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  • 2016.10.30 Sunday
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篠原古城(つなぎの城)を探す

現在、私は実家のある有田の北隣にある篠原というところに住んでいる。
ここには「つなぎの城」という舞岳城(現在の笹山公園)に連なる城があり、それが糸島高校付近であると云われていたというのは知っていたが、最近になって古い測量図や村の配置などを見ていると「つなぎ城」は別の場所にあったのではないかと思い、改めて調べてみることにした。

波多江より舞岳城と篠原村を望む

篠原村は、怡土郡に属し近世は福岡藩領であったが、以前は多久村と共に志摩郡波多江村の内で天喜三(1055)年に独立し怡土郡に入れられたそうである。村は雷山より伸びる台地上にあり、村の北側に八幡宮と西側に旧本村であった西からなる。枝村に延命寺と新屋敷があり村の東側には雷山川が北流しその周辺には水田が広がっている。
そもそも、つなぎ城が糸島高校付近にあったというのはいつ頃から言われはじめたのであろうか?『筑前国続風土記』の古戦古城記には「篠原村の境内に、つなぎの城とて、波多江上総助鎮種か里城の址有り。前原の城につらなりたる故に、つなぎと名付しならん」と記され具体的な場所は記されていない。
『筑前国続風土記附録』には篠原古城について「つなきの城ともいう。今は松山となれども、絶頂平らかにして南北百五十間余あり、東西凡五十間、山の半腹に堀の跡あり、東西に廻れり」とある。さらに、『筑前国続風土記拾遺』では「篠原村の西低き山在。繋城と云。今松樹繁れり」と記され、これらを基に考えてみると、その位置は篠原村の西にある小高い丘であることが分かった。
しかし、昭和四年発行の『糸島郡誌』を見てみると「延命寺」の部分に「篠原枝村の西一町にあり、小高き松山なり。繋城とも云う。山上平らにして南北百五十間東西五十間、山の中腹に堀の址南北に廻れり。破瓦など出ることあり。又小さき古墳あり」とあやふやな記述がなされている。『糸島郡誌』は、附録や拾遺をもとに書かれているが、その記述には間違いが多く、以前井原村にあった黒田政冬の屋敷跡を調べたときも方位が間違っていた。この篠原古城の部分もそうで、郡誌の記述を鵜呑みにすると「篠原村の枝村である延命寺の西1町にかつての延命寺があってそこを繋城と呼ぶ」という間違った解釈になってしまう。したがって、篠原古城(繋城)が糸島高校部分にあったとされる説は『糸島郡誌』の記述をそのまま引用したため間違ったことになり、正しくは篠原村の西にある小高い丘に篠原古城があったというのが正しい。糸島高校付近がつなぎの城であるというのが通説になってしまった由縁は『糸島郡誌』にあったことが分かった。
ということであらためて篠原古城を探してみた。

明治時代の地形図に現在の主要な建物や戦国時代の城跡等を書き込んでみると、このような位置関係となる。篠原村の西に小高い丘があることが分かる。左端に舞岳城があり右端に波多江村、その間にあるのが篠原村である。つなぎの城とは、中継基地の役割を持つ城で、本城と支城での移動時の中継の役割を果たすため広い曲輪を持たせるのが特徴である。このつなぎ城は原田氏の本城である高祖城とその支城である舞岳城を繋ぐと云われていたが、この地図を見ていると後に波多江氏の居住する波多江村と舞岳城を繋ぐ城であったと考えられる。

戦後すぐの航空写真を見ても小高い丘が写っており赤で印をつけた部分が城跡であった。戦後、ここには桃が植えられ通称「桃山」と呼ばれていたが、昭和50年代に団地が造成され桃山団地となったため城の遺構はほとんど分からなくなっている。

