スポンサーサイト

  • 2016.10.30 Sunday
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


松原御出の配置

江戸時代、藩主が参勤のために国許を発つ際、各藩ごとに様々な送迎の作法がありました。
福岡藩では、以前このブログで書いた「首途」という出発の際に三奈木黒田家の屋敷に立ち寄って笠と鞭を受け取る儀礼と、今回紹介する、千代松原での見送りの儀礼がありました。
参勤当日、藩主は福岡城を出た後、博多の出入口である石堂橋を渡り、千代の松原を通り箱崎八幡宮に参詣して江戸へ向かいました。その際、この千代の松原には、見送りのため主な藩士一同やお目見えを許された町民や農民が並びました。この送迎は特に「松原御出」といい、この送迎に参列できる資格は誉れ高いものであったといいます。
今回、この松原御出で家臣たちが並んでいた場所は今のどこにあたるのかを検証してみたいと思います。
まず、文久二年三月に参勤のため出発した福岡藩主黒田斉溥の参勤記録をもとに、その行動を見てみることにします。
福岡藩主は、朝五時の供揃で居館である三の丸の御下屋敷を発駕します。その後、本丸御殿と城内の三奈木黒田家に立ち寄り参勤発駕の儀礼を終えた後、福岡城の正門である上の橋を渡って城を出ます。御用人たちはこの橋に並び、藩主より御意を給わります。行列は、大名町〜天神町を通って枡形門を出て博多に入り石堂橋を渡ります。
橋を渡ると、松原の中に二つの道がありました。箱崎へ行く道と金出村へ通じる金出道で、箱崎道をすこし進むと、筆頭家老の黒田播磨を先頭に家臣一同見送りのために並んでいます。藩主は、そこで駕籠を下り、家老たちの近くへ寄って御意を述べ、諸士中が並んでいる所まで歩き、半礼(陸士・側筒など)の者が並んでいる所から駕籠に乗って進みました。祟福寺前を通行の際には、側筒頭を使者に参勤のために出発することを寺に伝え、その後、街道を通り筥崎八幡宮に参詣します。
箱崎八幡宮では、楼門前に座主坊が出迎え、御宮には蓮城坊が罷り出、奉幣を田村左馬允が勤めました。藩主は御初穂として銀一両を納めました。藩主は、筥崎宮を参詣した後、箱崎にある別邸の御茶屋に入ります。そこへ、座主坊と田村左馬允が罷り出て御札守を差し上げました。

この行動を図にしてみました。現在、この辺りは開発が進み、家が建ち並んでいるため当時の景観は全く残っていませんので、明治35年測量の地図をもとにしました。左側が博多で右端は箱崎宿です。主な道を赤線で示しています。家臣の配置は『福岡県史』に掲載されている「御参勤御発駕の節松原座配図」を参考にしました。

