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  • 2016.10.30 Sunday
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前原御茶屋と老松神社の関係について

前原宿の成立について、『筑前国続風土記付録』に「貞享年中舞嶽山の麓より民家を此処に移され宿駅となる。行館をも構へ給へり。慶長の頃迄は、人家はなくて今の宿の西の入口松原ある所にて傳馬せしとそ」と記される。この文中に出てくる「行館」とは、福岡藩内の主要な宿場に設けられた藩営の藩主別邸のことで、御茶屋と呼ばれ藩主が領内巡見の際に利用したり大名が参勤交代時の本陣として利用した施設であった。

前原宿の町茶屋守であった津田家の文書によると、前原御茶屋は、宿場成立年といわれる貞享二(1685)年に建てられ、天保十五(1844)年に焼失したと記される。そもそも前原に御茶屋が設けられるようになったきっかけは、元和九(1623)年に黒田長政の息子である黒田政冬が、怡土郡井原に居住したのがきっかけであると考えられる。政冬は、怡土・志摩二郡内の内1万石を与えられて井原村に居住したが、寛永二(1625)3月に疱瘡によって死去したため、政冬が居住していた屋敷は無用となり、ちょうどその頃、参勤交代制度によって整いつつあった街道筋に移されて藩主の御茶屋となったようである。『筑前国続風土記』には、「この村(井原村)に邦君の別館有り、その後、別館を前原驛に移して之建てるとの云伝え也」と記されている。

福岡藩御用大工林家に伝わる藩内の御茶屋の建坪を記した文書によると、前原御茶屋の総建坪は約150坪程あったが、後に約120坪に減少したことが記され、「嘉永元年申秋御建物新図」とも記されることから、嘉永元(1848)年に建てなおされて約120坪の建物になったことが分かる。これらを併せて考えると、天保十五(1844)年に焼失した御茶屋が4年後の嘉永元(1848)年に建て直されたと推測できる。
前原宿はもともと戦国時代に舞嶽城という城があった舞嶽山(現在の笹山公園)の麓にあった前原村より強制的に民家を移動させてつくられた宿場町である。前原村には、産土神の老松天神社という神社があり、民家のほとんどが街道筋に移った後も神社はまだ旧村内にあったので、弘化元1844)年に社殿を改築して宿場内の宮本町に移したという。弘化元年といえば、天保十五年と同年の1844年である。この年には前に記したように御茶屋が焼失している。


前原宿内で御茶屋跡と伝えられるのは、宿場のほぼ中央で街道より道を引き込んだ北側にある。この場所はもともと前原村の庄屋埴生重蔵の土地であったが(年代はおそらく江戸後期であると思われるが)藩に差し上げたため、褒美を頂戴したという記録が残る。福岡市博物館には、寛文年間に作成された道程図という大里より長崎までの道中を描いた絵図が所蔵されており、藩主の宿泊する場所は「本陣」と記載され、それには御茶屋が充てられている。この絵図で気になるのは、本陣が街道の南側に記されている点である。前原御茶屋は街道より北側にあったと伝えられているのに、これには南側に記されているのである。

そこで、次ぎのような仮説を立ててみる。

前原宿ができた時、御茶屋は街道の南側に建てられた。この場所はかつて舞嶽城があったとされる笹山が望め、有事の際には舞嶽古城を利用することもできたと思われる。しかし、天保十五年に御茶屋が焼失してしまったため、再建しようと思ったが、その場所に建てるのではなく街道の北側にある庄屋重蔵の土地に新たに御茶屋を新築した。そして、これまで御茶屋のあった場所には、前原村が街道筋に移動してからもなお本村に鎮座している老松神社を移動させた。これはあくまでも仮説である。

その後、明治になって御茶屋は前原小学校に転用され、老松神社も明治43年に北筑軌道が開通するにあたって移動を余儀なくされたため、社殿は現在地に移動させられたのである。この老松神社の位置についても少し考えてみたい。老松神社はもともと前原本村にあったというが、現在のどの場所であったのか全く不明である。しかし、江戸時代に描かれた絵図には、宿場と本村と老松神社が描かれるが、神社は本村の東側の離れた場所に描かれている。その場所は位置的に考えて、現在老松神社が所在する場所であると思われる。よって、また仮説であるが老松神社は御茶屋が焼失して別の場所に建ったため、その跡地に移動したが、明治になって軌道のため移動を余儀なくされ、もとあった場所に戻されたのではないだろうか。

 

 