この丘を南側にある池から望むとこのように見え、左端には本城の舞岳城も見える。

城跡の遺構が分からなくなっているとはいえ、旧本村であった西集落より篠原古城を望むと、現在でもこのように急に標高が高くなっており、かつて城があったことを伺わせる。「波多江旧記」には、天永二(1111)年に大蔵(美氣)種房がこの地を賜り、筑後国にあって篠原辺りを領していたが、正治二(1200)年にその子孫の種貞が篠原の西岳という場所に山荘を構えたという。そして後に波多江の姓を名乗ったという。この山荘を構えた場所が波多江氏の屋敷であり後年、篠原城または、つなぎの城と呼ばれた場所となる。つまり、篠原城は糸島における波多江氏発祥の地でもある。
今回、調べてみて思ったことは『糸島郡誌』は現在からすると古くて分厚い本なので書いてあることは全て正しいと思いがちであるが、つなぎの城の件にしても井原の黒田政冬の屋敷跡にしても孫引きにあたるため、その編纂の元になった原資料を当たらなくてはいけないという事を改めて考えさせられた。尤も『筑前国続風土記附録』や『筑前国続風土記拾遺』に関しても絶対的に信頼できる資料ではないと思うので、やはりその他の地形図や聞き取りなどを含めて多角的に見る必要があるとも感じた。




 

蓮池陣屋〜佐賀蓮池鍋島家〜

 私が 大学の頃、KBC九州朝日放送の「九州街道ものがたり」を見ていたとき、「佐賀三支藩物語」という放送があった。それまで、佐賀には佐賀藩一つしかないと思っていたのに、小城、蓮池、鹿島という3つの小さな藩がある事を知り、それがどこに、どんな館を構えて存在していたのかがとても知りたくなって、いろいろと調べたことがあった。私は、どうも大きな城とか藩よりも、できるだけ小さくてコンパクトな城が好きみたいで、この支藩の城(館)にとても興味を持った。
支藩とは、大名分家の内、1万石以上を分知され将軍によって認められた藩をいう。主に本藩の補佐や血統保持の役割を果たした。佐賀三支藩はいずれも、佐賀本藩の領地朱印(35万石)に含まれていた。これを内分支藩と呼ぶ。内分支藩の他に、本藩とは別に領地朱印を交付されるものもあり、これは外分支藩と呼ばれて独立していた。福岡藩の支藩である秋月藩は、幕府から朱印状を受ける外分支藩であった。

佐賀藩には、本藩の他に小城藩7万石、鹿島藩2万石、蓮池藩5万石の三支藩があった。これらの創出は、鍋島家の主家であった龍造寺家が断絶したため、その家督を重臣であった鍋島直茂の子勝茂が相続するという稀なプロセスの藩である。そのため、龍造寺家臣団に対して三部上地(知行の30%を献じる)を行って蔵入地を拡大させ、龍造寺一門に対抗するべく鍋島一門の支藩を創設した。慶長14年に鹿島藩を創設し、元和3年に小城藩、そして寛永16年に蓮池藩を創設した。これらの三支藩は寛永19年から大名として扱われたため、佐賀藩内で参勤交代や公儀普請などを4つも行っているというかなりの負担を強いられ、支藩側も大名として扱われている以上、藩としての体面を保ちたいと思い、本家である佐賀本藩を超える場面も多くあった。

さて、三支藩の中で最も遅い設立の蓮池藩は、その陣屋を佐賀城より東へ5km程の場所にある蓮池に置いた。ここは、かつて常陸国より移り住んだ小田常陸介によって築かれた城跡で、その後、鍋島直茂・勝茂父子が整備して居城としていた。この頃には天守もあったといわれるが、その天守は、秀吉による朝鮮出兵の際に建てられた名護屋城の大手門櫓として移築したという。鍋島氏が佐賀藩主となった後、かつて龍造寺氏の居城であった村中城を改修して居城とし、さらに元和の一国一城令によって蓮池城は廃城となっていた。それから40年ほど経った承応三(1654)年、勝茂の三男である直澄は、廃城となっていた蓮池城を改修して陣屋とした。

現在、かつて陣屋の置かれた場所は、蓮池公園となっている。田園地帯のなかにある寂れた公園といった感じである。明治になって旧藩士らは職を失い各地へ転出した。そのため、陣屋の周りにあったと思われる武家屋敷もほとんどなく、その跡地は田んぼと化している。

