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  • 2016.10.30 Sunday
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箱崎宿について(新道の付け替え)

 箱崎宿は、唐津街道上にあって博多と糟屋郡青柳に継ぐ宿場町であり、敵国降伏の勅額で有名な筥崎宮の東側に位置した場所でもある。近世初期に御笠郡二日市村の庄屋帆足遊元が記した『二日市宿庄屋覚書』によると、「古へは冷水道もなく山家の宿もなく原田宿もなく、上方、長崎の道筋も二日市より箱崎、あるいは二日市より田代、また豊後の方へは甘木まで、只今冷水筋お通りなさる大名様方、皆、二日市お通りなされ候由なり」とあるように、九州の諸大名の多くが通行する長崎街道の開通以前は、箱崎を通って通行していたことが分かる。

 箱崎宿について、改めて調べてみると、元禄の頃までは街道は宿場の中を通っていなかったことが分かった。筑前国続風土記付録』には、古しへの往還筋は、東は原田の南西一町斗より南にして轉して、八幡宮の後に通りて馬出村の東の口に至れり。古道跡今も有。其行程凡八町斗、其間に川二流有て橋を渡せり。寛文三年に宿の東佛華寺の古址を開きて新道を箱崎より直に原田の方へ付け替えたり。寺址の地今は民家となりて新町という」青柳の方から博多に向かって街道を進むと箱崎村の枝郷原田という集落がある。そこから箱崎八幡宮の裏を通って馬出村の東口に向っていたということである。天和の国絵図には赤線で街道が記され、筥崎宮前で直角に折れて多々良川の川幅の狭くなる歩いて渡れる部分を通るように描かれている。

 さらに、『黒田家譜三』によると、「箱崎宿の古道は、御宮の前までゆかずして、御宮の西より右に轉し、弥勒寺(座主坊)の前を経て御宮の後を通路とす。馬継所は、御宮よりはるか東に有て、其の先は道ふさがれり。是に依て往来の路より東の方に入り込て馬を継ぎ、又もとの道を返りて通路に出る故に、旅人の往来に悩み、邑人も労多くして便ならずとて、路を改めたき旨彼所より願し故、去夏其所を絵図に写して江戸に伺われ、今春に至りて古路をととめ、馬継の東に新たに道を開かれしかば、往来の人直に社前を通りて東に行、馬継の前に至り、其東の新路に出る故に、其の往来の便ゆく成ける」

今度は、博多から青柳方面に進む様子が記され、街道を進み筥崎宮の手前で右に折れ、筥崎座主坊(弥勒寺)の前を通り川を二つ渡って原田を通ると『続風土記付録』の逆から通行する様子が記される。

さらに、『黒田家譜』には、人馬継は箱崎村で行っていたため、筥崎宮から右に曲がる街道を直進して箱崎村に入り、そこで人馬継を行って来た道を戻り、街道に出て進むという状況であったという。そこで、元禄五年(1692)に箱崎宿より直接枝郷原田にショートカットできる道を造ることを許可され、ようやく街道が宿場内を通るようになり、宿場として整備されていったのでないかと考えられる。このしばらく前に多々良川河口の干拓工事も行われ、枝郷の原田村もできたため、新道が作られたのではないかと考えられる。

同じように、唐津街道の上の前原や畦町も、街道は村の中を通ってはいないため、強制的に民家を移動して町立されている。

このように、唐津街道のいくつかの宿場町では、元禄期に不便さを理由に民家を強制移転して町立したり、街道を付け替えるようなことが行われたのではないかと考えられる。

 


フィールドミュージアムにおける資料の保存

景観や町並み保存の法律などが一切かかっていない前原宿は、古い建物がいくつか残ってはいるが、持ち主の意向次第ではすぐにでも解体されてなくなってしまうような場所でもある。そんな中、一つの町屋が再生された。老夫婦が二人で住まれている間口が狭く奥行きの長い造りの町屋である。以前より通りの歴史や古い建物のある景観についていろいろな場所で話したり、見せたりしてきたが、持ち主の方がその歴史性を知って、建て直す際にかつての町屋の景観を残しつつ改装された。法的縛りも補助金もないのにかかわらず自発的にこのような佇まいを持つ建物にしてくれた。博物館の三原則の一つに「資料の保存」がある。私は、この通り全体を一つの大きな博物館と考えている。その中での資料の保存とは、住民に通りの歴史性を理解してもらい自発的に行動してくれることにあると思っている。