唐津藩主の下宿割

文化12年4月9日、参勤のために唐津を発駕した唐津藩主の一行が、前原宿に宿泊した際の「下宿割帳」が残っている。志摩郡前原宿を触下に抱えていた大庄屋鎌田甚吉が控えていたもので、参勤の一行が宿場内にどのように宿泊していたかがわかる具体的な資料として貴重なものである。宿泊所として提供された二十五軒の家々には唐津藩士や中間など125人が宿泊している。この水野和泉守とは、文化9(1812)年に藩主となった水野忠邦の事で、この翌々年の文化14年8月には家臣らの反対を押し切り遠州浜松への転封を願い出て唐津を去ることになる。
唐津藩の参勤交代では、発駕当日は唐津城を出て最初に前原宿に宿泊する。文化6年に唐津藩主水野忠光が前原宿に宿泊した記録も残っており藩主は御茶屋に宿泊し家老は町茶屋、その他の家臣らには宿場内に22軒の民家が充てられている。この下宿割帳を見て見ると、藩主は御茶屋に宿泊しているからこの宿割帳には記されておらず、また家老もおそらく町茶屋に宿泊しているので記されていない。

「水野和泉守様御宿割帳」
 
柘桂(植)平助様 上中下拾三人    又六

高宮伊助様 歩横目   上中下九人   只次

赤星守人様
二本松一助様
松本直記様 上中下拾三人      藤三郎 藤七

近藤斧蔵様 
松桂権九郎様
関口橘之助
大久保武助様 上下拾人       伊蔵
 
岩本直助様
渡邊小源太
小田善兵衛様
松本武次郎様 上下八人       儀蔵
 
小田切要助様
清水良順様
掘玄写様
岩本源蔵様 上下八人        甚六
 
水野平九郎様
川井藤右衛門様
岡本平八郎様
大場段之進様
山本甚右衛門様
三浦文助様 上下七人        孫助 
 
大場直様
野田次郎右衛門様
恵賀漸之助様
三好古五郎様
星野甚三郎様
伊藤古助様 上下七人        与吉
 
呼子平右衛門様組 
一足軽拾人             千吉
 
一ノ御歩士 六人          弥七
二ノ御歩士 六人          九平
 手廻り部屋頭
二ノ手廻中間六人          源助
 
呼子平右衛門様組 
二ノ足軽三人            与七 
坊主七人              新六
 
中間頭
一之手廻り中間六人         利三次
 
馬弐疋          
小頭壱人
付人五人              助七
 
〆百廿五人
帳場                儀右衛門
二                 七蔵
四                 甚三
五                 金平
六                 左平
弐駕                甚内
駕                 藤吉
御国足軽弐人            助三

最後に記される「御国足軽弐人」は、福岡城下より派遣され、唐津藩主の先払いを行う御足軽である。福岡藩の通行に関する規定「諸通執行定」には、長崎街道を通る諸大名には郷足軽という現地の下役人が先払いを勤めたが、福岡城下を通る唐津藩主の通行は、福岡より足軽が派遣されることになっていた。

この下宿割を分けると次のようになる
“融里蕕僚蒜饑(9軒)
 又六、只次、藤三郎、藤七、伊蔵、儀蔵、甚六、孫助、与吉


足軽・中間、坊主などの宿泊先(8軒)
 千吉、弥七、九平、源助、与七、新六、利三次、助七

帳場・駕籠など(8軒)
 儀右衛門、七蔵、甚三、金平、左平、甚内、藤吉、助三

このとき宿場内の民家合計25軒と御茶屋、町茶屋が宿泊として提供されたのである。
文化8年に脇坂中務大輔が昼休した際には、藩主が御茶屋、家老が町茶屋で、その次の宿が又六であった。また、文化9年に伊能忠敬が宿泊した際、忠敬の
宿は町茶屋の作左衛門宅、別宿の坂部の宿は綿屋藤七、下役の宿泊した場所は麹屋又六であった。
この又六宅に宿泊した柘植平助(〜天保12年)は諱を宗理といい、藩主忠邦が少年の頃から理髪や食事の世話をする小納戸を勤めており、忠邦が藩主になると表小納戸、用人側勤に取り立てたという人物で、
『懐宝剣尺』『古今鍛冶備考』という刀の切れ味を記した書物を書いた人物としても知られている。※参考:『
黒船擾乱―徳川幕閣盛衰記』笹沢佐保

それぞれの家が今のどこに当たるかは不明である

 

福岡藩主の前原宿泊

前原宿は、筑前国怡土・志摩郡のほぼ中心に位置した宿場町です。
この宿場を東西に貫く「唐津街道」は、豊前大里から玄界灘沿岸を通り肥前唐津城下に至る街道で、主に福岡藩主と唐津藩主が利用していました。前原宿の利用者のうち、最も多く利用したのは、筑前国福岡藩主でした。福岡藩主は、参勤交代や長崎警備による通行だけでなく、鷹狩などの遊興や領内の民情視察などで同地を訪れ、特に歴代の福岡藩主が、藩主襲封後に領内を廻り、村内の様子や民情を視察する「国内巡見」は慣例となっていました。
 今回は、前原宿を触下に抱えていた志摩郡御床触の大庄屋鎌田甚吉が記した「寛政十二年閏四月殿様前原宿御泊座記録帳」より、福岡藩主が筑前西部(志摩郡)を巡見した際の前原宿の様子をみてみます。
 