明治になると、陣屋は県庁となって再利用されていたが、明治6年に消失し、明治10年に蓮池公園として整備され、旧藩主を祀る蓮池神社が造られた。

軒瓦には蓮池鍋島家の紋である花杏葉が使われている。

境内には築山・泉水があるが、おそらくこれは明治10年に公園化する際に造ったもので、藩主館の泉水を利用して造られた庭園であろう。昭和21年に写された『蓮池陣屋城略図』にはこの部分には泉水が描かれるが、築山はなく藩主の奥となっている。

かつて、蓮池城は、佐賀江川の蛇行した部分を利用して築かれていた。この部分を大曲・小曲といっていたが、現在は河川改修によって真っ直ぐになり、曲がった部分は埋め立てられている。陣屋の裏手に当たるこの川は、艤舟湾と呼ばれ、大船が接岸できるほどの深い場所であったといい、藩主が塩田(家臣の三部上地によって創出された蓮池藩は、その領地が藤津郡に多くあった)に行く場合は、ここから乗船して蓮池藩の主要港蒲田津まで行ったという。

さて、蓮池陣屋の構造はどのようになっていたのであろうか。
初代藩主直澄は、陣屋周辺を牙城・城内・郭内・郭外の4区画に分けた。牙城は御殿を置いた陣屋を指し、城内は陣屋を囲む上級家臣の屋敷があった方形区画を指す。郭内には魚町、本町、神埼町、城原町、紺屋町と呼ばれる町屋がL字に配置され、その外側にあたる西小路や北小路には武家屋敷や寺社地が置かれた。南と東側は、佐賀江川と中地江川が堀となる天然の要害であった。

現在、蓮池神社のある場所が藩主の御殿のあった場所であるが、明治10年の公園化によって御殿の範囲が分かりにくくなっている。蓮池神社の周りを堀が囲んでいるが、これは陣屋の遺構ではなく明治期に改修されたものである。かつて陣屋の北側には馬場があり、御殿と馬場を分けていた堀は現在埋め立てられているものの牙城と城内を分ける堀は現存しているため、陣屋の範囲はかなり広かったことが分かる。

陣屋の中心部であり、藩主の居住した御殿の内部構造については、昭和21年に写された「蓮池藩城略図」によっておおよそ知る事が出来る。現在、蓮池公園の入口付近にある城内会館の横には堀の残存がある。ここからが陣屋の内部となる。公園入口とほぼ同じ場所に表御門があり、門を入ると武器庫が二棟あり、十一間の間という大広間を中心に表とその東側は奥で構成される。御殿の北側には、渡り廊下を挟んで役所が設けられている。表御殿の東には堀を挟んで七代藩主直温の隠居所が建てられた。この館を東館と呼ぶのに対し、表御殿を西館と呼ばれていた。
弘化二(1845)年には、東館の廻りに八代藩主直興が天賜園という池泉回遊式庭園を造った。中地江川から水を引き、泉水を中心に枝分かれして水濠が巡り、各所に馬場や稽古場・茶等があった。春には梅が、夏には柳の美しい庭園であったといわれる。この天賜園にあったとされる八代直興が記した「帰田詩」の碑は、河川改修によって向こう岸となってしまった中ノ島の横に移動させられている。天賜園についての紹介を時々見るが、その場所を、現在の神社から川を挟んだ対岸としている。これは間違いで、かつて中ノ島という泉水であった場所がこの部分で、天賜園の場所は、現在東館の跡地に建てられている蓮池公民館の東側にあたる。しかし、この部分は現在畑となっており、その遺構は全く残っていない。佐賀県立博物館と蓮池魚町にある浄国寺に所蔵されている「天賜園総図」によってのみ見ることが出来る。

蓮池陣屋は、鹿島・小城に比べて、かつての城下町の雰囲気がほとんどない。武家屋敷の雰囲気を持つ家も全くなく、その跡地が田んぼと化している。しかし、古地図や文献を見ていくことで、かつての陣屋の姿を蘇らせることは非常に楽しい。