 

湯太夫 小浜・雲仙紀行

江戸時代、筑前福岡藩内にあった御笠郡武蔵温泉(現在の二日市温泉)は、黒田家の中老(家老になる資格を持つ家)立花勘左衛門の知行地にあり、陪臣(藩主の家臣の家臣)を湯奉行または温泉奉行として管理させていた。
長崎県にある小浜温泉にも同じような温泉の管理者が居たことを知ったので少しまとめてみたい。

小浜温泉は、島原半島の西側にあり、山がそのまま海に入りこんだ地形で、平野はほとんどない。

藩の居城である島原城からは、普賢岳を隔てた反対側にある。
それでも藩主は度々小浜温泉に入浴に来たようで、城を出て南へ(原城方面)下り、山越えして小浜へ行ったり、長崎警備の行き帰りに立ち寄ったという。

この温泉の管理を任されていたのは本多家である。
本多家は、慶長19(1614)年に島原藩主松倉氏に従って三河国から来たといい、藩主より湯太夫として代々温泉の管理を任されていたという。現在は小浜歴史民俗資料館となっている場所が湯太夫の館跡である。

明治になって島原城から買い取ったという長屋門をくぐると、蒸気が高い櫓からもくもくと上がる光景を目にした。これが、小浜温泉の元湯で、ここから各湯壺に温泉を引いていた。この管理をしていたのが湯太夫であった。

現在は資料館として整備されている本多湯太夫の屋敷

まるで城を思わせるような高く立派な石垣。屋敷の前に豊後湯という場所があった。なぜ豊後なのか分からなかったが、ガイドの方に聞くと、入浴中に急死した島原藩主松倉重政の官職が豊後守だったから、その場所を豊後湯と呼んだそうだ。

小浜温泉と雲仙温泉は車で20分程の距離にある。明治になって外国人が多く訪れるようになり、雲仙は避暑地として利用された。その際、利用されたのがチェア駕籠と呼ばれる椅子式の駕籠であった。雲仙に登る途中に駕籠立場があった。

雲仙には加藤氏が藩より雲仙湯守を仰せつけられて管理していたという。

また、現在は廃線となっているが、小浜温泉まで鉄道が通っていた時期があった。
この鉄道の開通によって小浜温泉には多くの人が訪れるようになった。

現在でも駅の跡や

細い切通の跡がそのまま残っている。

小浜温泉へ向かう列車からはこのような光景が見えたのだろう。



 

書いた絵を額装してもらった話

筑紫野市教育委員会が発行する『ちくしの散歩』に2004年に「山家宿の御茶屋」というタイトルで書かせてもらった。その際、間取り図しか残っていない御茶屋の姿をどうにか表現したくて、御茶屋の復元鳥瞰図を描いた。今から10年も前の話である。思い返せば一番最初に触れた印刷物がそれであった。その際、何度も何度も修正を重ねてようやく描いたのがこの図であった。絵具でも色鉛筆でもうまくいかなくて、水彩色鉛筆という色鉛筆で書いて水筆でなぞると絵具ような風合いになるというのが自分に一番しっくりきて、それで書いた一枚であった。
この思い出の絵はパネルに貼って保管していたのだが、落とすたびに角が丸くなるし絵を保護するものもない。それに展示するにも額に入ってないのでかけることもできないでいた。

そんなとき、糸島の二丈浜窪にハナトライフという額装を専門に行うお店があり、思い切って額の制作を頼んでみたのが年末の29日。「この絵にある額をお願いします」と頼んだところ、数ある額縁の中から絵の雰囲気にあった縁の選定から、余白に入れるマット紙の色や材質などを選定し、さながら掛軸の表装をしに表具師の所へ来たような感じであった。

こうして絵が生きるように選ばれて出来上がったのが下の写真である。古材のような雰囲気の額縁に少し緑がかったマット紙をあて、内側には金の縁が入っている。江戸時代末より明治・大正にかけて隆盛を極めた文人や南画家と云われた人たちは、自分で描いた絵を表装してもらっていたが、掛軸の絵を描くことが少なくなった現在、額装してもらいにいきさながら文人の気分を味わったのであった。



 