西部巡見の例
福岡藩主の国内巡見は、藩政期を通じて幾度も行われています。
例えば、『黒田家譜』を見てみると、七代藩主治之(二十歳)は、入国後、国中巡見と称して東部を廻った後、西部巡見のため福岡城を出発しました。明和八(1771)年3月、初日は前原御茶屋に宿泊し、三日に染井神社に参詣して五日桜井神社にて神宝をご覧になり、その後、大口浜にて鯛網ご覧になり、六日辺田村より新田開墾見分し築出にて漁をご覧になりました。七日は、雷山に登ろうと出駕しましたが、雨が激しく降ってきたので、三坂村より引き返し前原に帰って今宿、姪浜を通り帰城しています。
九代藩主斉隆の初入国に際しては、寛政六(1794)年3月二十三日に福岡城を発駕し、志摩郡志登神社に参詣した後前原宿に宿泊し、翌二十四日は桜井神社参詣後に西浦で鯛網を御覧になり、その日は桜井泊り、翌二十五日は芥屋太祖神社、塩土神社を参詣後、前原宿に宿泊し、最終日の二十六日は、怡土郡高祖神社、金龍寺、如意寺、染井神社に参詣して帰城しています。
このように領内を巡見することは藩主の仕事の一つであり、特に「襲封の後、はじめて国に就給へば、必諸郡宿駅を巡視ある事旧例なり」とあるように、藩主となって初めて国入りした際の領内巡見は、領民への威光のため特に重要であったと考えられます。
 
福岡藩主の領内巡見
寛政十二年(1800)閏四月一日から三日間、当時わずか六歳の福岡藩主黒田長順(後の斉清)が、西郡巡見をされるというお触が御奉行より届きました。先の藩主、黒田斉隆は、寛政五(1793)年に初入国しましたが、ニ年後の寛政七(1795)年に19歳の若さで死亡したため、同年十月に生まれたばかりの長順が十代藩主となったのです。この長順は、その後文化五(1808)年に元服して将軍家斉の一字を賜り「斉清」と改めます。
 
郡方による通行路の検分
 郡奉行より届いたお触れには、「閏四月朔日より三日まで殿様が西部巡見をなされるので、4月20日から26日までの7日間、見分を行う」とのことです。21日に、普請奉行の寺田宇六郎と郡御組秦幸作、金生七作が出張して、御泊所・御昼所・御小休所・御野立所を見分しました。その際、殿様が使用する井戸も指定されました。これら六ケ所の井戸は、4月26日より汲み替えて、蒋で覆い昼夜番をすることが申し付けられています。
前原御泊については、4月21日に岩野惣七と松田宅七が見分して、次のような指示を出しました。

仝羃悉鰭憾を見分の上、障子張り替えやその他手入れすること。蒋は天井張り替えに使用すること。
御下宿九十三軒は前原宿にて準備できるが、残り七軒は前原宿にて不足のため、浦志村にて準備すること。
A宛興匹妨翡颪砲弔御茶屋・御下宿に仮雪隠・仮湯殿を設えること。無い所は設置すること。
 
前原宿での準備
 閏4月朔日に福岡城を出発した藩主一行は、桜井神社に参詣し、1日目は桜井大宮司宅に宿泊し、翌2日は野北から芥屋を通って前原宿に宿泊予定です。 前原宿では、2日目の宿泊に備え、前日の閏4月1日、朝六つ時に人足777人(内訳・御床触539人・井原触238人)を前原宿の郡屋へ召集しました。
集められた人足たちの仕事内容は、御茶屋水汲、油比村殿川より水汲、前原御茶屋内の御風呂屋、御馬屋、御鷹部屋に詰める者、前原宿に下宿する侍たちの給仕にあたる者、本部となる郡屋に詰る者、野北村御小休所、芥屋村昼休所御床村小休所に詰める者などです。そして、いよいよ前原宿泊当日となりました。まず、昨夜から郡屋に呼び出していた遠見二名を六つ時に(嫖賃失山御開土手、⊇蘋酖擽供↓A宛僅史楙召貿枌屬気擦泙后
前原宿では、案内や掃除など、各役割を郡内の庄屋や組頭が受け持ち、特に郡屋には、今回の宿泊に関する本部となるため、御床村大庄屋鎌田甚吉と井原村大庄屋三苫寿六ほか、各村の庄屋・組頭たちが待機しました。殿様が到着する前、宿場内には、事前に諸注意が言い渡されています。

仝翔り前、宿押えに郡屋詰庄屋を差し出し吟味する事。
御下宿の風呂焚は郡屋詰の組頭を差し出し火の用心を宿々へ念入に申しつける事。



藩主は、御茶屋に二日未ノ中刻(午後二時頃)到着します。非常の際の御立退宿には、前原宿を挟んで東(潤村)と西(荻浦村)の二ヶ所に用意され、御茶屋で使用する水は、油比村の殿川井戸が指定されたため、油比村組頭の武助が殿川井戸に詰め、水田子に封印して御茶屋へ差し上げ、その日に前原代官柳瀬与平次へ封印に使用した印鑑を差し上げることになっています。
前原宿で必要となった諸品は、郡内より様々な物が持ち寄られています。蒲団650、蚊帳200張、御座520枚、行灯100、煙草盆100、手水田子80、盤20、屏風35双、風呂桶100、畳60枚、荷田子20荷、枕50箱、七輪10、手水盤100、壱間蒋1478枚、弐間蒋81枚(天井張替に使用)、草鞋146足、草履175足
 