(文化9年 福岡城下町・博多・近隣古図より自性院部分)
石堂橋を渡り街道を進むと左に自性院焔摩堂へ向かう小道がありました。焔摩堂は現在この場所にはなく博多の海元寺に移され現在は千代中学校となっています。少し進むと左に小道があり、そこから家臣らが並びました。現在の千代3丁目交差点付近です。図では,納┐靴疹貊蠅砲覆蠅泙后この場所には、黒田家の重役たちが並びました。
,吠造峅反鍛
1.筆頭家老三奈木黒田
2.御家老中
3.中老中
4.御筋目中
5.中老嫡子中
6.御筋目嫡子中
7.御城代頭中
8.大組頭中
9.大頭中
10.大目付壱人
11.御小姓頭壱人
12.御馬廻頭壱人
13.御無足頭壱人
これら家臣達は街道を箱崎に向かって右側に並びました。その先には黒田家の菩提寺である祟福寺となります。祟福寺前は家臣らは並ばず、次に家臣らが並ぶのは、網屋道を過ぎてからとなります。祟福寺を過ぎると街道より左側に斜めに小道が出ています。現在の九大病院正門がそれで、街道より箱崎浦を通って藩主の御茶屋に向かうことができた道です。現在は九大病院が建っているため、この道は消滅してしまっていますが、明治期の地図には少しその痕跡が残っている様子が分かります。この道の途中には、天正15年に太閤秀吉が九州平定後にこの松原で茶会を開き、同席した千利休が松に釜を吊ったという「利休釜掛けの松」があります。この網屋道を過ぎた場所の道の右側に家臣らが並びました。図の△納┐靴辛分です。
△吠造峅反鍛
1.大組中
2.大目付支配
3.御小姓組中
4.大頭壱人
5.足軽頭中
6.御筒頭中
7.馬廻頭壱人
8.御馬廻中
9.御無足中
10.郡奉行壱人
11.郡奉行支配中
12.御城代組中
13.御船手頭壱人
14.御船方中
15.浦奉行壱人
16.浦奉行支配中
17.諸組半礼中
 (少し間を空けて)
18.町奉行壱人
19.両市中町人中
,両貊蠅撚閼討魏爾蠅身夕腓廊△16の家臣らが並んでいる場所まで歩き、17の家臣がいるところより駕籠に乗りました。家臣らに続いて、福博の町奉行と御目見えを許された町人らが並んでいたのもこの場所です。また、△慮かいの場所には福岡藩の支藩である秋月藩より名代として挨拶の使者が並びました。
町人らを過ぎると街道の途中に一里塚があり、そこから馬出村になります。い海海砲脇擦留βΔ坊簡行壱人と浦奉行が並び、その向い側イ乏瞳瓦良汗商人や浦人達が並びました。藩主はこれらの見送りを経て箱崎八幡宮に参詣した後、御茶屋にて装束を改め江戸へ向かいました。
現在の写真で、それがどの部分にあたるのか検証します。

石堂橋を箱崎側より見る。この橋を渡って参勤の行列がやってきました。

橋を渡ってすぐの場所。マンションの下に商店街が並んでいます。昔は松並木が広がっていたのでしょう。

千代三丁目交差点から北側を見る。中央の高いビルあたりに閻魔堂があったと思われます。

閻魔堂は、博多側に石堂橋を渡ったすぐの海元寺に移されています。

千代三丁目交差点を箱崎へ向かう道は、北側に新しい道ができて車はそこを通ります。旧道は1本南側。現在は角にローソンが建っています。ここに三奈木の黒田美作をはじめ藩の重役達が見送りのために並んでいたのです。




 

福岡藩主の参勤発駕儀礼 首途(かどで)

 福岡藩主が参勤のために江戸へ向かう際、「首途(かどで)」と称して筆頭家老の三奈木黒田家の屋敷に御成(藩主が家臣の屋敷を訪問すること)することが慣例となっていた。
 参勤交代は、徒歩で長い距離を歩くので、道中の無事を祈って、各藩でも出発の際には様々な儀礼が行われていた。
 首途が、いつごろから行われていたのかについては、『黒田家譜』に「光之(三代藩主)参勤の前吉日を選び三左衛門が宅に入りて首途を祝い給う事恒例なり。(中略)これ、忠之(二代藩主)の時よりの恒例にて、代々の国主参勤の度々並嫡子参勤の時も三左衛門が家にて首途を祝い給う事、今に到りて此の例変わる事なし」と、二代藩主忠之の頃から行われていたと記される。二代藩主、忠之の頃には、福岡藩の御家騒動である「黒田騒動」が起こり、筆頭家老であった栗山大膳が黒田家を出ることになり、続いて母里や井上といった播磨以来の大身と呼ばれる家臣も次々に断絶した頃で、三奈木黒田家は、その頃より、筆頭家老として藩政に深く関わることになっていった。よって、首途もその頃から行われるようになったのではないかと考えられる。


〈三奈木黒田家について〉
 三奈木黒田家は、本姓を加藤といい、福岡藩の藩祖黒田官兵衛が、荒木村重の籠城する有岡城へ単身赴いた際、地下牢に閉じ込められてしまう。その時に、牢番をしていた加藤又左衛門という人物が官兵衛をよく世話をしたので、官兵衛は、有岡城落城後、又左衛門の子を預かり、息子長政と共に育てた。筑前入国後は下座郡1万石を預かり、黒田の姓を名乗る事を許された。黒田騒動後に、母里家が断絶すると、それまで城内三の丸の福岡城の正門である上の橋御門に隣接した母里家の屋敷跡に入り、幕末まで筆頭家老として続いた家である。
 三奈木黒田家には、首途に関する文書が多く保存してあり、今回これらをもとに、首途の動線を考えてみたいとおもう。
参勤の時期が決定すると、御用人と御納戸頭が主となって、参勤に随行する藩士や参勤に関わる儀式などを決めていく。その際、三奈木黒田家からは「首途御成御次第書」「御首途御成御給仕附」「御目見被仰付候一族名附」などを提出して、首途の日程や次第、給仕の者などを確認してもらう。「首途」は、おおよそ参勤の1ヶ月前後に行われており、福岡藩の参勤は、長崎警備の関係から、異国船が帰帆する9月まで在国して備えるよう幕府よりの命を受けており、10月に参勤して2月に帰国となっていたため、9月初旬頃に行われていた。