 


筑前国怡土郡 有田城跡

糸島郡内の各村には、戦国時代に、この地方で勢力を持っていた原田氏の旧臣を先祖に持つ家が多い。糸島市雷山校区にある有田地区には、高祖城主原田氏の家臣として有田氏(官職名:因幡守)という豪族がいたことが伝えられている。
有田村が記録に出てくるのは、周防国の大内氏の奉行である相良正任が記した日記「正任記」の中に、文明十三(1481)年、飯田次郎右衛門入道の所領であった怡土郡有田村七町のうち五町を吉賀江上上総介楼造法∋弔蠧鹹を御笠郡岩屋城の在城料として郡司鳥越越前守忠経に与えたと記され、室町時代後期の有田地区は飯田という人物の所領であった事が分かる。それから約50年後の享禄五(1532)年、に
木原盛連・箱田長安・眞島景盛の連署で怡土郡有田筋目居屋敷が有田源三郎という人物に与えられている。この有田源三郎という人物が次第に勢力を増し、戦国時代に原田氏の傘下に入るようになったと考えられる。天文二十四(1555)年、原田隆種が有田蔵丞の軍功を賞して二町地を宛行い、有田神五郎という人物を右近充に任じている。永禄八(1565)年には勢力を盛り返した原田隆種(了栄)が長年の苦労に対し、七反の地と居屋敷を有田彦七郎に与えて賞している。
また、江戸時代に有田村の庄屋であった有田家に伝わる文書によると、有田氏の自出は、平重盛の妻が原田種直に下され、その後に設けた男子が有田氏の祖であると伝えられ、嘉元三年(1306)、有田右衛門は、有田村に居城を構え、いつの頃からか有田殿と呼ばれるようになったという。永禄十年(1567)より天正十四年(1586)に至るまで、様々な合戦に原田軍の将として活躍し、特に、永禄11年(1568)の小金坂の合戦では、有田因幡守宗良に抜群の戦功があり、原田家から感状その他で賞されている。ちなみに、糸島には二丈波呂村に有田姓があるが、同村に居住していた有田市佐は、原田家惣政所を司り郡吏を兼帯していたという。

その居城である有田城は、原田氏が勢力を持った怡土郡東部平野の入口守る要害の地であり、高祖城と対面する位置にあったため重要な城であったと考えられる。江戸時代に編纂された『筑前國続風土記』には、「有田村古城、城主は郡士有田因幡守住せりと伝へたり」と記されており、昭和初期の編纂である『糸島郡誌』には「大字有田の原口の南より大字富に出る小路の上に小山あり、是郡士有田因幡守住せし処と伝えたり」と記されている。古記録によると、城跡は「茅山」「とんの山」と呼ばれていたという。現在、はっりとした場所は不明であるが、神社の裏手にある標高56.2の場所ではないかと思ってたが、神社のすぐ西北にある有田一号墳がそうではないかと考えられる。

明治35年の地図 有田村の左手に小高い山がある。有田村の鎮守熊野神社が鎮座する山であるが、ここに有田城があったと推定している。

有田村の鎮守である熊野神社。この神社は、文明年間の創設と伝えられ、「天文元年壬辰戴十二月二十三日石橋坊源正員」という棟札をはじめ「永禄十二年十九日大檀那大蔵朝臣隆種建立願主権律師朝威奉行大神朝臣正次」「再興天正十二年二月二十三日大檀那大藏朝臣原田隆種建立願主権立師朝威奉行源朝臣進」「在城無難」など原田家に関係の深い棟札が上がる。棟札により、天文元年には神社は存在し、永禄十二年に原田了栄が建立し、天正十二年に再建させた由緒を持つ原田家の信仰の厚い神社であることがわかる。

原田家隆盛の頃は祭礼も盛んで前原の海岸まで神幸があっていたという。現在、前原商店街にある旧家の敷地内には、熊野権現の神幸が行われていた事を示す権現潮井場の石碑が残っている。