女中たちの宿泊所は町茶屋が充てられました

 町茶屋とは、宿場内の民間人が自分宅を藩に提供して町茶屋守に任命され、それ以後の維持管理を福岡藩が賄うもので、御茶屋の次に格式を備えた宿泊施設です。前原宿の町茶屋は、天明三(1783)年より津田作左衛門が受け持っていました。 今回、藩主一行には、家老の久野次左衛門と御用人の黒田源左衛門、そして御納戸頭の槙玄蕃が随行していますが、町茶屋に宿泊したのは、藩主が幼少のためか、随行の御女中(二十人)でした。町茶屋守の作左衛門は、二十人分の宿泊料のほかチップとして九百文を受け取っています。風呂は四つ用意していますが、お風呂に使うお湯を沸かすのに町茶屋にある大羽釜では足らず、前原宿の酒屋にある大羽釜も使用しています。食事用の黒膳椀がなかったため萩浦村の医師怡悦に頼み準備しています。
 
殿様お帰り
前原宿での宿泊を終えた殿様は、三日に御帰城します。前原御茶屋を辰ノ中刻(午前9時頃)に出発し、人馬は継立てをせずにそのまま前原より福岡まで通行の予定でしたが、翌日に唐津藩主の通行があるので、今宿の継人馬を三日より指し出すのは差し支えがあるとの事で、野北・芥屋・御床で御小休ために詰めていた人足を、三日の七つ時(午前四時頃)に今宿へ向かわせ、監督の庄屋がいないので、右3カ所の詰方庄屋は、今宿へ三日朝飯後に出る事が言い渡されています。

旧志摩郡の旧家には、このような巡見の際に藩主より拝領した品々が残されています。
 

蟹の住む宿場町

前原宿には蟹が住んでいます。
宿場は川のすぐそばにあるわけではないのですが、宿場の1キロほど北側を泉川が流れています。ある日、庭の落ち葉掻きをしていると「ガサッ」と音がしたのでよく見て見ると大きな蟹がいました。水もないのに庭に蟹が住んでるなんて?と思いましたが、しばらく後、今度は冷蔵庫の下に蟹が住んでいました。調べて見ると、アカテガニという陸上に住む蟹でした。

昔、この通りに住んでいた人と話をした際「昔は蟹が道路をいっぱい歩きよった」という話がありました。その話の中で「今も蟹が庭に住んでいますよ!」という話をしたら、とても喜んでおられたのを思い出しました。

現在は舗装されていて道路で蟹を見かけることはほとんどありませんが、かつて、この通りが宿場町だったころ、参勤交代の行列が通っていた時も、この道を蟹が歩いていたことを想像すると、歴史がより身近に感じられてなりません。

幻の福岡三支藩 井原藩と前原御茶屋

  福岡藩初代藩主黒田長政には息子が四人いた。一人は福岡藩二代藩主となる忠之、もう一人は支藩の秋月藩初代となる長興、さらにもう一人は東蓮寺藩の初代藩主となる高政である。そして、地元の豪族筑紫廣門の娘との間に設けた子が、黒田甚四郎政冬である。忠之とは三歳違いの弟なので長政にとって次男である。
 政冬は、慶長十(1605)年に福岡城内で生まれ、幼名を徳松といい、将軍秀忠の近臣として仕えていたが、初代藩主長政により福岡へ返され「政冬には、怡土・志摩二郡内で、船着場以外の場所に知行八千石を与えよ」という長政の遺言によって、元和九(1623)年に怡土郡内で一万石が与えられ、怡土郡内の井原(いわら)村に屋敷を構えた。
金龍寺にある政冬の墓
                                       
〈井原村について〉
井原村は、貝原益軒の『筑前国続風土記』に「郡中第一の廣村にして、膏膄の地なり・・・国中第一の上田とす。民家は多く巷をなして町の如し」と記されるような村である。その歴史を遡れば、古代伊都国の王都があった場所でもあり、付近にある三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡は伊都国王の王墓とされ、古くからこの一帯の中心的な場所として認識されていた場所でもあった。また、この一帯は、怡土郡内でも最大の平野で、東には高祖古城、西には曽根丘陵、南には井原山を最高峰とする脊振山地が肥前との国境となり、怡土平野を流れる瑞梅寺川と川原川に挟まれた天然の要害の地であった。