〈首途の御成〉  
 さて、首途の当日、藩主が居住する御殿に出殿した三奈木黒田家の当主黒田美作(三奈木黒田家では、通称を三左衛門や美作、播磨を名乗る)は、藩主の御座間に於いて御旅中安全の御札守に御肴(御熨斗鮑)を添えて献上する。御座間では、家老や御用人、御納戸頭、御小姓頭など参勤に随行する藩士らが並び祝儀を述べ、美作は、藩主出迎えのためにすぐに退出する。
 三奈木黒田家の屋敷では、藩主出駕の注進があると、美作は屋敷の御成門外に出迎える。藩主は、御殿の御居間より出駕し、表御門を通り、三の丸の家老屋敷の前を通って三奈木黒田家の屋敷前に到着する。
 藩主が居住した御殿は、初代藩主長政の頃は本丸御殿に住んでいたが、二代忠之に頃に三の丸に新しく御殿を造営し、三代光之の頃に城の北西にあたる場所に新たに御殿を造営して、幕末まで藩主の居館となった。

出迎えの作法
 三奈木黒田家の御成門前には美作が出迎え、藩主が下乗すると先立して屋敷に案内する。その際、三奈木黒田家の一族は、書院前庭の白砂に出迎え、藩主が御成座敷玄関まで来ると、先番の奥頭取が先立ちして、藩主を御成座敷上段まで案内し着座する。美作の嫡子も、美作と同様に御成門外まで出迎え、玄関前の中門際まで藩主の後を付き従う。
 三奈木黒田家の御成座敷は、南面する表通りの西側に御成門を設け、門を潜ると線をずらして玄関を設ける。途中、表門前庭は、通り部分に砂利が敷かれ、玄関前は二間四方の塀で囲み、中門を潜って玄関へと入った。御成座敷は、二畳の小さい玄関と、十四畳の次の間と九畳の上段で構成される。上段は床の間と書院を横にし、藩主は、縁側を背に着座したと考えられる。 

首途の饗応
 藩主が着座すると、美作はすぐに御熨斗鮑を献上し、それが御納戸によって引かれると、座敷の床の間にこれを飾る。その後、御茶、御煙草盆を出し、美作自ら御雑煮を出す。(以後美作は御相伴を勤める)
三献が終わると、美作一族と妻等への御目見があり、美作とその嫡子に藩主が御意をのべて退出する。退出の時も、三奈木黒田家の一族は書院前庭の白砂に罷り出、出迎え時と同じように美作が先立し、嫡子が藩主の後ろに付き従い、御成門外まで見送る。藩主が御殿に戻ると、美作は首途の御礼として出殿し、御肴と安泰の御札守を差し上げる。

鞭と笠の受け渡し
 また、首途の行列には、御槍奉行と御馬方が随行している。御槍奉行は、藩主が参勤の道中に使用する笠を預かり、御馬方は同じく参勤の道中使用する鞭を預かっている。首途の御成の際には、この笠と鞭を持って三奈木黒田家の屋敷に向かう。藩主の行列の後ろから、御槍方小頭が草履取を伴って笠を持ち、御馬方小頭が草履取を伴って鞭を持って随行する。御槍奉行と御馬方は、藩主らと共に御成門から屋敷内に入るが、笠と鞭を持つ両小頭と草履取は、表門から入り、両草履取は玄関切縁にて両小頭に笠と鞭を渡し、玄関式台の箱段の上の板敷で、先に到着していた御槍奉行と御馬方が出迎えてそれを受け取る。そして、その場で美作の取次の者に渡す。