福岡藩主の西郡巡見

福岡藩の領地であった糸島には、歴代の福岡藩主が領内巡見で訪れました。
今回は、現在人気スポットとして注目を集めている糸島のどの部分を訪れていたのか紹介します。

糸島への巡見は、西郡巡見として行われました。

4代藩主綱政は、歴代藩主の中でも寺社政策に力を入れたことで有名で、桜井神社など領内の寺社へ度々参詣しています。また、6代継高は、雷山に金剛坊(後の大悲王院)を創建してすぐに雷山に登るため糸島を訪れています。

 桜井神社

江戸時代は、興止姫大明神と呼ばれ、慶長15(1611)年の大雨で岩戸が開いたことがきっかけに創建されました。2代藩主忠之はその神威を畏み、寛永年間に本殿・拝殿・楼門など社殿を建立。神宝などを奉納し、その後、宮司家を筑前国中神職の惣司に任命しました。忠之は死後、島岡大明神としてこの神社の祭神に加えられています。以後の歴代藩主の手厚い庇護を受け、藩主が西郡巡見の際には必ず当社を参詣するのが習わしとなっていたようです。
神社には、創建主の2代忠之が寛永年中に奉納したとされる宝物が伝存しています。初代長政が朝鮮出兵の際に晋州城から持ち帰ったと来歴が伝わる寶珠などが含まれ、歴代の福岡藩主は参詣の際、これらの神宝を拝覧していました。殿様が通った桜井の古道は現在「殿様通り」と名付けられています。

楼門

楼門には黒田家の藤巴紋が入ってます。
 

 大口浜

大口海岸は、桜井神社の境内地のひとつで、神社創建当時に2代忠之が寄進した木の鳥居がありましたが、4代綱政がそれを石鳥居に改築したといわれています。この鳥居は津屋崎からわざわざ石材を調達したと伝えられているものです。綱政が寄進した鳥居は昭和5年に倒壊し、現在は根元の部分だけ残っています。

 

西浦の鯛網漁

志摩郡の北端に位置する西浦は、古来より鯛網漁で有名な浦です。当地での鯛網漁の始まりは元文2(1738)年とされ、安永2(1778)年より明治期にいたるまで黒田家に鯛を献上したとされています。鯛網の漁法は、古来は地引網でしたが、明治期になって揚操網へと変わりました。
 

大祖神社

芥屋大門脇に位置し、創立年代は不詳ですが、承和元(834)年奉献銘のある石灯籠、文明13(1481)年の社殿再建の棟札などがあったとの記録があり、古社であったことが伺えます。

 塩土神社

芥屋の集落内にあり、塩土翁と大山咋神を祀っています。宝暦4(1754)年、芥屋村の柴田氏妻女が神懸りし、占いがよく当たるということで評判となり小祠が建立されました。特に農作の病害虫守り札受けに郡内外から多数の参詣があったといわれています。天明5(1785)年に九代藩主斎隆が奉行の花房佐兵衛に命じて御供米を寄進し、その後、寛政6(1794)年に自らも参詣しています。

 大庄屋鎌田家

江戸時代初期より志摩郡の西部分にあたる御床触の大庄屋をつとめていました。同家には4代綱政や10代斎清が立ち寄って休憩したと伝えられ、煙草入れや茶碗など黒田家より拝領した文物が伝来しています。
 

六所神社

江戸時代は志摩郡の総社で、樹齢800年の大楠があることで有名です。戦国時代に兵乱で荒廃していましたが、慶安3(1650)年に2代忠之が社殿を再建し、次いで貞享3(1686)年に3台光之、元禄16(1703)年に4代綱政が補修したといわれています。

 志登神社

延喜式神名帳に記載された糸島唯一の式内社です。元禄3(1690)年に光之が社殿を再建しており、宝永4(1707)年に4代綱政、享保2(1717)年に5代宣政が石鳥居を建立しています。

 染井神社

染井神社は、熊野権現社と呼ばれ、熊野三神や豊玉姫、神功皇后を祀っています。境内地に神功皇后伝承にまつわる染井の井戸や鎧掛松があり、怡土七ヶ寺の一つである染井山霊鷲寺の故地としても知られている場所です。染井の井戸には、寛延4(1751)年に郡奉行永田清十郎が石鳥居や玉垣を寄進し、6代継高は、染井井戸の神水を汲んで「濁りなく昔をうつす鏡とはけふぞ初て三染井の水」との歌を詠んだといわれています。

 如意輪観音堂

現在の高祖如意にある日蓮宗妙立寺は、寛永11(1634)年に日芳和尚により創建されましたが、それ以前に如意輪観音を本尊とする如意寺があったといわれています。観音堂の下には貝原益軒により名付けられた「動響ノ滝」と名付けられた滝があり、九代斎隆は寛政6(1794)年にこの滝を見に当地に立ち寄っています。
 

 

高祖神社

怡土郡の郡社で、彦火々出見尊、玉依姫、神功皇后を祀っています。寛文2(1662)年に3代光之が社殿を補修し、元禄6(1693)4代綱政が石鳥居を寄進、後に参道を補修しています。

 金龍寺

太祖山金龍寺は、永正5(1808)年に高祖城城主の原田氏によって創建され、原田家代々の菩提寺となってきた寺です。慶長16(1611)年、社地を福岡荒戸山に移すことになりましたが、旧地にも残され今日に至っています。金龍寺には、初代長政の次男で怡土郡内に1万石を与えられて井原村に居住していた黒田甚四郎政冬の墓所があります。

大悲王院

雷山には清賀上人建立とされる雷山千如寺があり、中世には多くの僧坊がありましたが江戸時代には仲之坊など3坊を残すのみとなっていました。宝暦3(1758)年、6代継高が金剛坊(後の大悲王院)とを開創し、本堂や書院を整備し再興されました。

雷神社

現在の雷神社境内は、もともと雷山中宮跡であり、雷山全体の中心であったと考えられる場所です。雷山の社寺は6代継高によって宝暦年間に再興されました。現在、雷山上宮跡にある石祠はいずれも宝暦3(1758)年に継高が建立したものです。継高は、雷山が再興されて間もない宝暦5(1775)年に同地を訪れ、自らが命じて整備した雷山の社寺を見学しています。

糸島の名産品

明和8(1771)年に7代藩主治之が前原宿に宿泊した時、隠居していた父継高のもとへワラビやウドなどの山菜やシジミ貝を贈った記録があります。特に雷山川河口で採れるシジミ貝は前原宿で休憩した幕府役人にも献上された記録があり、このあたりの名産であったことが伺えます。


※内容は、2014年に志摩歴史資料館で開催された展示会の内容を引用しています。


六本松越えのルートについて

六本松越えとは

長崎街道や日田街道を通行する諸大名や幕府役人は、途中、必ずといっていいほど太宰府天満宮へ参詣をしていました。その際、長崎街道から太宰府へ頻繁に使用された道があり「六本松越え」と呼ばれていました。長崎街道、日田街道、薩摩街道から天満宮へ行くには最短ルートであるため、かなり多くの大名が利用したことが記録に残っており、福岡藩主も山家宿からの参詣の時はよく利用していました。

 

六本松越えのルート

長崎街道を通行の大名が六本松越えをして宰府に行くには、まず長崎街道杉馬場を過ぎて、長崎街道方向ではなく、左に曲がり日田街道を通ります。そして、鞭掛という集落にあるかつて筑紫氏の出城であった柴田城の脇を通り、天山集落を過ぎて宝満川沿いを上流に向かいます。宝満川が丘陵に差し掛かかった場所に「六本松」というバス停があり、かつてはここに追分石があったそうですが、ゴルフ場造成のため現在は取り除かれて所在不明となっているそうです。ここから峠を越えて太宰府に向かいます。六本松越えとはこの峠越えの事をいい、高雄山の山頂付近を通って太宰府の延寿王院、もしくは溝尻口に到達します。当時、道はかなり細い山道であっただろうと推測されます。はっきりしないのは、鞭掛から川沿いを通って六本松に到達する道と、宝満川を渡って小鳥持から牛島集落を通って六本松に到達する道があり、どちらも太宰府参詣道と呼ばれているため、主にどちらを通行したのかは不明です。しかし、前者を通行した方が最短であるため、主にはこの道を通行したのでしょう。また、天保7年薩摩藩主松平渓山一行が通行する先触で、道筋の「仮橋御仕置」を命じており、日田街道の宝満川は「飛石」があるので必要なく、少し上流に仮橋を掛ける必要があったと考えられるので前者を通行したと思われます。

日田街道より天山のほうに向かう道。角に天満宮への石灯籠がある。

 
ここが六本松で、この道を進んで高雄山の峠越えしていたが現在は行き止まりとなっている。
太宰府側よりみた六本松越えの峠(高雄山)
 