住吉神社

井原下町より上町方面を望む

筑前名所図会より井原部分

〈政冬の屋敷〉
 井原村内で政冬が屋敷としたのは、手塚水雪が住んでいた場所であった。手塚水雪(手塚孫太夫元直)は古譜代(中津時代に仕官した家臣)の家臣で、慶長六年に怡土郡内で三千石が与えられて井原村に居住したが、慶長11(1606)年より豊前国境の六端城の一つ鷹取城を預かるようになる(嘉麻郡大隈城を預かっていた後藤又兵衛が逐電した後、大隈城には鷹取城を預かっていた母里但馬が移り、鷹取城には手塚水雪が入る)その後、元和の一国一城令(1615)によって鷹取城は廃城となり、手塚水雪は再び井原村に住んだと思われる。しかし、手塚水雪は元和六(1620)年に死去し高祖金龍寺に葬られ、その後、政冬がその屋敷に入ったと思われる。
 また、井原村の東に位置する高祖山は、かつての国人領主原田氏の居城であり、井原村内どこからでも高祖山全体を見通すことができるため、高祖城に対して求心性を意識していたことが伺える。政冬の知行地660石を抱えていた板持村の朱雀家の記録には「甚四郎様高祖に御在城」とあり、居村する家臣らは高祖古城を預かっているという意識があったようだ。
 黒田氏が筑前入国した際、豊前国境に六端城を築いて境目の抑えとしたが、元和の一国一城令(1615)により、六端城が破却された。その後、かつての主要な古城の近くに支藩という形で兵を駐屯させ新たな国境の抑えとしたと思われる。秋月氏の古処山城に秋月藩(元和九年(1623)や直方の鷹取城に東蓮寺藩がそれで、原田氏の高祖城にも井原藩を創設し、福岡藩領を東、南、西で押さえようと考えていたのであろうか。しかし、政冬も寛永二(1625)年3月11日、疱瘡を患い二十一歳で没し、高祖村金龍寺に葬られた。

井原から見た高祖山
 
〈政冬の屋敷は今どこに?〉
 さて、政冬が居住した場所は、井原村のどこにあったのだろうか?その手がかりの一つとして『筑前国続風土記拾遺』には、その位置が記されている。それは「上村の南にあり。黒田甚四郎政冬の居館の址なり。東西三十間、南北四十一間あり、其已前は興雲公(初代長政)の臣手塚水雪が居宅の地なりしが」であった。さらに、現在でも、井原住吉宮に隣接する北側に「茶屋屋敷」という小字が残っている。また、井原村の町割りがどのような様子であったのか、明治初年に編纂された『福岡県地理全誌』には、本村(茶屋屋敷、上町、中町、下町、東横町、西横町81戸)、上鹿我子(14戸)、鹿我子(枝郷8戸)、上村(45戸)、松井(枝郷24戸)と記され、上村は町を含む本村とは区別されている。

〈井原村と前原御茶屋〉
 筑前国続風土記』には、「この村に邦君の別館有り、別館今はなし、里人曰く昔は別館有りし時、唐津の領主大久保氏、毎にこの地に遊狩ありて、この別館に寓し玉い由申し伝えと云。その後、別館を前原驛に移して之建てるとの云伝え也」と記され、『続風土記附録』には、「其已前は興雲公(初代長政)の臣手塚水雪が居宅の地なりしが、霊源公(4代綱政)の時更に御茶屋建給う。それより茶屋屋敷の名は起これりと伝ふ。この時、沢野伊右衛門その子吉太夫まで事を司りて在村す」とある。
 政冬が居住した館は、政冬の死後、街道の整備に伴って次第に整備されつつあった前原宿に移して御茶屋としたようだ。前原宿の成立について『筑前国続風土記附録』には「貞享年中舞嶽山の麓より民家を此処に移され宿駅となる。行館をも構へ給へり」と、宿場成立の年代が貞享年中(1680年頃)であると記される。一方、唐津領主大久保氏は、慶安二(1649)年より延宝六(1678)年まで唐津を領しており、前原宿ができる以前であるため、時代的にはほぼ一致する。
 また、その後四代藩主綱政の時に再度御茶屋を建てたことも記される。四代藩主綱政は、元禄元(1688)年より正徳元(1711)年までを藩主として在職し、元禄六(1693)年には高祖宮に鳥居を寄進したりと、怡土郡とはゆかりの深い殿様であった。綱政時代に存在した井原村の御茶屋については『筑前国続風土記』に元禄期に存在した御茶屋について19箇所を挙げるが、その中に井原の記載はなく、その他の記録にも井原御茶屋に関する記述は見当たらない。わずか数年間ほど存在していたのであろうか?