この山の周辺を見下ろす高台には古墳がある。有田城は、これを利用したのではないかと考えられる。江戸時代の記録に、「御社の乾の方に当りてたかき地に古へ御幸に用ひし物納めたる後と云伝へて今も里人其虚はいたくかしこみて汚し物せぬとなむ」とあり。当時、鏑流馬や神幸に用いた品を埋めた所が神社の西北百メートルにあり、神聖な地として汚れないようにしていると記されている。神社の乾は、まさにこの古墳のある場所なので、古くから重要な場所としていたと考えられる。
現在の有田1号墳の様子。古墳時代前期の前方後円墳で約30mの大きさがある。有田村やその東部に広がる平野を見下ろす場所に造られており、古代から有力な人物がいたことを思わせる。 現在は削られてなくなっているが、社殿の南側にも方墳が2基確認されている。記録がないのであくまで推測であるが、熊野神社の上宮はこの古墳の墳丘の上にあり、その後下に降ろされたのではないかと考えられる。そして、かつて上宮のあった場所は神物理地として汚れないようにとの伝承が残ったのではないかと考えられる。




有田城推定地は、熊野神社の裏手西北に位置し、有田村の東側に広がる平野や原田氏の居城高祖城を望むことができる。

現在は神社の南側と北側は、昭和50年代に公園化や宅地化のため削られてているが、以前はうっそうと生い茂る山であった。現在社殿がある場所も、山を削って建てられおり、鳥居などの年号からおそらく神社一帯が整備された明治30年代頃に削られたと考えられる。


原田氏の居城高祖城からは、有田村がこのように望める。有田因幡守は『高祖侍名籍』に記される幕下国士十二人衆の1人に数えられ、高祖城の有力支城として有田城が存在していた。

現在、有田地区で家紋を調査したら図のようになった。図の右側を占めるのが、引き両紋の有田家。左側を占めるのが丸に竹の有田家である。有田村は近世は幕府領を経て豊前中津領であった。有田村の中心に位置し近世庄屋であった有田家は後者の紋を使用している。また、引き両紋は、原田家の家紋でもある。
永正八(1511)年、原田興種は、船岡山合戦にて大内義興軍に参陣し、足利義稙より感状と三引両紋の使用を許されている。
 
有田氏略年表

享禄五年(1532)

怡土郡有田筋目居屋敷を、大内氏重臣が有田源三郎に与える。(註1)

 

天文二十四年(1555

原田隆種が有田蔵丞の軍功を賞して二町地を宛行う。(註2)

同年有田神五郎を右近充に任じる。(註3)
 

弘治元年(1555)  

安芸の毛利元就が厳島において陶氏と戦ったとき、原田隆種は毛利軍に参加して毛利氏の勝利に貢献した。この時、有田内蔵充京直が大いに働きを賞された。
 

永禄八年(1565)  

勢力を盛り返した原田隆種(了栄)が長年の苦労に対し、少しではあるがと七反の地と居屋敷を有田彦七郎に与えて賞している。(註4)(註5)
 

永禄十年(1567)曽根原の対陣 

肥前の竜造寺隆信の侵入で、原田了栄は曽根原で対陣し、志摩郡の臼杵氏抑えのため、高祖城の留守番役に有田因幡守(正員)中島・大原・鬼木らを残した。
 

永禄十一年(1568)小金坂の戦い

志摩郡政所臼杵新介は高祖城を攻めるため高祖の麓にある小金坂に進軍。原田軍は兵を二手に分けて挟撃し、臼杵新助は柑岳城に退却した。この戦いで、抜群の戦功のあった有田因幡守宗良は、原田家から感状その他で賞された。
 

元亀元年(1596

原田隆種(了栄)家臣に有田因幡守・有田瀬左衛門
 

元亀三年(1572)池田河原の合戦

臼杵進士兵衛鎮氏が、待ち伏せして原田了栄に斬りかかったため、同二十八日に池田川原で戦をし、有田因幡守が精兵として出陣している
 

天正七年(1579)第二次生松原合戦

戸次道雪・高橋紹運・志賀道輝が高祖城を攻めようとした時、原田藤種は有田因幡守を将とし、太田・三坂・西・西郷に四百余人を従えて日向峠に布陣。退却を装った小田部軍に誘われ山門鉢の窪を経て姪浜に及ぶところを有田因幡守が原田藤種に警告した。
 

