撮りました。ここは、唐津街道を毎年参勤交代で上下していた唐津藩主が道中祈願を行っていた場所なので、第10回目にふさわしい場所となりました。

 

第1回 2008年 11月 前原

第2回 2009年 2月 赤間

第3回 2010年 7月 高取

第4回 2011年 3月 姪浜

第5回 2011年 10月 深江

第6回 2014年 2月 畦町

第7回 2014年 11月 箱崎

第8回 2016年 6月 赤間

第9回 2017年 6月 姪浜

第10回 2018年 6月 唐津

 

 

 

 


箱崎宿について(新道の付け替え)

 箱崎宿は、唐津街道上にあって博多と糟屋郡青柳に継ぐ宿場町であり、敵国降伏の勅額で有名な筥崎宮の東側に位置した場所でもある。近世初期に御笠郡二日市村の庄屋帆足遊元が記した『二日市宿庄屋覚書』によると、「古へは冷水道もなく山家の宿もなく原田宿もなく、上方、長崎の道筋も二日市より箱崎、あるいは二日市より田代、また豊後の方へは甘木まで、只今冷水筋お通りなさる大名様方、皆、二日市お通りなされ候由なり」とあるように、九州の諸大名の多くが通行する長崎街道の開通以前は、箱崎を通って通行していたことが分かる。

 箱崎宿について、改めて調べてみると、元禄の頃までは街道は宿場の中を通っていなかったことが分かった。筑前国続風土記付録』には、古しへの往還筋は、東は原田の南西一町斗より南にして轉して、八幡宮の後に通りて馬出村の東の口に至れり。古道跡今も有。其行程凡八町斗、其間に川二流有て橋を渡せり。寛文三年に宿の東佛華寺の古址を開きて新道を箱崎より直に原田の方へ付け替えたり。寺址の地今は民家となりて新町という」青柳の方から博多に向かって街道を進むと箱崎村の枝郷原田という集落がある。そこから箱崎八幡宮の裏を通って馬出村の東口に向っていたということである。天和の国絵図には赤線で街道が記され、筥崎宮前で直角に折れて多々良川の川幅の狭くなる歩いて渡れる部分を通るように描かれている。

 さらに、『黒田家譜三』によると、「箱崎宿の古道は、御宮の前までゆかずして、御宮の西より右に轉し、弥勒寺(座主坊)の前を経て御宮の後を通路とす。馬継所は、御宮よりはるか東に有て、其の先は道ふさがれり。是に依て往来の路より東の方に入り込て馬を継ぎ、又もとの道を返りて通路に出る故に、旅人の往来に悩み、邑人も労多くして便ならずとて、路を改めたき旨彼所より願し故、去夏其所を絵図に写して江戸に伺われ、今春に至りて古路をととめ、馬継の東に新たに道を開かれしかば、往来の人直に社前を通りて東に行、馬継の前に至り、其東の新路に出る故に、其の往来の便ゆく成ける」

今度は、博多から青柳方面に進む様子が記され、街道を進み筥崎宮の手前で右に折れ、筥崎座主坊(弥勒寺)の前を通り川を二つ渡って原田を通ると『続風土記付録』の逆から通行する様子が記される。

さらに、『黒田家譜』には、人馬継は箱崎村で行っていたため、筥崎宮から右に曲がる街道を直進して箱崎村に入り、そこで人馬継を行って来た道を戻り、街道に出て進むという状況であったという。そこで、元禄五年(1692)に箱崎宿より直接枝郷原田にショートカットできる道を造ることを許可され、ようやく街道が宿場内を通るようになり、宿場として整備されていったのでないかと考えられる。このしばらく前に多々良川河口の干拓工事も行われ、枝郷の原田村もできたため、新道が作られたのではないかと考えられる。

同じように、唐津街道の上の前原や畦町も、街道は村の中を通ってはいないため、強制的に民家を移動して町立されている。

このように、唐津街道のいくつかの宿場町では、元禄期に不便さを理由に民家を強制移転して町立したり、街道を付け替えるようなことが行われたのではないかと考えられる。

 


フィールドミュージアムにおける資料の保存

景観や町並み保存の法律などが一切かかっていない前原宿は、古い建物がいくつか残ってはいるが、持ち主の意向次第ではすぐにでも解体されてなくなってしまうような場所でもある。そんな中、一つの町屋が再生された。老夫婦が二人で住まれている間口が狭く奥行きの長い造りの町屋である。以前より通りの歴史や古い建物のある景観についていろいろな場所で話したり、見せたりしてきたが、持ち主の方がその歴史性を知って、建て直す際にかつての町屋の景観を残しつつ改装された。法的縛りも補助金もないのにかかわらず自発的にこのような佇まいを持つ建物にしてくれた。博物館の三原則の一つに「資料の保存」がある。私は、この通り全体を一つの大きな博物館と考えている。その中での資料の保存とは、住民に通りの歴史性を理解してもらい自発的に行動してくれることにあると思っている。




 

湯太夫 小浜・雲仙紀行

江戸時代、筑前福岡藩内にあった御笠郡武蔵温泉(現在の二日市温泉)は、黒田家の中老(家老になる資格を持つ家)立花勘左衛門の知行地にあり、陪臣(藩主の家臣の家臣)を湯奉行または温泉奉行として管理させていた。
長崎県にある小浜温泉にも同じような温泉の管理者が居たことを知ったので少しまとめてみたい。

小浜温泉は、島原半島の西側にあり、山がそのまま海に入りこんだ地形で、平野はほとんどない。

藩の居城である島原城からは、普賢岳を隔てた反対側にある。
それでも藩主は度々小浜温泉に入浴に来たようで、城を出て南へ(原城方面)下り、山越えして小浜へ行ったり、長崎警備の行き帰りに立ち寄ったという。

この温泉の管理を任されていたのは本多家である。
本多家は、慶長19(1614)年に島原藩主松倉氏に従って三河国から来たといい、藩主より湯太夫として代々温泉の管理を任されていたという。現在は小浜歴史民俗資料館となっている場所が湯太夫の館跡である。

明治になって島原城から買い取ったという長屋門をくぐると、蒸気が高い櫓からもくもくと上がる光景を目にした。これが、小浜温泉の元湯で、ここから各湯壺に温泉を引いていた。この管理をしていたのが湯太夫であった。

現在は資料館として整備されている本多湯太夫の屋敷

まるで城を思わせるような高く立派な石垣。屋敷の前に豊後湯という場所があった。なぜ豊後なのか分からなかったが、ガイドの方に聞くと、入浴中に急死した島原藩主松倉重政の官職が豊後守だったから、その場所を豊後湯と呼んだそうだ。

小浜温泉と雲仙温泉は車で20分程の距離にある。明治になって外国人が多く訪れるようになり、雲仙は避暑地として利用された。その際、利用されたのがチェア駕籠と呼ばれる椅子式の駕籠であった。雲仙に登る途中に駕籠立場があった。

雲仙には加藤氏が藩より雲仙湯守を仰せつけられて管理していたという。

また、現在は廃線となっているが、小浜温泉まで鉄道が通っていた時期があった。
この鉄道の開通によって小浜温泉には多くの人が訪れるようになった。

現在でも駅の跡や

細い切通の跡がそのまま残っている。

小浜温泉へ向かう列車からはこのような光景が見えたのだろう。



 

書いた絵を額装してもらった話

筑紫野市教育委員会が発行する『ちくしの散歩』に2004年に「山家宿の御茶屋」というタイトルで書かせてもらった。その際、間取り図しか残っていない御茶屋の姿をどうにか表現したくて、御茶屋の復元鳥瞰図を描いた。今から10年も前の話である。思い返せば一番最初に触れた印刷物がそれであった。その際、何度も何度も修正を重ねてようやく描いたのがこの図であった。絵具でも色鉛筆でもうまくいかなくて、水彩色鉛筆という色鉛筆で書いて水筆でなぞると絵具ような風合いになるというのが自分に一番しっくりきて、それで書いた一枚であった。
この思い出の絵はパネルに貼って保管していたのだが、落とすたびに角が丸くなるし絵を保護するものもない。それに展示するにも額に入ってないのでかけることもできないでいた。

そんなとき、糸島の二丈浜窪にハナトライフという額装を専門に行うお店があり、思い切って額の制作を頼んでみたのが年末の29日。「この絵にある額をお願いします」と頼んだところ、数ある額縁の中から絵の雰囲気にあった縁の選定から、余白に入れるマット紙の色や材質などを選定し、さながら掛軸の表装をしに表具師の所へ来たような感じであった。

こうして絵が生きるように選ばれて出来上がったのが下の写真である。古材のような雰囲気の額縁に少し緑がかったマット紙をあて、内側には金の縁が入っている。江戸時代末より明治・大正にかけて隆盛を極めた文人や南画家と云われた人たちは、自分で描いた絵を表装してもらっていたが、掛軸の絵を描くことが少なくなった現在、額装してもらいにいきさながら文人の気分を味わったのであった。



 

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