現在の六本松越え

現在、長崎街道より六本松に至る道はほぼ残っていますが、肝心の六本松の峠声はゴルフ場になっているためほとんど残っていません。明治35年の地図と、現在の地図を重ね合わせてみると、道は太宰府市と筑紫野市との境界付近を通っていたことがわかり、また、現在筑紫女学園大学の横を通る急カーブする道(通称:泣き別れ)はかつての道の名残であり、九州国立博物館駐車場横の細い道(太郎左近口)を通ると天満宮境内・延寿王院に直接行くことができ、直進すると溝尻口となります。慶応二年七月には太郎近口に関門が設置されたため、溝尻口まで行かずに境内に入っていたことが分かります。


明治の漁港の古写真 唐泊

私が所蔵している明治の古写真のうち、港が写されている写真がいくつかある。
おそらく糸島周辺の風景だろうと思うが、なかなか決め手がなくてどこの風景か分からないでいる。その中で、最近になって急に分かってきた古写真があった。

この写真は、手前の砂浜に船が上がっており、左側の松の生えた丘は社のようなものがあって幟が立っている。その先には石積みの防波堤となっており、その先には島影が少し見える。比較的静かな海といった印象と、近いところに島が見えるという点で、野北や西浦、芥屋などの外海に面した港ではないと推測する。また、岐志や船越でもなさそうで、波止の先に見える島は能古島ではないかという仮説をたてて候補としたのが唐泊であった。こういう推測をしたとき、居ても立ってもおられなくなるのが私の性分で、つぎの日、早速現地へ赴くことにした。

現地へ到着すると、100年前と比べて埋め立てがかなり進んでおり、この写真の特徴であった石積みの島は跡形も無くなっていた。しかし、写真に写っていた石積みの波止と社があった丘はあり、その丘には恵比須神社があったことも分かった。幟が上がっていたのは恵比須神社だったのである。

なによりも決め手となったのは、波止の先に見える能古島の島影で、このことからこの写真は唐泊であるとの推測はほぼ間違いないと思った。

また石積みの波止は、石が綺麗なのが気にはなるが、かなり昔からあったと思われる。福岡藩の記録によると、この波止は、江戸時代初期に築かれその後崩壊したが、再度積みなおされ江戸時代後期の絵図には描かれている。

岬の突端部分にあった恵比須神社は崖崩れでも起こしたのだろうか、丘から下に下ろされてプレハブ小屋のようになっていた。それでも地形を見ると当時の地形が分かる。

唐泊港を少し散策してみた。港は海岸線(現在は道路)に沿って家が並び、奥に向かって傾斜に家々が並んでおり尾道のような風景の町である。その一番奥の高台には臨済宗唐泊山東林寺がある。古くから韓泊と呼ばれ天然の良好であった唐泊港を見下ろすように建てられ、文治三(1187)年に宋から帰国した栄西によって開かれたとされる。


ここからは、かつて貝原益軒が『筑前国続風土記』に「小高きところに立たる寺なれば、遠望朗かにして佳景の地なり」と記した風景を今も望むことができる。遠くには今津の毘沙門山を望むことができた。

東林寺にあった説明看板には、唐泊の古図が掲載されており、江戸時代の唐泊の様子がよく分かる。この図を見ると、岬の突端に恵比須神社があり、その下から波止が伸び、砂浜に面して岩場が見える。古写真に写っていた松の生えた岩場はこの図で確認することができた。この図には岩場の名称が古波止と記されている。昔の波止は、現在のように舟を係留するためのものではなく岩場がその名のとおり波を止める「波止」の役割を果たしていたようだ。


 

古間取野帳 コマドリヤチョウ

私は、古い間取り図を方眼紙に落として書いていくのが好きで、気に入った古い間取り図があると記録するようにしています。建築学部を出た訳ではないので建築の専門の方につっこまれると困るのですが好きで書いています。昔あった建物や、やむなく解体されていまう建物など、もったいなくて間取り図だけでも残しておきたい!という衝動に駆られ書くようになりました。また、歴史を想像するのに、建物の平面図があったらより具体的な想像が出来てとても面白いです。名前の由来は、野帳という3mmの方眼の手帳に書く古い間取りだから「古間取野帳」です。


甘木御境目奉行役宅
日田街道沿いにある甘木宿の四重町にあった奉行の役宅。絵図をよく見ると裏に旧図が描かれていたので二つ並べて書いてみた。天保三年に建て替えられたという。福岡藩領と豊前との御境目を受け持っていた御境目奉行が駐在した。