〈もともとの井原村の姿〉
 明治33年に日本陸軍が測量した地図がある。これを見てみると、付近にある三雲村や大門村、篠原村などの村と比べて、真っ直ぐな道や意図的に屈折した道が目立つ。さらに、井原の町名も上町、中町、下町など近世になって新しく町割りされたような町名を持ち、町内には寺が四つ(いずれも開基の時代詳ならず)も存在しているため、政冬が井原村に居住した際に町立された新しい町部分ではないだろうか。それに対して、上村と思われる部分には廃寺の跡が多く残り、村内の道は付近の村と同じような様子である。また、中屋敷や小路など中世から続く村によく使われている地名が残っているのも上村部分である。
そのように見ると、県道より南部分が、中世から続く井原村の姿であったと思えてくる。
 よって現在の井原村の姿は、政冬が1万石を与えられて村内に居住したため、商工業者が集まり、村の南側に町割が行われはじめたが、政冬の死によって幻の井原藩(秋月、東蓮寺も陣屋の所在した村名を藩名にしていることから井原藩が適当であろう)となってしまった。そういう意味では井原村は未完成の陣屋町と言ってもよいのかもしれない。また、前原宿の成立が、甚四郎政冬が立藩するはずであった井原藩によるものであったことも興味深い。 
※1万石程度なので支藩となっていたかは不明。下座郡三奈木村の黒田家の屋敷程度であったと思われる。

井原村復元図

〈参考文献〉
・福岡県史(通史編)
・新修志摩町史
・福岡藩分限帳集成

 


戦後すぐの前原航空写真

戦後すぐに撮影された、前原町を中心とした航空写真を紹介します。
戦後すぐの写真は、現在と違って開発が進んでいないため、江戸時代から続く景観を未だ残しています。全国的に、昭和40年頃までは農業を中心とした日本の風景が残っていましたが、次第に農業離れが進み、日本の景観は損なわれてきました。この写真は、まだ江戸時代の宿場町と言っていた頃の風情をよく残しています。
写真の上に川が見えますが、加布里湾に注ぐ雷山川の下流部で、鋭角に曲がっています。これは黒田二十四騎の1人である菅和泉守がこのあたりを干拓したためで、川を和泉川と呼び、新田という村があります。写真の下は、現在のJR筑前前原駅の南にある笹山公園をはじめとする丘陵地帯で、前原宿のおこりは、この山のすぐ下に前原村があったのを、街道沿いに移して宿場としました。

江戸時代に街道の宿場町として発展していた前原は、明治、大正、昭和期も糸島郡の中心でした。写真を見てみると、町と村が分かれているのが分かります。現在では、町の周辺の田んぼだったところにも家が建ち、町と村の境がわからなくなっています。
前原の地勢は、北に雷山川が流れ、南に笹山など丘陵が続く地形です。町である前原には、糸島郡の村々から多くの人々が、買い物や情報を得るために集まっていました。

前原の西南に丸田池があります。池に隣接して南に前原村の墓地があるのが分かります。(写真真ん中下部分)現在は、この場所に糸島市役所が建てられています。写真左の集落は、筒井原という集落で、前原村の枝村です。写真右上にやや太い道が見えますが、これは、前原駅から加布羅へのびる道です。通称軍用道路と呼ばれ、駅より小富士航空隊の基地へと物資を輸送するために旧道の東側にまっすぐ通された道です。

この写真は、前原のほぼ中心部です。街道に対して細長く家が並んでいるのが分かります。いわゆる短冊形町割りというやつです。また、かつて福岡藩主の別邸があった場所には前原小学校が建て(写真中央上)られ、東(右)側に運動場が拡張されている様子が分かります。

町の東入口付近の写真には、糸島女学校の校舎が写っています。現在の伊都文化会館あたりです。道が二手に分かれていますが、上を走っているのが旧唐津街道の前原宿で、下の道は、明治42年に加布里から福岡の今川橋まで北筑軌道が通ったために作られた道です。現在、この軌道の跡が国道202号線になっています。街道から真下にのびる細い道は、横町と呼ばれ、ずっと進んでいくと雷神社への参詣道となっています。

さらに東を見ると、池が見えます。この池の右横に見える丘陵は、東公園と呼ばれ、日清日露戦争の戦勝記念碑が建っていました。現在は宅地となっています。

さらに東へ進むと、現在の糸島高校が見えます。この場所は、戦国時代に繋城という舞嶽城(現在の笹山公園)の出城があった場所です。写真の中央下部分の畑があるあたりに、現在私は住んでいます。

真ん中を横に走っているのが筑肥線です。写真のほぼ中央に前原駅があり、その下に見える丘陵が戦国時代には舞嶽城と呼ばれた山です。旧前原村は、この山と駅の間にある場所を指します。

戦後、それまで日本の主な産業であった農業から工業へと移っていきます。みんなで力を合わせて行っていた農業から、個人行う仕事へ変わったとき、代々住む予定で建てられた家は、広いだけの家となり、生業の基盤であった田畑は無用となりました。したがって、みんなでする仕事ではなくなったため核家族化が進み、無用となった田畑には住居が建ちはじめ、町と村の境が分からなくなってしまいました。

前原郡屋

郡屋とは、主な宿場や村に置かれた施設で、参勤交代に関わる道具や、村役の集会所となった場所である。諸大名の通行時には、大庄屋以下各村の庄屋や組頭が詰め、様々な采配を振るった場所である。さらに、郡屋には通行に必要な筵や菰などを収納するための倉庫が備えられていた。

