スポンサーサイト

  • 2016.10.30 Sunday
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


福岡藩主の西郡巡見

福岡藩の領地であった糸島には、歴代の福岡藩主が領内巡見で訪れました。
今回は、現在人気スポットとして注目を集めている糸島のどの部分を訪れていたのか紹介します。

糸島への巡見は、西郡巡見として行われました。

4代藩主綱政は、歴代藩主の中でも寺社政策に力を入れたことで有名で、桜井神社など領内の寺社へ度々参詣しています。また、6代継高は、雷山に金剛坊(後の大悲王院)を創建してすぐに雷山に登るため糸島を訪れています。

 桜井神社

江戸時代は、興止姫大明神と呼ばれ、慶長15(1611)年の大雨で岩戸が開いたことがきっかけに創建されました。2代藩主忠之はその神威を畏み、寛永年間に本殿・拝殿・楼門など社殿を建立。神宝などを奉納し、その後、宮司家を筑前国中神職の惣司に任命しました。忠之は死後、島岡大明神としてこの神社の祭神に加えられています。以後の歴代藩主の手厚い庇護を受け、藩主が西郡巡見の際には必ず当社を参詣するのが習わしとなっていたようです。
神社には、創建主の2代忠之が寛永年中に奉納したとされる宝物が伝存しています。初代長政が朝鮮出兵の際に晋州城から持ち帰ったと来歴が伝わる寶珠などが含まれ、歴代の福岡藩主は参詣の際、これらの神宝を拝覧していました。殿様が通った桜井の古道は現在「殿様通り」と名付けられています。

楼門

楼門には黒田家の藤巴紋が入ってます。
 

 大口浜

大口海岸は、桜井神社の境内地のひとつで、神社創建当時に2代忠之が寄進した木の鳥居がありましたが、4代綱政がそれを石鳥居に改築したといわれています。この鳥居は津屋崎からわざわざ石材を調達したと伝えられているものです。綱政が寄進した鳥居は昭和5年に倒壊し、現在は根元の部分だけ残っています。

 

西浦の鯛網漁

志摩郡の北端に位置する西浦は、古来より鯛網漁で有名な浦です。当地での鯛網漁の始まりは元文2(1738)年とされ、安永2(1778)年より明治期にいたるまで黒田家に鯛を献上したとされています。鯛網の漁法は、古来は地引網でしたが、明治期になって揚操網へと変わりました。
 

大祖神社

芥屋大門脇に位置し、創立年代は不詳ですが、承和元(834)年奉献銘のある石灯籠、文明13(1481)年の社殿再建の棟札などがあったとの記録があり、古社であったことが伺えます。

 塩土神社

芥屋の集落内にあり、塩土翁と大山咋神を祀っています。宝暦4(1754)年、芥屋村の柴田氏妻女が神懸りし、占いがよく当たるということで評判となり小祠が建立されました。特に農作の病害虫守り札受けに郡内外から多数の参詣があったといわれています。天明5(1785)年に九代藩主斎隆が奉行の花房佐兵衛に命じて御供米を寄進し、その後、寛政6(1794)年に自らも参詣しています。

 大庄屋鎌田家

江戸時代初期より志摩郡の西部分にあたる御床触の大庄屋をつとめていました。同家には4代綱政や10代斎清が立ち寄って休憩したと伝えられ、煙草入れや茶碗など黒田家より拝領した文物が伝来しています。
 

六所神社

江戸時代は志摩郡の総社で、樹齢800年の大楠があることで有名です。戦国時代に兵乱で荒廃していましたが、慶安3(1650)年に2代忠之が社殿を再建し、次いで貞享3(1686)年に3台光之、元禄16(1703)年に4代綱政が補修したといわれています。

 志登神社

延喜式神名帳に記載された糸島唯一の式内社です。元禄3(1690)年に光之が社殿を再建しており、宝永4(1707)年に4代綱政、享保2(1717)年に5代宣政が石鳥居を建立しています。