天正七年(1579) 

第二次生松合戦の恩賞として原田了栄は志摩郡のうち一町を有田彦七郎に与えている。(註6)(註7)
 

天正十二年(1584)鹿家合戦

3月祝儀として高祖城に来た肥前岸岳の城主、波多信時の弟時実は饗応中、笠笠大炊勘助と口論になり、波多が怒って刺し殺そうとする所を有田因幡守・鬼木・深江らがなだめて帰らせた。その後波多氏は三千の兵をもって、浜崎に軍を進め、吉井浜に本陣を置き、原田信種は先手として有田因幡守らを出陣させ鹿家峠付近で波多ら一千余人と戦う。
 

天正十三年(1585

原田了栄・原田信種から有田小太郎に師吉之内弐町八段、有田村之内四段、山北村之内 八段、橋本村之内九段が与えられた。註8
 

天正十四年(1586)岩屋城攻め

原田信種が、島津氏の命で岩屋城の高橋紹運を攻めた時に有田因幡守宗良が手柄をたてた。
 

天正十四年(1586)高祖城落城

豊臣秀吉が九州平定の軍をおこすと、原田軍は高祖城に籠もり、秀吉軍と対決しようとした。有田右衛門は油坂に布陣したが、軍は総崩れとなり搦手の陣所上ノ原に退却した。
 

天正十四年(1586)高祖城退去

高祖城退去の折りは、有田右衛門尉は信種に随行して城を後にした。
 

天正十四年(1586)朝鮮出兵

秀吉が朝鮮出兵した折りに原田信種は、二番団の加藤清正の部将として渡船しており、共に有田右衛門丞と有田惣四郎が出兵している

(註1)享禄五年九月二十一日 有田源三郎宛 木原盛連・箱田長安・眞島景盛連署打渡状

(註2)天文二十四年十二月九日 有田藏充宛 原田隆種宛行状

(註3)天文二十四年十二月十三日 有田神五郎宛 原田隆種官途状
註4)永禄五年九月十日 藤原鎮永書状…有田彦七郎宛

註5)永禄八年二月二十八日 留守宮内少輔鎮信安堵状…有田彦七郎宛

註6)天正七年十月八日 原田了栄宛行状…有田彦七郎宛

(註7)天正七年十月□日 深江種周・松隈種正・原田種秀連署坪付…有田彦七郎宛

(註8)天正十三年閏八月十七日 富田家茂・深江種周・友枝宗益連署坪付…有田小太郎宛


料亭 怡土城


今はもうなくなってしまったが、旧前原市の高祖山の麓に高来寺という場所があり、そこに料亭怡土城という料亭があった。私が知っている頃はもう料亭はやめられており、建物のみが残っている状態であった。当時、中学1年生の私は、この建物が好きで好きでたまらなくて、この建物の絵を何度も描いていたような記憶がある。白漆喰の二階建ての建物で、L字に曲がったその間には庭園があり、鯉が泳いでいた。料亭時代は鯉料理で有名な場所だったという。建物の中には入っていないが、聞く話によると、中には床がガラス張りになっている部分があり、下を鯉が泳いでいたという。この建物で最も特徴的なのが、屋根の上に載った望楼である。四畳半位の広さではないかと目測するが、この小さな望楼の中に自分の部屋を作ったり、あるいは将来このような建物を建てることがあれば、こんな望楼を載せたいなどの想像を膨らませた部分であった。その後、この建物は解体され現在は建物は解体され、庭園のみが残っている。