姫島定番役宅(岡定番)
玄界灘に浮かぶ姫島に置かれた定番役宅。姫島には2軒の役宅が置かれ、そのうち岡側に置かれた役宅。丘の上にあるので通称、岡定番と呼ばれていたそうだ。野村望東尼救出の際、この役宅に救出に来た旧福岡藩士藤四郎が訪れ、定番坂田と問答をしているすきに望東尼が救出されたという。廃止後にこの役宅は姫島小学校の敷地となる。


姫島定番(浜定番)
姫島に置かれた定番役宅のうち、浜側に置かれた役宅。姫島神社の正面を右側に小道が伸びるその先にあった。絵図には定番桑野喜左衛門と記されているが、彼は慶応元年に流罪となって姫島に流されることとなる野村望東尼の実弟であった。

内野宿町茶屋


箱崎町茶屋
町茶屋とは、大名や一般の旅人が宿泊した半官の施設で、箱崎町茶屋は箱崎宿のほぼ中央の馬場町にあった。普通の旅籠と違い表門と式台を備えている



宰府御造営奉行役宅
太宰府(安楽寺)天満宮とその門前町を管理した奉行の役宅。現在の小鳥居小路と連歌屋の角にあった。




前原代官役宅
福岡藩領前原宿代官役宅西端にあった前原宿にあった代官役宅。前原代官は、御茶屋奉行兼御境目も受け持っていたため、筑前六宿以外の奉行が御茶屋奉行と呼ばれていたのに、前原は特別に代官と呼ばれていた。



山家宿代官役宅
長崎街道筑前六宿の一つ山家宿の代官所。建坪が約50坪近くあり役宅の中では最大規模。代官は、藩主の別邸である御茶屋と宿場と通行する大名らの送迎を職務とする


箱崎御茶屋奉行役宅


脇山御境目奉行役宅
那珂川のセブンミリオンゴルフ場のすぐ近くに脇山村野田という集落がある。そこにあったといわれる御境目奉行の役宅。野田集落の正面には脊振山がそびえる。福岡藩では元禄五年より脊振弁財嶽国境争論があり、ここの御境目奉行はこの関係もあって設置された。

※ここに掲載している図は福岡藩御用大工を勤めた林家文書にあったものです。

 

姫島紀行2「島定番役宅を探す」

島定番とは、福岡藩が領内の離島に置いた役人の事で、浦奉行の支配下にあり福岡藩の中級家臣馬廻組より選任されていた。相島、大島、地島、岩屋、玄海、姫島、小呂島、波止場の8ヶ所に約二名の役人を駐在させ3〜4で交代していた。
以前、私は九州歴史資料館で福岡藩内にあった役人の役宅を描いた平面図綴りを見つけ、その中に糸島の姫島定番役宅が描かれていたが、その役宅が姫島のどこにあったのか調べようと思いつつも資料に出会わず、つい最近まで分からないでいた。しかし先週何気なく『野村望東尼』(花乱社)を手に取りページをめくってみたところ姫島脱獄の図が掲載されていた。その図は昭和15年に『筑紫史談 第76集』で郷土史家大熊浅次郎が発表した「野村望東尼の晩節、姫島流謫脱獄の経路」をもとに作成されており、早速福岡市総合図書館へ行ってその部分をコピーしてきた。

この文を書いた大熊浅次郎は、慶応二年生まれ福岡在住の郷土史家で、郷土史家春山育次郎らの先行研究をもとに脱獄の経路を調査するため、昭和13年に姫島に渡ったことが書いてあり島の平面図も掲載していた。以下、渡海の様子を書いた一文を書き出してみる。
「(春山育次郎は)明治45(1912)年の春同友の中村能道と共に望東尼流謫の処、玄海の一孤島姫島に相渡り、所詮牢居の跡を探討せり、あたかも時の糸島郡町山口良介氏は同郷のよしみあり、郡吏楢崎嘉兵衛を東道たらしめ、望東尼の船路を取りし岐志浦を巡り、轉じて新町に至り舟を艤して姫島に航せり。一夜を同島漁家に明かし隈なく旧跡を見舞い、幸なるかな、尼が姫島日記に名を留めたる「ふじ」と云える島女の未だ現存したる老婆をつかまえて、往年の記憶を聞きただし、その昔日談の数々再び得難く、真に大切なる資料として拾われたるなり」と郷土史家春山育次郎(1866-1930)が明治45年に実際に姫島に渡り望東尼が在島していた時に世話などをした「ふじ」という老婆に会って聞き取りをしている。そして、それから26年後、大熊浅次郎は、「予また遅れながら過ぐる昭和13(1938)年の秋10月9日には交友乾安五郎学士と相伴い糸島郡新町渡海場より発動機船により姫島に航し、先に曩日春山史友探討の跡を捜り、望東尼牢居の遺址を尋ね、江島先生覚の記伝の真相を真證し大いに得るところありたり。」と記している。


そして、それから77年後の平成27年5月31日、私は春山、大熊両先生の探討の跡を捜り、島定番の役宅を探すべく糸島市岐志港より定期船ひめしまに乗船し、姫島にわたることにした。

岐志を後に船が進みだすと筑紫富士とも謳われる可也がきれいに見える。

外海なので海は荒く、ここを船で渡るのはさぞ大変であったと想像する。

やがて姫島が見えてきた

島は南側と西側に集落があるのみで東から北にかけてはそのほとんどが磯になっている。私が行った日も東からの風がかなり強く集落が西側に偏っている理由が少し分かった。西側は芥屋の黒磯と同様の黒い玉石の海岸で、かつて博多聖福寺の住職であった仙涯さんは、この姫島で採れた硯のような自然石を友人からもらい金剛という名をつけてたいそう喜んだという。

まず最初に野村望東尼の獄舎まで行ってみた。細い道を挟んで両側に集落がある
細い道は北に向かって進み所々石垣が積まれている。この写真は、獄舎に向かう途中で撮影したものであるが、この右上に地蔵堂があり、望東尼が救出されて船に向かう途中、姫島で世話をよくした森ミキとばったり会った場所でもある。

そして、集落のはずれのやや小高い場所に獄舎の跡があった。小学5年生の時に近くのおじさんに連れて行ってもらったのが初めてであったが、こんな場所にあったのかと思うほど奥にあった。もっと近くにあったような気がする。この日、下関からわざわざ見に来たという方と一緒になり獄舎跡を見学した。





この建物は獄舎を復元したものかと思いがちであるが、これはお堂とのことである。しかし獄舎を思わせるような錠がかかっていた

獄舎からは遠く唐津の高島や神集島が見えた

獄舎跡から少し浜側に戻ると道が交差する部分がある。望東尼救出の際、救出に来た者の一人の吉野応四郎は、この場所で見張りを行い、その隣の新築中の家からカケヤを持ち出して獄舎のカギを叩き壊したという。ここから山手に上ると通称「岡定番」と呼ばれた定番役宅がある。

姫島に置かれた島定番役宅は二箇所あり、浜部に置かれた方を「濱定番」島の奥に置かれた方を「岡定番」と呼び隔月輪番で勤務していた。江戸後期の姫島定番は、弘化三年十月に桑野喜右衛門(浜定番)が着任し、安政三年四月に周防清六(岡定番)が着任、万延元年十一月に新平ノ進(浜定番)が着任、文久二年九月に小島源五右衛門(浜定番)が着任、そして慶応二年十月に坂田喜左衛門(岡定番)に着任していた。野村望東尼がこの島に流されてきたときの定番は小島と坂田の両名だった。「役宅綴り」に掲載されていた2枚の姫島定番の図には桑野喜右衛門、周防清六と記され、この図は弘化三年から文久二年にかけて描かれたと考えられる。また、驚いたことに浜定番の桑野喜右衛門は、野村望東尼の実弟で姫島で亡くなっていたことも分かった。

図には方位が書かれていないので、建物が敷地内にどのように建っていたか正確には分からないが、玄関の位置や座敷の配置から図の左下の座敷縁側は西向きに海を望めるように建てられていたと推測する。

岡定番役宅跡は、その後小学校の敷地となり、現在は空き地となっている。登り口の部分にある石垣はおそらく当時のものであろう。

そして、敷地の片隅には以外にも「岡定番坂田喜左衛門屋敷跡」と刻まれた石碑があった。定番役宅については近年まで語り継がれていたようだ。望東尼脱獄の際、定番である坂田喜右衛門役宅には救出に来た藤四郎という旧福岡藩士が訪れ坂田と問答を繰り返し、その間に仲間が望東尼を救出したという。

次に浜定番役宅を探すために浜側へ戻る。集落の真ん中の小道が分かれる場所に庚申塔が立っている。この庚申塔を右に進むと奥に姫島神社が鎮座している。この庚申塔は安永四年と刻まれ、定番桑野喜右衛門も野村望東尼もこの庚申塔を見たのであろう。

姫島神社の石段を境に左右に道が分岐しており、右手に進んだところに通称「浜定番」と呼ばれた定番役宅があった。

この図も岡定番同様に方位が分からないため、どのように建っていたか不明であるが、座敷の縁側は南面の浜側を向き、図の右側が敷地の入口であったと推測する。

望東尼が流されてきた際、月番であった小島はこの場所で罪状を読み上げたのだろう。

その跡地は、現在土砂崩れの後に畑となっておりその敷地は見ることはできなくなっているが、この写真の林の部分が定番役宅であった。この役宅は廃藩の後に定番下役であった柴住氏が購入したようで、大熊浅次郎が訪れた際には柴住仙七の宅地となっていた。大熊浅次郎は、この文中に掲載した図について、これは「当時の女傑救出の跡に考え、駆落ちの難易を考察せんと欲し、牢獄の所在と岡定番役宅の所在と立番見張所の想定及び普請中なりしカケヤ取出しの家屋の所在並に望東尼乗船場の位置等を知らんが為め、今糸島郡芥屋村姫島小学校の校長たる柴田新助氏に乞い、現在島の平面見取図制作を煩はし参考に供することとせり」と記し、今となっては非常に貴重な資料である。

姫島から帰ってきた直後は、上記のように姫島小学校が岡定番役宅の跡地だと思っていた。しかし、役宅の場所を正確な地図に落とそうと市役所より白図を購入し、大熊浅次郎が作成した地図を重ねてみたところ、濱定番役宅のあった場所はほぼ間違いないと思うが、岡定番役宅の場所は現在は山となっている部分となってしまう。地図の縮尺の問題かと思ったが、意外にも道の形が合うため、江戸時代には山の斜面に民家が建っていたのではないかと思うようになってきた。問題の小学校の位置であるが、移動したとも考えられるため、再度冬に島に渡って役宅推定地の踏査をし、姫島小学校の位置について検証してみようと思う。






 

姫島紀行1「古写真の場所を探して」

明治30年代を写したと思われる古写真が手元にあり、1枚は野村望東尼旧居跡の石碑、もう一枚は船と鳥居が写っている写真で、おそらく姫島を写したものではないかと考えていました。そして昨日、これらを確かめようとやっと姫島に渡る機会を得ました。今回、姫島に渡った理由は‥臘衄屬量鯊霎廚琉銘屬分かったのでその場所を確かめること。古写真にあった野村望東尼の石碑の状態を確かめること。この2つの事を確かめるべく島に渡ったのでした。,砲弔い討聾綟詳しく書くとして、今回は謎であった古写真が姫島だったことを書いてみます。

まず「野邨望東尼之旧址」の石碑ですが、この石碑は伊藤博文や山縣有朋によって明治35年に建てられたといわれています。この古写真は、他の写真の年代から明治30年代頃に撮影されたものと考えられ、石碑が建てられた直後に写されたものだと考えられます。

今回、実際に現物を見てみると基礎の部分が石積で高くなっており二段目の受け皿までは当時のままですが、基礎の部分は変わっています。当時、基礎石は綺麗に整形された御影石であったのに荒い石積になっています。当時の石は左端に敷地を縁取る石に使われたと思われます。この場所は高所ですが、正面向かって右側に山が迫り左側は空いているのは当時とあまり変わりません。

次に、長らく不明であったこの場所が姫島であったということが分かりました。戦前の郷土史家大熊浅次郎が書いたものに、野邨望東尼を救出するために船をつけた場所は鳥居の前であったことが記され、この写真はまさにその場所から写された写真です。さて、この写真がどこであるのか決め手となったのは鳥居の横の石灯籠でした。

姫島神社の一の鳥居は正面向かって右に灯篭があり左は恵比寿様があります。写真を見てみると右側に石灯籠があり左は灯篭がありません。

そして、灯篭の上にある石の形が同じであり、受け皿の石も同じ形なのでこの写真が姫島神社の一の鳥居であることが分かりました。明治45年にこの地を訪れた戦前の郷土史家 春山育次郎は、この島で望東尼の調査をしたことが『筑紫史談』に書かれています。この写真と同じ風景を見たのでしょう。
 

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