〈参勤時の首途御成〉
本丸での参拝
 首途の御成よりほぼ一月経ち、いよいよ藩主が国許を出発する日がきた。参勤当日、藩主は御殿にて発駕の祝いを行った後に発駕する。参勤供の藩士の人数は、おおよそ60名程で、藩主は御用人と御納戸頭、奥頭取を伴い、本丸に上り、藩祖如水と長政を祀った水鏡権現、聖権現に参拝後に本丸で熨斗鮑を上げて祝い、二の丸を通って三の丸に下り、三奈木黒田家の門前で下乗する。(水鏡権現、聖権現は、黒田家の血筋を自分の代で絶やすことになった六代継高が、天守台東側に創建した如水と長政を祀る社で、安永二(1773)年に祀られ、その後、長政を祀る聖権現が合祀された。明治になり、福岡藩主が東京に移住したので、荒戸の光雲神社に移った。発駕前に本丸に上る行為は明和以降と考えられる)

三奈木黒田家屋敷に立ち寄る
 門前には、首途御成と同じように美作が出迎え案内する。藩主が着座すると、美作が自ら御熨斗鮑を上げ、給仕が御煙草盆、御茶、御菓子を出して、藩主からも美作をはじめ、参勤に随行する家老、御用人、御納戸頭、御小姓頭などに切熨斗鮑を出す。その後、御用人より随行の藩士らの披露があり、随行の藩士は書院縁側にて切熨斗鮑を受ける。
 この時、御槍奉行と御馬方は、三奈木黒田家の玄関において、首途の時に預けておいた笠と鞭を美作の取次役より受け取る。
以上の事が終わると藩主は退出するが、出迎え時と同じく、一族は書院前白砂に罷り出、美作は御成門外まで見送る。

松原でお見送り  
 藩主は、福岡城の正門である上の橋門を通り、六町筋を通って箱崎松原へ向かう。箱崎松原は、福岡藩主の出発、帰国共に藩士をはじめ御目見を許された庄屋や町人が並んで送迎する場所で、美作は、藩主の出発を見計らって上の橋門を通り、町裏を通って箱崎松原に先回りする。福岡藩の菩提寺である崇福寺より馬出口まで主な藩士や秋月藩の名代などが並び、藩主は崇福寺前で下乗し、しばらく歩いて藩士らに声をかけ、駕籠に乗って箱崎御茶屋まで行く。そこで旅装束に着替えて箱崎八幡のお札を受けて出発した。
 

大名が本陣に入る作法

今週末、古材の森歴史講座を開催します!みなさん是非来てください 。

大名が本陣に入る際の作法について、供侍の立ち位置や、先備の立ち位置など、どんな風だったのかがもっと知りたいと思っていた矢先、昨日、面白い光景に出会いました。
深江神社の神幸祭で、大名行列のような行列が、神社から海岸へ行き、また戻ってきて、神社へ入る際の光景です。参道の両側に挟箱、立傘、毛槍が一列に並び、頭を下げて神様が神殿に戻るのを見送る様子が、この写真です。

この光景を目の当りにした時、次の絵が頭に浮かびました。

大名の駕籠が、本陣の表門に入る様子を描いた浮世絵で、挟箱や毛槍が頭を下げ、行列が門内へ入るのを見送っています。神幸祭の行列を見た時、まさに大名が本陣へ入る作法ではないか!と思った瞬間でした。

長崎街道山家宿御茶屋における福岡藩主のおもてなし作法 

 福岡藩内にある宿場町には藩主の別館である「御茶屋」が置かれ、藩主が休憩したり宿泊したり、また、隣国の大名らが参勤交代時に本陣として宿泊したりしました。
今回は、唐津街道前原宿のお話ではありませんが、長崎街道山家宿の御茶屋で行われた「福岡藩主のおもてなし作法」についてお話します。

 私が以前勤めていた筑紫野市歴史博物館には、文久二年五月改の銘がある「御出会達御間取絵図」という御茶屋の間取り図が所蔵されています。この間取り図に描かれた御茶屋は、長崎街道の山家宿という宿場にありました。山家宿は、長崎・日田・薩摩の三街道が合流する場所であったため九州の諸大名が通りました。ある時、この絵図には、ある日の出来事が記されていることに気づきました。以下、ある日の出来事について書いていきます。