天空の城 二丈岳城

今年の二月、糸島市の二丈岳城に登りました。
戦国の城にだんだん興味を持ち始めたこの頃、お城の専門家にお願いして、気になってしょうがなかった我が有田城をはじめ、加布里城など糸島の城を案内してもらいました。集落と村の城の関係や地勢など、中世が想像できてとても面白い同行でした。そして、最後に連れて行ってもらったのが二丈岳城です。山頂付近まで車で乗り入れることが出来たそうですが、なかなか見つからず、結局上り口の真名子集落から登りました。(その駐車場は登山の途中で発見しました)作成された縄張り図をもらって、郭の位置や掘り切り、石垣などをみました。

そして、山頂に到着したところ、その見晴らしの良いこと
高祖城や柑子岳城など糸島の主な城やその全域が見渡せるくらいの絶景。
大内氏による城攻めも経験しており、その後おそらく天正12年頃に鏡山
大宮司である草野鎮永(原田家より養子)が改修して石垣や大きな平坦を
持つ城になったようです。



来年も登りたいな!

 

江戸城 再登城!

念願叶って、再度、挑戦することができた江戸城への登城
この前行ったときは、金曜日だったので、江戸城は休園日
今回は、中まで入ることができました。
今回も出発点は、東京駅
この前は、養生シートがかかってましたが、
今回は、養生も取れて、その一部分が姿を現していました。

東京駅を取り囲む塀には、東京駅に関する解説が掲げられていました。

駅の敷地は、江戸時代大名屋敷だったんです。
それから、江戸城の正面口「大手門」に向かいました。

諸大名は、登城の際、この門から登城し、門前の広場には供侍たちが、藩主が戻ってくるまでずーっと待ち続けたそうです。今はその面影も無くただビルの林となっております。

お堀を渡って高麗門を潜ると渡櫓門、それを潜ると三の丸尚蔵館という皇室の名品を展示する資料館があるのですが、休館中でした(残念)

少し進むと、三の丸から二の丸へ渡る橋がかつて架かっていましたが今はありません。二の丸へ入るための三之門前に同心番所があり、大名の供侍を監視していました。ここからは、馬上の者も下馬して本丸へと向かいました。

大手三之門跡、ここから二の丸へと入ります。

切石の美しい中の門を潜ってさらに中雀門を潜ると、本丸に到着です。

かつては壮大な御殿が広がっていた本丸も、今は何も無く、大きな桜の木が満開でした。

もちろん、松の廊下跡も見ました。

大奥があった場所も芝生の原っぱです。

天守台跡、日本一の天守閣があった場所。切石が美しい

角を落として製材された石がきれいに積まれています。

そして、天守を後に平川門を出ました。ところが、この場所で愛機キャノンG11にレンズエラーの表示がでて、壊れてしまいました。まだまだ撮りたいところいっぱいあったのに・・・・福岡に帰ってカメラは入院させました。


高祖城 登城

戦国時代、糸島地方を治めていた原田氏の居城「高祖城」
昨日、天気がよかったので登城してきました。
高祖城は、昔から登っているのでおおよその位置関係は分かりますが、
詳細な縄張り図があったので、それをもって改めて縄張りを見てみたいなと思ったのですが
肝心な縄張り図を忘れてしまい、普通の登山になりました。
今回は、5歳の百花と3歳になる文香を連れての登山となりました。

高祖山を望む。麓には菩提寺である金龍寺の屋根が見えます。
山頂部一帯が高祖山城です。

直線に伸びる大手道。左右に武家屋敷のような屋敷が立ち並んでいます。
生垣で囲まれた同地区は、まるで知覧とか出水の武家屋敷のようです。

登山口となる高祖神社

檜皮葺の社殿は、老築化が進み修復を考えられているそうです。

途中は峻険な登山道を一生懸命登りました。
※登山も下山もどちらか一方を抱えました。

上の城(本丸)より糸島平野を望む
正面は可也山、遠く芥屋大門や唐津まで見渡せ、舞岳城や親山城、繋城や有田城、
波多江丹波守屋敷など真上に近い位置から見下ろせます。原田氏がここに居城を
置いたのもうなずけます。

こちらは今津方面を望む
博多湾より遠く玄海島や立花山城などが見渡せます。

笠次郎繁種の居城である舞岳城(現在の笹山公園)

有田因幡守の居城である有田城 手前は曽根原古戦場

海賊たちの城

作家 白石一郎の著書に『海賊たちの城』という短編小説がある。
かつて瀬戸内水軍のひとつで、伊予の来島を本拠地としていた来島氏は、豊臣秀吉の配下となり朝鮮出兵では、水軍の将として参戦したが、関ヶ原では西軍についたため流浪の身となっていた。
その後、福島正則らの仲介によって一命はとりとめたものの、海とは無縁の豊後国玖珠・日田・速見の内、1万4千石の小大名となってしまった。徳川幕府の基本政策の一つに「水軍絶滅」があり、織田・豊臣の水軍である熊野の九鬼氏が丹波の山中に移封されたように、瀬戸内村上水軍であった来島氏も豊後の山中に移封されたのである。その後、来島氏は、二代藩主通春の御世に「久留島」と改め、久留島氏を藩主とする豊後森藩が成立したのである。
さて、万石未満の小大名は、城を持つことが許されず、その居所は「陣屋」と呼ばれる館であった。しかし、8代藩主通嘉が文政四年(1821)から天保四年(1884)にかけて、陣屋の背後の三島宮を改築するという目的で城を築いてしまったというのがこの小説である。
以前、この話に非常に興味を持って、遠く玖珠まで何度も足を運んだ。豊後森という小さな城下町の一角に三島公園という特に何もない公園があって、かつては、そこに陣屋が存在したのだが、現在は、庭園などの遺構が残るのみであった。しかし、小説通り、三島宮のあちらこちらに三重の石垣や、櫓跡、高石垣や城門などが配置され、天守に見立てられた栖鳳楼という二階建ての茶室があってまるで小さな城を思わせる神社であった。
神社の裏にある大手門を思わせる清水御門

石垣で造られた御長坂という三島宮参道

藩主御館の庭園

八代通嘉が建てた栖鳳楼。紅葉の御茶屋ともいわれた楼閣である。

末廣神社から直接入ると二階部分になる。崖を利用して二階に直接
入れるようなつくりになっている。

江戸時代の僧 不退堂によって揮毫された栖鳳楼の額がかかっている。

城づくりの神社で天守閣に見立てられてつくられたこの建物からは
森城下が見下ろすことができる。

明治に玖珠郡役所となった旧藩邸の古写真(明治29年)
正面の山の上に建っているのは栖鳳楼。その右下奥に見える茅葺の建物が郡役所。
右端の建物は郡役所の付属舎、左側の瓦葺の建物は登記所、右手前が末広神社の御仮屋である。

陣屋は、廃藩置県後に大部分が解体されたが、明治期に一部を玖珠郡役所として利用された。
この写真は、もと遠侍と呼ばれる侍の詰め所であったという。昭和10年頃より幼稚園として利用された。

右端に見える屋根が栖鳳楼、左端が三島宮。幾重にも重なる石垣が見える
※古写真は、玖珠郡史より転載

備中松山城

最近、写真を整理していると、6年前に岡山に旅行した時の写真が出てきました。
本当は、世界遺産になった姫路城を見に行きたくて出発したのですが、途中で根気負けして、岡山に降りたわけです。岡山では、倉敷、岡山城、後楽園、備中高松城に行きましたが、中でも、特に行きたかった場所が備中松山城でした。小学生の頃、熊本城や大阪城など五層七階の大天守より、二層の小さな天守閣にとても魅力を感じ、いつか行きたいと思っていた場所でした。
松山城というと、四国の伊予松山城が有名ですが、この備中松山城は、標高約400mの山上に築かれた山城です。幕末期には江戸幕府老中首座になった板倉氏が治めていた城下町でした。

自然石を利用した峻嶮な石垣は見事です。

枡形虎口は、敵が侵入する際、左右から攻撃できるように作られた入口です。

天守郭には、二層の天守閣や櫓で固められています。

城からは、城下町がこのように見えました。

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