今回発見した資料は、将軍の代替わりごとに全国へ派遣される諸国巡見使が筑前を通行した際、前原宿にて休憩所として設えられた郡屋の絵図面である。郡屋は、街道より引き込んだ小路に面してL型の長屋門を備え、周囲を塀で囲んでいた様子が分かる。建物は、床の間を備えた八畳の座敷に湯殿と雪隠を備えた書院が備えられ、郡奉行が出張の際には宿所にもなった様子も分かる。

上の図を製図した平面図


屋根伏図
 

前原宿庄屋埴生家について

 縁というのは不思議なもので、私が、このブログに書いていた「埴生喜平次」という人物がネット上で検索され、その子孫の方より電話をいただいたのは、昨年の今頃だった。先日、お預かりしていた文書を整理して返却することができ、今まで全く不明であった前原宿庄屋埴生氏についてだんだん分かってきた。今回は、前原宿庄屋を勤めた埴生氏について書いてみようと思う。

埴生文書によると、埴生家の祖先は、土生修理左京太夫源久(永享八年−明応九年1436-1500)といい、長男が早世したため、次男修理進基義に家督を相続させた。三男の與四郎兵衛源国は、筑前国怡土郷波多江村に怡土郷管掌として分家したが、「土生」と乗ると直統の証となるため遠慮して「埴生」と名乗ったのがその起こりであるという。

よって、この与四郎衛こそが、埴生家の初代と考えられる人物である。その子、埴生大和守與三郎(天正八年三月)は、豊後国大友家に属する小田部因幡守の家人となったと考えられ、大友宗麟より感状を賜り、子の埴生采女は義統よりの感状を受けているが、小田部家滅亡の後は、原田家の家臣となったようである。

その後、江戸時代初期の記録は無く、埴生家系図によると享保五年(1720)に、志摩郡小金丸村に在住していた溝口次郎七という人物が前原宿に出てきて茅野屋という酒造業を営んだと記されている。安永二年(1773)遊行上人が、前原宿に宿泊した記録があり、その際、宿泊所となったのは、御茶屋、茅野屋十蔵、庄屋喜八、組頭喜六、組頭伊兵衛、百姓権蔵、百姓初兵衛の七軒であった。茅野屋十蔵すなわち溝口(埴生)重蔵のことと考えられる。その他の宿泊所について御茶屋は、福岡藩主の別館であり、庄屋喜八は、後に町茶屋を経営することになる津田喜八、組頭喜六は、後に志摩郡の豪商となる綿屋の西原喜六のことである。
 その後、寛保(17411743)の頃に、溝口安兵衛は、姓を溝口から埴生に改め、この頃より前原村庄屋を受け持つようになったと思われる。おそらく埴生家が断絶し、溝口氏が埴生家の菩提も共に祭っていたと考えられる。前原宿では、それまで庄屋であった津田氏が庄屋を退き、一時、志摩郡吉田村の西孫七が入庄屋をしていたが、津田氏は町茶屋守を仰せ付けられ、庄屋には代わって埴生氏が任命されたようである。文化六年(1809)唐津藩主水野和泉守、文化八年(1811)の幕府寺社奉行脇坂中務大輔が前原宿に休泊した際、本陣亭主として埴生喜平次がその接待役として出ている。岡山県矢掛宿本陣の記録によると、唐津藩主が参勤の上下で前原宿を利用する際、その宿は御茶屋であったが、本陣亭主は埴生十蔵という人物であったと記録されている。また、文政十一年(1828)に桜井神社に仰古館という神庫ができた際の寄付名簿には、「前原宿 問屋喜平次」とあり、文政の頃は問屋(人馬継所)を経営していた可能性もある。天保十五(1844)年、前原宿の御茶屋がに焼失し、嘉永元年(1848)その再建に際し、隣接する庄屋重蔵抱え古畠の土地を借り上げ御茶屋内に御寝所を増設するに及び、嘉永三年酉十月、庄屋重蔵は、その褒美として「一代居郡御通駕の節御目通り出方」を仰せ付けられた。
さらに、前原・大浦両村の庄屋となり、辺田浦干拓や、飢饉の際の備えについて、郡奉行より褒美その他を受けている。この時の重蔵は、前原宿最後の関番である萩尾定蔵(可朔)と兄弟関係で、共に吉田村の西家より養子として各家に入り、兄惣五郎(文化六年生まれ)は埴生家に入って重蔵と称し、弟の幾太郎(文化十一年生まれ)は、関番萩尾家に入り、定吉を名乗った。維新後は、第九大区、八小区の副戸長や、前原・大浦村副戸長、前原・大浦・荻浦・新田・浦志村戸長などを勤めており、福岡市平尾市埼町に移住するまで旧前原宿に居住していた。




前原宿に居住の際の埴生家の位置は、現在の油比おもちゃ店の東隣です。

明治33年の旧前原宿(旅籠千副屋の隣が埴生家でした)


問屋場の筋向いに埴生家はありました。

前原御代官に関する話

2011年10月21日(金)に古材の森歴史講座を開催します。
これまで、このブログで紹介したきたことなどをお話します。是非お越しください。

福岡藩の最西端にある前原宿
そこには、藩主の別邸である御茶屋が置かれていました。
この御茶屋を管理する役人を「御茶屋奉行」と呼び、さらに、藩境の宿場では「御境目奉行」と呼ばれていました。特に、長崎街道の黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田の六宿は、御代官と称し、ニュアンス的には御茶屋奉行よりも格上でした。
各宿場に置かれた代官並びに御茶屋奉行は、福岡藩の馬廻組という100石クラスの中級家臣が派遣されていました。代官は、藩主の別邸である御茶屋の管理と、宿場全体の管理、そして、通行する諸大名や幕府役人の対応を主な職務としていました。
さて、前原宿は、唐津街道上にあり、駐在する藩士は「御茶屋奉行」と呼ばれるべきところを、藩境の宿場町という場所柄「御茶屋奉行」と「御境目奉行」を兼帯し、六宿と同等の御代官と呼ばれていました。幕末頃に前原宿の代官をしていた田中杢次郎より 「御境目検分済、村役よりの書面差出受取置」という連絡が福岡藩の役所に届けられた記録が残っています。
前原宿の代官の変遷を記録より拾い上げてみる。
‖臾扈右衛門(寛文年間)
∋暗舖ケΡ厂隋弊菊素間)
7汗喫識辧弊菊素間)
ぬ瀬藤太夫(享保年間)
ヌ瀬太兵衛(安永年間)
μ瀬与平治(文化年間)
柳瀬与太夫(文政年間)
そして、幕末になると、その在任期間は短くなり、次々と交代が行われました。
内海与左衛門
牛尾右膳(安政三年〜万延元年)
田中杢次郎(文久元年〜文久三年)
平賀傳左衛門(文久三年〜元治元年)
田中杢次郎(慶応)
文久三年末、前原代官田中杢次郎は、それまで木屋瀬代官であった平賀傳左衛門と交代し、田中は木屋瀬代官へ繰り上げとなり、平賀は前原代官へ引越しとなりました。

前置きが長くなりましたが、最近、この前原宿の代官が居住した代官所の間取り図を発見しました。これまで、代官所は、建坪が40.75坪であることと門が長屋門であったことなどしか分かっていませんでしたが。しあkし、この図面によって間口や奥行き、敷地の形、建物内の様子などが分かりました。原本ではなく、分かりやすく清書した画像を載せます。

図の下が北です。敷地は、長方形で、街道に対して間口を構え、中央に長屋門を構え、敷地の表側には練塀を築いていました。長屋門を入ると、L字の茅葺の主屋があり、玄関部分は破風が付いていました。主屋に入ると左側(東側)に応接のための座敷があり、右奥にかけて台所や居間、奥の間など居住部分となっていました。敷地の東南に「社」と印された部分があり、おそらく屋敷神が祀ってあったのでしょう。




記録と記録の一致〜書家時枝峰雲と関番時枝保兵衛〜

昭和16年に発行された 『前原町誌』を見ていて、ある人物に釘付けになった。
それは、時枝峰雲(1803〜1879)という仙涯和尚に絵を学んだと云われる幕末の書家である。出身は前原で、通称を保兵衛という。
時枝保兵衛という人物は、私が知っている限り前原宿関番所に勤務していた人物である。
時枝氏は、前原宿に6名いた旅人が持つ通行手形を改める「関番」という役人の一人で、幕末の元治元(1864)年の名簿に時枝与左衛門(二人扶持四石)という名を確認することができ、明治七年の名簿にも時枝与三という名を確認することができる。
おそらく、与左衛門の父と思われる時枝保兵衛は、萩尾(定)文書の中に記録されていた。文書の内容は、波多江軍兵衛という関番が、退役するにあたり、波多江利蔵という人物を新たに関番に任ずるため、関番である萩尾定吉と時枝保兵衛が福岡に出向いたという内容である。文書の差出人が、今宿に在住していた怡土志摩郡代の貝原一兵衛であるので、文久元(1861)年頃と思われる。時に時枝保兵衛58歳である。
この時枝保兵衛と時枝峰雲が同一人物であるという決め手は今のところ見つからないが、『前原町誌』に、時枝峰雲の絵馬が糸島市岩本の西宮神社にあると記してあったので見に行った。

それは、文久二(1862)年の年号の入った絵馬であった。右下に峰雲の落款があった。それより2年後にあたる元治元(1864)年の関番名簿を見ると、時枝与左衛門となっており、59歳の保兵衛は退役し、おそらく息子の与左衛門(与三)に関番を譲ったものと考えられる。

さらに、同僚の関番であった萩尾定吉(可朔)が亡くなった後に描かれたと思われる肖像画(明治14年)には、時枝更生(露滴)なる人物が賛をいれている。しかし、明治14年には峰雲はすでに亡くなっているから、息子である時枝与三(更生・露滴)がこの賛を入れたのではないかと思われる。関番という役人でありながら、父保兵衛と同じく書も嗜んでいたのであろうか。いずれにしても、記録と記録が一致し、新たな郷土史の1ページを見つけた瞬間であった。

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