 染井神社

染井神社は、熊野権現社と呼ばれ、熊野三神や豊玉姫、神功皇后を祀っています。境内地に神功皇后伝承にまつわる染井の井戸や鎧掛松があり、怡土七ヶ寺の一つである染井山霊鷲寺の故地としても知られている場所です。染井の井戸には、寛延4(1751)年に郡奉行永田清十郎が石鳥居や玉垣を寄進し、6代継高は、染井井戸の神水を汲んで「濁りなく昔をうつす鏡とはけふぞ初て三染井の水」との歌を詠んだといわれています。

 如意輪観音堂

現在の高祖如意にある日蓮宗妙立寺は、寛永11(1634)年に日芳和尚により創建されましたが、それ以前に如意輪観音を本尊とする如意寺があったといわれています。観音堂の下には貝原益軒により名付けられた「動響ノ滝」と名付けられた滝があり、九代斎隆は寛政6(1794)年にこの滝を見に当地に立ち寄っています。
 

 

高祖神社

怡土郡の郡社で、彦火々出見尊、玉依姫、神功皇后を祀っています。寛文2(1662)年に3代光之が社殿を補修し、元禄6(1693)4代綱政が石鳥居を寄進、後に参道を補修しています。

 金龍寺

太祖山金龍寺は、永正5(1808)年に高祖城城主の原田氏によって創建され、原田家代々の菩提寺となってきた寺です。慶長16(1611)年、社地を福岡荒戸山に移すことになりましたが、旧地にも残され今日に至っています。金龍寺には、初代長政の次男で怡土郡内に1万石を与えられて井原村に居住していた黒田甚四郎政冬の墓所があります。

大悲王院

雷山には清賀上人建立とされる雷山千如寺があり、中世には多くの僧坊がありましたが江戸時代には仲之坊など3坊を残すのみとなっていました。宝暦3(1758)年、6代継高が金剛坊(後の大悲王院)とを開創し、本堂や書院を整備し再興されました。

雷神社

現在の雷神社境内は、もともと雷山中宮跡であり、雷山全体の中心であったと考えられる場所です。雷山の社寺は6代継高によって宝暦年間に再興されました。現在、雷山上宮跡にある石祠はいずれも宝暦3(1758)年に継高が建立したものです。継高は、雷山が再興されて間もない宝暦5(1775)年に同地を訪れ、自らが命じて整備した雷山の社寺を見学しています。

糸島の名産品

明和8(1771)年に7代藩主治之が前原宿に宿泊した時、隠居していた父継高のもとへワラビやウドなどの山菜やシジミ貝を贈った記録があります。特に雷山川河口で採れるシジミ貝は前原宿で休憩した幕府役人にも献上された記録があり、このあたりの名産であったことが伺えます。


※内容は、2014年に志摩歴史資料館で開催された展示会の内容を引用しています。


姫島紀行2「島定番役宅を探す」

島定番とは、福岡藩が領内の離島に置いた役人の事で、浦奉行の支配下にあり福岡藩の中級家臣馬廻組より選任されていた。相島、大島、地島、岩屋、玄海、姫島、小呂島、波止場の8ヶ所に約二名の役人を駐在させ3〜4で交代していた。
以前、私は九州歴史資料館で福岡藩内にあった役人の役宅を描いた平面図綴りを見つけ、その中に糸島の姫島定番役宅が描かれていたが、その役宅が姫島のどこにあったのか調べようと思いつつも資料に出会わず、つい最近まで分からないでいた。しかし先週何気なく『野村望東尼』(花乱社)を手に取りページをめくってみたところ姫島脱獄の図が掲載されていた。その図は昭和15年に『筑紫史談 第76集』で郷土史家大熊浅次郎が発表した「野村望東尼の晩節、姫島流謫脱獄の経路」をもとに作成されており、早速福岡市総合図書館へ行ってその部分をコピーしてきた。