幕末も押し迫った文久二年(1812)四月、肥前佐賀藩主松平肥前守(鍋島直大)が藩主となってはじめて佐賀へ帰国することになりました。福岡藩では、佐賀藩主が藩主になって初めて帰国する際と、長崎奉行が就任して初めて長崎へ赴任する際は、長崎街道沿いにある山家宿に藩主自ら赴いて「出会」(ここでは直接会って対談すること)を行うことが江戸時代を通じて慣例となっていました。
今回、時の福岡藩主である黒田斉溥は、公武合体策を幕府へ建白するため江戸へ向かっていたため、その養子で次期藩主の黒田慶賛(後の長知)が藩主の名代として山家宿に赴きました。
そのお供には、家老の林織部、御用人の立花采女、御納戸頭の伊丹大内蔵、御小姓頭の衣非茂記、医師の河嶋養林など総勢52名で山家へ向かいました。
 御出会前日の四月九日、侍従一行は、本日の宿泊地である二日市宿へ向けて福岡城を出発します。家老の林織部、御用人の立花采女、御納戸頭の伊丹大内臓は、本隊の侍従一行より先回りして二日市宿で藩主を迎える準備を行いました。侍従一行が二日市宿に近づいたという知らせが届くと、出迎えのため侍従が宿泊する二日市宿の御茶屋に出向きご機嫌伺いを行います。この日の晩、御納戸頭の伊丹大内蔵は、侍従とともに夕食をしたと記されています。
翌四月十日、午前6時頃の供揃えで二日市宿を出発し、御出会の場所となる山家宿に向かいます。御用人の立花采女は、先に山家宿に向かい、侍従一行が山家宿に着き、御茶屋へ入る際案内役を務めました。
 福岡藩一行が山家宿に到着した後、しばらくして佐賀藩一行が山家宿に到着し、町茶屋にお入りになったという連絡が入ると、侍従は、挨拶のため佐賀藩主が休憩している町茶屋を訪問し挨拶します。


その後、しばらく経って今度は佐賀藩主が御出会のため御茶屋へ向かわれます。
町茶屋を出て御茶屋に入られる際、御用人の立花采女と御納戸頭の伊丹大内蔵は玄関式台に平伏して出迎えます。そして、佐賀藩主が玄関式台を上がられると、御用人の立花采女が案内役として先立し、、御納戸頭の伊丹大内蔵は後ろに付き添います。
16畳の御玄関の隣は24畳の御広間になっており、ここまで案内したところで侍従が出迎え、ここからは侍従の案内で佐賀藩主を奥の御居間へ案内します。
御居間では、金屏風で室内を飾り、庭側に佐賀藩主、御寝所側に侍従が着座し、佐賀藩主へ藩主就任の話をしたと思われます。そして、熨斗、煙草盆、御菓子を出し、しばしお話された後、退座ということになり、侍従は出迎えた所までお見送りします。家老以下御用人と御納戸頭は、玄関式台前の白州に平伏してお見送りし、御出会の儀式は終了します。
その後、佐賀藩主はその日のうちに佐賀城へ着城し、侍従一行は、また二日市宿に宿泊して翌日は太宰府天満宮に参詣して帰りました。

※詳しくは『福岡地方史研究46号』に「御出会達御間取絵図を読み解く」という論文を発表しています。


山家宿御茶屋の鳥瞰図(絵図をもとに作図)

calendar
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< December 2017 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
recent comment
recommend
recommend
recommend
recommend
福岡地方史研究 第49号
福岡地方史研究 第49号 (JUGEMレビュー »)

福岡藩主の前原宿泊を所収しています
recommend
recommend
recommend
recommend
recommend
福岡地方史研究 47号
福岡地方史研究 47号 (JUGEMレビュー »)

唐津藩主の前原宿泊を所収しています
recommend
福岡地方史研究〈45〉
福岡地方史研究〈45〉 (JUGEMレビュー »)
福岡地方史研究会
福岡藩旅籠屋屋号帳を所収しています。
recommend
福岡地方史研究〈46〉
福岡地方史研究〈46〉 (JUGEMレビュー »)

福岡藩主のおもてなし作法を所収しています。
recommend
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM