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  • 2016.10.30 Sunday
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フィールドミュージアムにおける資料の保存

景観や町並み保存の法律などが一切かかっていない前原宿は、古い建物がいくつか残ってはいるが、持ち主の意向次第ではすぐにでも解体されてなくなってしまうような場所でもある。そんな中、一つの町屋が再生された。老夫婦が二人で住まれている間口が狭く奥行きの長い造りの町屋である。以前より通りの歴史や古い建物のある景観についていろいろな場所で話したり、見せたりしてきたが、持ち主の方がその歴史性を知って、建て直す際にかつての町屋の景観を残しつつ改装された。法的縛りも補助金もないのにかかわらず自発的にこのような佇まいを持つ建物にしてくれた。博物館の三原則の一つに「資料の保存」がある。私は、この通り全体を一つの大きな博物館と考えている。その中での資料の保存とは、住民に通りの歴史性を理解してもらい自発的に行動してくれることにあると思っている。




 

神社に博物館の祖形をみる

各村には、たいてい神社が一つか二つあって、奥の神殿には神様が祀ってあるが、村の人たちが参列して神主から祝詞を上げてもらったり、直会をしたりする拝殿には多くの絵馬が掛けられています。おおきな神社になると絵馬堂といって拝殿とは別に絵馬を掛ける建物があったりもします。神社の拝殿に掛けられている絵馬を見ると「何年に誰が何歳の時に何をしたか」とかいくつかの情報を得ることができ、ある時に村で行われた出来事を知ることができます。基本的に神社に奉納した物は、村の共有財産となるので、勝手に捨てたり、家が断絶したため無くなったりすることはありません。いうなれば村のアーカイブ施設です。

この写真は、糸島市瑞梅寺ダムの上流の集落にある藤原神社の拝殿です。ここの拝殿には、絵馬に交じって、建物の梁に飛行機のプロペラと思わしき物がくくりつけてありました。

また、この絵馬は糸島市の篠原にある八幡宮にある絵馬です。安政三年に奉納されたもので、武州玉川の石や東都隅田川などの注記のある全国の石が絵馬となって保存されています。私はこれを見た時、博物館の祖形は神社にありと思いました。
博物館とは、歴史、芸術、民俗、自然などの資料を収集して保管し、展示して教育的配慮のもと一般の公衆の利用に供する施設の事をいいます。日本での博物館の始まりは、明治の廃仏毀釈によって廃棄されようとする資料を保護しようと始まったのですが、それまで、日本における博物館の保存的な役割を果たしていたのは寺社の宝物殿や絵馬堂がその役を担っていたと思われます。絵馬や神宝など物を保管したり、伊勢神宮で20年毎に行われる式年遷宮などは、文化と技術伝承という行為を神事としてて保存しています。この村の歴史的な資料を奉納し永久に保存できる唯一の場所が、村の公共的施設である神社であったという事を最近思いました。





 

町田久成を訪ねて

 町田久成という人物をご存知だろうか?
町田久成は、日本最初の近代総合博物館の創始者である。
私は以前からずっと博物館で働きたいと思っていた。しかし、最近は博物館をつくりたい(ハードな博物館ではなく志)という思うようになってきた。そんな時に出会った本が、関秀夫氏が著された『博物館の誕生』である。この本には、明治初期に、かつて薩摩藩大目付であった町田久成という人が苦労して博物館をつくり、それが現在の東京国立博物館になっていくという話である。
それ以来、町田久成という人に惹かれ続けていた。そして、町田が薩摩藩で領していた土地が日置郡石谷という場所であった事を知った時、現在私の勤めている会社の鹿児島営業所が、まさにその石谷である事に気づき、営業所に出向く時を利用して町田久成の故郷を訪ねてみた。

最初の博物館は、内山下町の薩摩藩上屋敷跡であった。ウイーン万国博覧会の出品物を日本国内で披露するという勧業博覧会が明治五年に東京の湯島で行われ、その後にそれらを集めて展示したのがこの場所であった。現在の帝国ホテルの場所である。今年1月に東京に行った際に、最初の博物館があった帝國ホテルへ行って撮影した写真。

その後、寛永寺根本中堂があった場所に近代的な大きな建設され、その後、帝室博物館を経て国立博物館となった。現在の上野公園内である。

さて、鹿児島市石谷は、松本ICのすぐ近くで、鹿児島市内から伊集院へ行く途中にある。ここは高台なので、桜島がこのように見える。町田氏の氏祖は、建久八(1192)年に薩摩大隅の守護に任命された島津忠久の孫常陸守であり、島津一門三名家の一つとして、鎌倉以来勇猛な武将を数多く輩出し、島津家の側近として重きをなしていた。元和の一国一城令によって薩摩藩も外城を廃止することになり、町田家も外城の武士を現地に残したまま石谷から鹿児島に移住した。幕末の町田家は、日置郡伊集院村石谷に私領地として1750石を所有していた。
町田久成は、天保九(1838)年、鹿児島城下で生まれ、慶応元(1865)年、28歳の時、イギリスに渡り、薩摩藩大目付として17人の薩摩藩留学生の督學を務めた。幕末に帰国してからは、維新後の新政府に出仕し将来を嘱望される地位にあったが、不運にもその前途を断たれ、その挫折の後、博物館づくりに奔走した。

町田氏の領した石谷には、旧道に沿って領主の館跡がこのように残っていた。敷地内は現在宅地化され、その地下には九州新幹線が通っている。

明治になると、領主館は石谷小学校として利用され、現在では、門柱が残る

広い敷地には、町田氏の館が建っていたのであろう。

領主館に隣接して、町田氏代々の墓地がある。


珍しい形の墓石が並んでいた。

領主館の前を通る道

江戸時代に造られた石畳も残っていた。

領主館の前の道沿いには、熊野神社の鳥居がある。

奥へと進んでいくと鳥居が現れた。

鳥居に脇にはへんな形の狛犬が出迎えてくれた。

ここの熊野神社は、文永六(1269)年、約七百年前にさかのぼる古い神社である。
左側の社は、中興の島津歳久を祀っている。










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