この文を書いた大熊浅次郎は、慶応二年生まれ福岡在住の郷土史家で、郷土史家春山育次郎らの先行研究をもとに脱獄の経路を調査するため、昭和13年に姫島に渡ったことが書いてあり島の平面図も掲載していた。以下、渡海の様子を書いた一文を書き出してみる。
「(春山育次郎は)明治45(1912)年の春同友の中村能道と共に望東尼流謫の処、玄海の一孤島姫島に相渡り、所詮牢居の跡を探討せり、あたかも時の糸島郡町山口良介氏は同郷のよしみあり、郡吏楢崎嘉兵衛を東道たらしめ、望東尼の船路を取りし岐志浦を巡り、轉じて新町に至り舟を艤して姫島に航せり。一夜を同島漁家に明かし隈なく旧跡を見舞い、幸なるかな、尼が姫島日記に名を留めたる「ふじ」と云える島女の未だ現存したる老婆をつかまえて、往年の記憶を聞きただし、その昔日談の数々再び得難く、真に大切なる資料として拾われたるなり」と郷土史家春山育次郎(1866-1930)が明治45年に実際に姫島に渡り望東尼が在島していた時に世話などをした「ふじ」という老婆に会って聞き取りをしている。そして、それから26年後、大熊浅次郎は、「予また遅れながら過ぐる昭和13(1938)年の秋10月9日には交友乾安五郎学士と相伴い糸島郡新町渡海場より発動機船により姫島に航し、先に曩日春山史友探討の跡を捜り、望東尼牢居の遺址を尋ね、江島先生覚の記伝の真相を真證し大いに得るところありたり。」と記している。


そして、それから77年後の平成27年5月31日、私は春山、大熊両先生の探討の跡を捜り、島定番の役宅を探すべく糸島市岐志港より定期船ひめしまに乗船し、姫島にわたることにした。

岐志を後に船が進みだすと筑紫富士とも謳われる可也がきれいに見える。

外海なので海は荒く、ここを船で渡るのはさぞ大変であったと想像する。

やがて姫島が見えてきた

島は南側と西側に集落があるのみで東から北にかけてはそのほとんどが磯になっている。私が行った日も東からの風がかなり強く集落が西側に偏っている理由が少し分かった。西側は芥屋の黒磯と同様の黒い玉石の海岸で、かつて博多聖福寺の住職であった仙涯さんは、この姫島で採れた硯のような自然石を友人からもらい金剛という名をつけてたいそう喜んだという。

まず最初に野村望東尼の獄舎まで行ってみた。細い道を挟んで両側に集落がある
細い道は北に向かって進み所々石垣が積まれている。この写真は、獄舎に向かう途中で撮影したものであるが、この右上に地蔵堂があり、望東尼が救出されて船に向かう途中、姫島で世話をよくした森ミキとばったり会った場所でもある。

そして、集落のはずれのやや小高い場所に獄舎の跡があった。小学5年生の時に近くのおじさんに連れて行ってもらったのが初めてであったが、こんな場所にあったのかと思うほど奥にあった。もっと近くにあったような気がする。この日、下関からわざわざ見に来たという方と一緒になり獄舎跡を見学した。





この建物は獄舎を復元したものかと思いがちであるが、これはお堂とのことである。しかし獄舎を思わせるような錠がかかっていた

獄舎からは遠く唐津の高島や神集島が見えた

獄舎跡から少し浜側に戻ると道が交差する部分がある。望東尼救出の際、救出に来た者の一人の吉野応四郎は、この場所で見張りを行い、その隣の新築中の家からカケヤを持ち出して獄舎のカギを叩き壊したという。ここから山手に上ると通称「岡定番」と呼ばれた定番役宅がある。

姫島に置かれた島定番役宅は二箇所あり、浜部に置かれた方を「濱定番」島の奥に置かれた方を「岡定番」と呼び隔月輪番で勤務していた。江戸後期の姫島定番は、弘化三年十月に桑野喜右衛門(浜定番)が着任し、安政三年四月に周防清六(岡定番)が着任、万延元年十一月に新平ノ進(浜定番)が着任、文久二年九月に小島源五右衛門(浜定番)が着任、そして慶応二年十月に坂田喜左衛門(岡定番)に着任していた。野村望東尼がこの島に流されてきたときの定番は小島と坂田の両名だった。「役宅綴り」に掲載されていた2枚の姫島定番の図には桑野喜右衛門、周防清六と記され、この図は弘化三年から文久二年にかけて描かれたと考えられる。また、驚いたことに浜定番の桑野喜右衛門は、野村望東尼の実弟で姫島で亡くなっていたことも分かった。

図には方位が書かれていないので、建物が敷地内にどのように建っていたか正確には分からないが、玄関の位置や座敷の配置から図の左下の座敷縁側は西向きに海を望めるように建てられていたと推測する。

岡定番役宅跡は、その後小学校の敷地となり、現在は空き地となっている。登り口の部分にある石垣はおそらく当時のものであろう。

そして、敷地の片隅には以外にも「岡定番坂田喜左衛門屋敷跡」と刻まれた石碑があった。定番役宅については近年まで語り継がれていたようだ。望東尼脱獄の際、定番である坂田喜右衛門役宅には救出に来た藤四郎という旧福岡藩士が訪れ坂田と問答を繰り返し、その間に仲間が望東尼を救出したという。

次に浜定番役宅を探すために浜側へ戻る。集落の真ん中の小道が分かれる場所に庚申塔が立っている。この庚申塔を右に進むと奥に姫島神社が鎮座している。この庚申塔は安永四年と刻まれ、定番桑野喜右衛門も野村望東尼もこの庚申塔を見たのであろう。

姫島神社の石段を境に左右に道が分岐しており、右手に進んだところに通称「浜定番」と呼ばれた定番役宅があった。

この図も岡定番同様に方位が分からないため、どのように建っていたか不明であるが、座敷の縁側は南面の浜側を向き、図の右側が敷地の入口であったと推測する。

望東尼が流されてきた際、月番であった小島はこの場所で罪状を読み上げたのだろう。

その跡地は、現在土砂崩れの後に畑となっておりその敷地は見ることはできなくなっているが、この写真の林の部分が定番役宅であった。この役宅は廃藩の後に定番下役であった柴住氏が購入したようで、大熊浅次郎が訪れた際には柴住仙七の宅地となっていた。大熊浅次郎は、この文中に掲載した図について、これは「当時の女傑救出の跡に考え、駆落ちの難易を考察せんと欲し、牢獄の所在と岡定番役宅の所在と立番見張所の想定及び普請中なりしカケヤ取出しの家屋の所在並に望東尼乗船場の位置等を知らんが為め、今糸島郡芥屋村姫島小学校の校長たる柴田新助氏に乞い、現在島の平面見取図制作を煩はし参考に供することとせり」と記し、今となっては非常に貴重な資料である。

姫島から帰ってきた直後は、上記のように姫島小学校が岡定番役宅の跡地だと思っていた。しかし、役宅の場所を正確な地図に落とそうと市役所より白図を購入し、大熊浅次郎が作成した地図を重ねてみたところ、濱定番役宅のあった場所はほぼ間違いないと思うが、岡定番役宅の場所は現在は山となっている部分となってしまう。地図の縮尺の問題かと思ったが、意外にも道の形が合うため、江戸時代には山の斜面に民家が建っていたのではないかと思うようになってきた。問題の小学校の位置であるが、移動したとも考えられるため、再度冬に島に渡って役宅推定地の踏査をし、姫島小学校の位置について検証してみようと思う。






 

姫島紀行1「古写真の場所を探して」

明治30年代を写したと思われる古写真が手元にあり、1枚は野村望東尼旧居跡の石碑、もう一枚は船と鳥居が写っている写真で、おそらく姫島を写したものではないかと考えていました。そして昨日、これらを確かめようとやっと姫島に渡る機会を得ました。今回、姫島に渡った理由は‥臘衄屬量鯊霎廚琉銘屬分かったのでその場所を確かめること。古写真にあった野村望東尼の石碑の状態を確かめること。この2つの事を確かめるべく島に渡ったのでした。,砲弔い討聾綟詳しく書くとして、今回は謎であった古写真が姫島だったことを書いてみます。

まず「野邨望東尼之旧址」の石碑ですが、この石碑は伊藤博文や山縣有朋によって明治35年に建てられたといわれています。この古写真は、他の写真の年代から明治30年代頃に撮影されたものと考えられ、石碑が建てられた直後に写されたものだと考えられます。

今回、実際に現物を見てみると基礎の部分が石積で高くなっており二段目の受け皿までは当時のままですが、基礎の部分は変わっています。当時、基礎石は綺麗に整形された御影石であったのに荒い石積になっています。当時の石は左端に敷地を縁取る石に使われたと思われます。この場所は高所ですが、正面向かって右側に山が迫り左側は空いているのは当時とあまり変わりません。

次に、長らく不明であったこの場所が姫島であったということが分かりました。戦前の郷土史家大熊浅次郎が書いたものに、野邨望東尼を救出するために船をつけた場所は鳥居の前であったことが記され、この写真はまさにその場所から写された写真です。さて、この写真がどこであるのか決め手となったのは鳥居の横の石灯籠でした。

姫島神社の一の鳥居は正面向かって右に灯篭があり左は恵比寿様があります。写真を見てみると右側に石灯籠があり左は灯篭がありません。

そして、灯篭の上にある石の形が同じであり、受け皿の石も同じ形なのでこの写真が姫島神社の一の鳥居であることが分かりました。明治45年にこの地を訪れた戦前の郷土史家 春山育次郎は、この島で望東尼の調査をしたことが『筑紫史談』に書かれています。この写真と同じ風景を見たのでしょう。
 

田んぼの中を走る一直線の線路


福岡市営地下鉄の西唐津行き電車に乗り、唐津方面へ向かうと一貴山駅と筑前深江駅の間で、このように田んぼの真ん中を一直線に電車が走る光景を見ることができます。この写真は、5月頃に線路の北側を走る国道202号線沿いにある松末五郎稲荷から見た光景ですが、緑色の田んぼの真ん中を赤と白(シルバー)の3両電車が走るのはとてもかわいい光景です。

特に五月頃の春麦がとても美しく、おおよそ1ヶ月の間に黄緑色から黄金色に変化する様子は素晴らしいです。

しかし、なぜ田んぼの真ん中を一直線の線路が走っているのでしょうか?これには、あるエピソードが残っています。

JR加布里駅と筑前深江駅の間に一貴山駅という無人の小さな駅があります。加布里駅を出て1kmも離れていないのに、なぜか駅があるのは変だとは思いませんか?

これは、一貴山駅のすぐ近くにある田中村の地主であった満生氏が、線路ができる際に自分の土地を提供して一直線の線路を引いたと云われ、その際、自分の屋敷のすぐ近くに駅を作ったといわれています。それゆえ、田んぼの真ん中を直線に線路が走り、加布里駅をでて1kmも進まないうちに駅があるのです。

糸島の鯛と鯉

糸島の岩本と田中という村にある神社には、神社の拝殿にそれぞれ鯉と鯛の彫刻がしてあります。

鯛の彫り物がしてあるのは、岩本という集落にある西宮神社です。
この集落は、江戸時代初期に干拓によってできた比較的新しい集落で、集落の北側には天保期に干拓された千早新田があります。それまでこの村の北側には海が広がっていました。

拝殿や瓦にはこのように鯛や魚の模様が入っていて、海辺の集落であったことを伺わせます。

鯛の彫りの裏を見ると、ちゃんと裏側まで彫刻されています。

岩本村は干拓地にできた直線の村で、こんな雰囲気が今でも残っています。

鯉の彫刻があるのは、先ほどの岩本村より南に1kmほど唐津街道沿いの集落である田中村にある諏訪神社です。この辺りにはマムシが多かったので、文政の初めごろに唐津市浜玉町にある諏訪神社より分霊を勧請された神社で、田中のお諏訪様と呼ばれて怡土・志摩郡の村々から参詣が多く賑わっていたそうです。

この神社の拝殿にも岩本の西宮神社と同じ場所に彫刻がしてあります。こちらは、海には面しておらず、近くに川が流れているためでしょうか鯉が彫られています。

裏側を見ましたが、鯛のように裏側は彫られてなくウサギがいました。両神社共に大正十三年の鳥居が建っており、その時に建てられたと考えられます。彫刻は西宮神社の鯛の方が大きくて立派ですが、鯉と鯛がその村の立地を表現しているみたいでなんか好きです。魚拓をとってみたい。

講座します!「現代版怡土志摩地理全誌」


古材の森で歴史講座を行います。今回は、糸島屈指の郷土史家であった由比章祐さんのお孫さんである由比貴資さんを講師にお迎えします。由比貴資さんは、祖父章祐さんが出版された『怡土志摩地理全誌』をもとに、自分なりに地域の歴史を見直すべく取材されています。今回の講座では、その取材の中で感じたことなどを写真を見ながら語ってもらいます。

日にち:2015年2月8日(日)
時 間:17:30〜(2時間程度)
場 所:古材の森(糸島市前原中央3丁目18-15)
参加費:1000円

講師プロフィ ール
由比貴資(ユビ タカシ)
1981年糸島市出身、飯塚市在住。糸島の郷土史家故由比章祐さんの孫。祖父章祐さんが出版された『怡土志摩地理全誌』をもとに、HPやブログで情報を発信しています
由比貴資さんのブログ 
猫間障子http://nekomashouji.sblo.jp/

芥屋大門

糸島の西北端にある海に突き出した玄武岩の洞窟「芥屋大門」。以前、このブログでも古絵図や古写真で大門について書きました。海に突き出した洞窟の中には船で入ることができ、観光情報などではそのルートのみを紹介しています。しかし少し風が強いと船が出ないので、せっかく来たのに楽しめなかったという話も度々耳にします。
私が好きなスポットは芥屋大門の裏側です。かつて福岡藩が設置した遠見番所という不審な船などを見張るための番所跡からさらに進むと、大門の付け根まで行くことができます。そこから見る大門はまるで城のよう、両側が切り立った崖で、かつて伊能忠敬が測量した際、岩が険しくて難儀したという場所です。福岡藩主も芥屋大門自体を「大門社」として度々参詣しています。

立石崎より見た芥屋大門、突端部分が切り立った崖で、付け根部分はくびれている様子が分かります。

芥屋太祖神社を海側に進むと、となりのトトロに出てくるような木のトンネルがあります。ここが入り口です。

トンネルを潜ると遠見番所跡や見晴台があり、それをさらに進んで行きます。冬に行くと北風がモロに吹き付けるので少し危険です。

岩肌がまるで城の石垣のようです。

芥屋大門の洞窟は、天の岩戸の入り口であったとか、洞窟の奥は竜宮城に続いているとか、蒙古襲来の時に元の大船団を覆した神風はこの穴から吹き出したとか様々な伝説の残る場所です。大門の東側、この写真の部分は岩鏡、その岩下を鯨穴と呼ばれています。ここには天女が遊んでいたという伝説が残っています。
両側は切り立った崖でかなり怖いですが、すごく見晴らしの良い、ダイナミックな景観がそこにはあります。






 

雷山古道を歩く

 糸島の南側には、背振山系の山々が連なります。その中の一つに雷山があります。
かつて山中には300もの僧坊があったと伝えられ、蒙古襲来の際には祈祷所として朝廷や幕府から直接祈祷依頼がきていた場所です。現在、雷山千如寺大悲王院には、鎌倉時代の作と伝えられる約4mもある千手千眼観音や数々の仏像が安置されており、多くの参拝でにぎわっています。
さて、かつて雷山の中心地は現在の雷神社(いかづちじんじゃ)のある場所でした。そこには、大きな講堂があり、千手千眼観音をはじめ多くの仏像が安置されていました。普段、この仏像を拝むことはできなかったそうですが、御開帳の際には多くの参詣者が訪れたようです。嘉永7(1854)年、10数年ぶりの御開帳の際には有田村からの参道の両側には茶屋や見世物小屋、芝居小屋が立ち並び、近国から10数万人の参詣で賑わい、1ヶ月間は参詣の宿泊客で賑わったといいます。現在でも、千如寺から雷神社に向かう道が残っています。私はこの道を雷山古道と呼ぶことにしています。

雷山古道のスタートは、雷山千如寺大悲王院です。明治初年の神仏分離で廃棄された千手観音は千如寺に移動したので、現在はこの場所に観音様があります。まず、ここで千手千眼観音を拝観して出発します。また、現在千如寺の境内には、かつて雷山の下宮であった笠折神社の跡があります。

笠折神社があった場所にはお社はありませんが、その隣にあった「風穴」が残っています。藁で封印された風穴は、かつて神風を吹かせたといわれ、これに触れると、糸島市志摩芥屋にある芥屋大門より大風が吹くといわれています。

笠折宮跡を見学したあとは、いよいよ雷山古道を歩きます。千如寺の角にある庚申塔を目印に、川に沿って登っていきます。

途中には、近年まで残っていた僧坊の一つである宝池坊のあとがあります。現在は石垣のみが残り、付近は杉林と化しています。ちなみに、宝池坊の扁額は、千如寺で観音様を拝む際、その入口付近に掛けられているので注意して見て見てください。

かつての宝池坊(糸島郡誌より)

古道は雷山村の跡を通ります。現在ここには昔からの人は住んでおらず、その跡地は畑や田んぼとなっており、現在雷山地区で出荷されている竜胆の畑が良く見られます。

古道のほとんどがアスファルトで整備されていますが、少しの部分だけ昔の面影を残しています。道の途中には、香合石や白蛇石などを見ることができます。

水量は少ないですが、古道のそばを流れる川は清冽な流れです。

そうして、ようやく中宮に近づくと、石段が見えてきます。これを登ると中宮に到着します。しかし、この石段は明治時代に整備されたもので、本来は川に沿って、現在雷神社の正面左側から入っていました。

いよいよ中宮に到着です。明治になって下宮の笠折神社は雷神社に合祀されました。現在雷神社の鳥居はかつて笠折神社の鳥居を移築したものです。

明治以前の中宮の様子を筑前国続風土記附録の挿絵によって見ることが出来ます。正面の大きな観音堂に、現在千如寺にある千手千眼観音が安置されていました。観音堂の左側にある中宮と書かれているのが現在の雷神社です。仲ノ坊は駐車場辺りにあったと思います。(筑前国続風土記附録より部分)

雷神社の拝殿から見た観音堂の位置です。

現在の入口は鳥居の部分ですが、かつての正面は写真右側で、中宮に入ると正面に大講堂が見えたはずです。

中宮には、観音堂の脇にあった杉(千年杉)が残っています。おそらく当時の事を知っているのはこの二本の杉だけです。蒙古退散の祈祷があげられていたおおよそ700年前、この杉は大講堂の脇にあって、その様子を見ていたのでしょう。


 


calendar
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< August 2017 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
recent comment
recommend
recommend
recommend
recommend
福岡地方史研究 第49号
福岡地方史研究 第49号 (JUGEMレビュー »)

福岡藩主の前原宿泊を所収しています
recommend
recommend
recommend
recommend
recommend
福岡地方史研究 47号
福岡地方史研究 47号 (JUGEMレビュー »)

唐津藩主の前原宿泊を所収しています
recommend
福岡地方史研究〈45〉
福岡地方史研究〈45〉 (JUGEMレビュー »)
福岡地方史研究会
福岡藩旅籠屋屋号帳を所収しています。
recommend
福岡地方史研究〈46〉
福岡地方史研究〈46〉 (JUGEMレビュー »)

福岡藩主のおもてなし作法を所収しています。
recommend
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM