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  • 2016.10.30 Sunday
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箱崎宿について(新道の付け替え)

 箱崎宿は、唐津街道上にあって博多と糟屋郡青柳に継ぐ宿場町であり、敵国降伏の勅額で有名な筥崎宮の東側に位置した場所でもある。近世初期に御笠郡二日市村の庄屋帆足遊元が記した『二日市宿庄屋覚書』によると、「古へは冷水道もなく山家の宿もなく原田宿もなく、上方、長崎の道筋も二日市より箱崎、あるいは二日市より田代、また豊後の方へは甘木まで、只今冷水筋お通りなさる大名様方、皆、二日市お通りなされ候由なり」とあるように、九州の諸大名の多くが通行する長崎街道の開通以前は、箱崎を通って通行していたことが分かる。

 箱崎宿について、改めて調べてみると、元禄の頃までは街道は宿場の中を通っていなかったことが分かった。筑前国続風土記付録』には、古しへの往還筋は、東は原田の南西一町斗より南にして轉して、八幡宮の後に通りて馬出村の東の口に至れり。古道跡今も有。其行程凡八町斗、其間に川二流有て橋を渡せり。寛文三年に宿の東佛華寺の古址を開きて新道を箱崎より直に原田の方へ付け替えたり。寺址の地今は民家となりて新町という」青柳の方から博多に向かって街道を進むと箱崎村の枝郷原田という集落がある。そこから箱崎八幡宮の裏を通って馬出村の東口に向っていたということである。天和の国絵図には赤線で街道が記され、筥崎宮前で直角に折れて多々良川の川幅の狭くなる歩いて渡れる部分を通るように描かれている。

 さらに、『黒田家譜三』によると、「箱崎宿の古道は、御宮の前までゆかずして、御宮の西より右に轉し、弥勒寺(座主坊)の前を経て御宮の後を通路とす。馬継所は、御宮よりはるか東に有て、其の先は道ふさがれり。是に依て往来の路より東の方に入り込て馬を継ぎ、又もとの道を返りて通路に出る故に、旅人の往来に悩み、邑人も労多くして便ならずとて、路を改めたき旨彼所より願し故、去夏其所を絵図に写して江戸に伺われ、今春に至りて古路をととめ、馬継の東に新たに道を開かれしかば、往来の人直に社前を通りて東に行、馬継の前に至り、其東の新路に出る故に、其の往来の便ゆく成ける」

今度は、博多から青柳方面に進む様子が記され、街道を進み筥崎宮の手前で右に折れ、筥崎座主坊(弥勒寺)の前を通り川を二つ渡って原田を通ると『続風土記付録』の逆から通行する様子が記される。

さらに、『黒田家譜』には、人馬継は箱崎村で行っていたため、筥崎宮から右に曲がる街道を直進して箱崎村に入り、そこで人馬継を行って来た道を戻り、街道に出て進むという状況であったという。そこで、元禄五年(1692)に箱崎宿より直接枝郷原田にショートカットできる道を造ることを許可され、ようやく街道が宿場内を通るようになり、宿場として整備されていったのでないかと考えられる。このしばらく前に多々良川河口の干拓工事も行われ、枝郷の原田村もできたため、新道が作られたのではないかと考えられる。

同じように、唐津街道の上の前原や畦町も、街道は村の中を通ってはいないため、強制的に民家を移動して町立されている。

このように、唐津街道のいくつかの宿場町では、元禄期に不便さを理由に民家を強制移転して町立したり、街道を付け替えるようなことが行われたのではないかと考えられる。

 


唐津藩主が参勤の際に参詣したと思われる場所に行ってきました。


唐津藩主は、参勤交代で唐津を出る際にどのような作法で江戸へ向かったのか?
初日の宿泊先である前原宿での様子は、いろいろ分かってきましたが、唐津を出て前原に到着するまで、どんな行動をとって進んできたのかが最近気になって、資料を探してはいるんだけども、なかなか出会わなくて・・・唐津藩主が参勤交代で通行する唐津街道沿線上にある由緒ある神社などに行ってみました。

唐津城の本丸は、松浦川に突き出す満島山に築かれており、歴代藩主らは現在早稲田佐賀中学校のある二の丸御殿に住んでいました。参勤の朝、(おそらく五つ時くらい)に館を出発し、三の丸にある唐津神社に参詣し道中の祈願を行ったと思われます。

その後、城下の町屋を通り、唐津藩の船手が待機する船着場に行き、そこから乗船して満島に上陸したのではないかと思われます。

満島は、現在唐津城に向かって橋が架けられているので、そのまま行けますが、当時は、城下より船で渡るしか方法がありませんでした。船が着いてすぐの場所に札の辻と満島八幡宮があるので、ここにも祈願したのではないでしょうか?

二里松原を進み、城をでて最初の宿場は濱崎宿ですが、ここには宿場内に諏訪神社がありました。太閤秀吉が名護屋へ向かう際にも戦勝を祈願したと伝えられ、唐津藩主も道中祈願を行ったのではないかと思われます。

街道からは外れますが、鏡山の下に鏡神社があります。この神社も初代寺沢志摩守以来祈願所とされてきた場所なので、代参を行ったのではないかと思われます。

一ノ宮、二ノ宮ともに藩主水野氏が再建しています。

その後、海岸のそばの峠を登り下りして、吉井・福井浦にておそらく昼休みを取ったのではないかと思われます。

この吉井浦より南の山裾には浮岳大明神が鎮座しています。浮嶽大明神は、古来霊峰といわれた浮嶽の山頂に上宮があり、中腹に中宮があります。天文二十年(1551)までは僧坊が10区あったそうですが、秀吉の九州征伐の際に寺が戦火で焼け、寺領も没収されっましたが、江戸時代になって唐津藩主寺澤志摩守が山林百十数歩を寄進したので繁栄したそうです。現在、浮岳神社には正面向かって左右に鳥居があります。左側が浮岳神社で右側が浮嶽山久安寺の址でしょう。

ある時、海で時化にあった人が雲の上に浮かぶ山容を見て助かったことが、その名の由来といわれています。確かに円錐形に見える山容を見ると、周囲の人々が目印にしたこともうなづけます。唐津藩船手組の資料によると、参勤交代の前に浮嶽大明神に代参に行ったことが記され、参勤の際に唐津を出発した船手組は、陸路を行く藩主らの先回りをして大里で待機し、藩主らの下関渡海を終えた後また唐津に帰ったそうで、浮嶽は海上交通での信仰の対象であったことが分かります。

向かって左側の鳥居を潜ると浮嶽中宮であった浮嶽神社が鎮座しています。

拝殿前にはこのように中宮の石碑が立っています。

この拝殿の格天井には、近隣の村々や個人が寄進したであろう絵が描かれていて、吉井村○○とか田地原村中など人名が記されています。

右側の鳥居には「浮嶽山」という山名が刻まれ、寺であったことが分かります。

建物もお寺っぽくて神仏習合の姿を垣間見ることができる場所です。












 

五所八幡宮

福岡藩主が参勤の際、必ず立ち寄って道中祈願をしたという五所八幡宮に行きました。
福岡藩主は参勤の当日、福岡城を出て箱崎松原で家臣らの見送りを終え、箱崎八幡宮に参詣した後箱崎御茶屋に立ち寄って箱崎宮のお札を受け、濱男、三代で小休して青柳宿の少し手前にある五所八幡宮に参詣もしくは代参して青柳宿に宿泊しました。
五所八幡宮は、神功皇后が三韓御神幸の際に竜興を休めた場所と伝えられ、この地に五柱の神々が鎮まりますようにということで五所八幡宮と名付けられたそうです。表粕屋郡・裏粕屋郡・宗像郡の三郡の総社として祀られてきたそうです。創建の年は不明ですが、五度も兵火にあい、天正11年に立花城主立花道雪が社殿を造営しましたが、島津軍によって焼失したということです。江戸時代になり、参勤の道中にある五所八幡には参詣、代参を欠かさなかったそうです。

唐津街道に面して鳥居があり、少し引きこんだ場所に八幡宮が鎮座しています。

五所八幡宮と書かれた額

石段を登った小高い丘の上にあります。

拝殿の前にムーミンの木がありました。楠の幹にできたコブが横を向いたムーミンに見えます。

広い境内の真ん中に社殿があります。
慶安三年に二代忠之は神殿・社殿・鳥居に至るまで造営し、宝暦九年に六代継高は神殿を寄進しました。

現在の拝殿は、嘉永六年二月に十一代斉溥が建立したものです。

社殿の瓦には黒田家の紋である石持と藤巴が使われており、黒田家の信仰の深さを伺わせました。
 

伊能忠敬が記した八幡社

文化九年八月十五日早朝、小雨降る中、前原宿を出発した伊能忠敬は、唐津街道を西へ進んだ。八月十日より本隊の伊能忠敬は西廻りで前原より岐志、芥屋を測量し、別隊の坂部貞兵衛は今宿より西浦、野北を経て芥屋大門の東側の黒い玉石の海岸である黒磯で出会い、五日間かかって糸島半島を測量し終え、前原宿で一宿した後である。
前原宿を出た後は、福岡領と中津領の境である多久川より測量を始め街道を進む。赤坂口留番所を通過し、神在川(長野川)にかかる十二間の土橋を渡って、牧、田中を経て諏訪神社の横を通過して田中村の枝村清水を通って松末村に向かった。
『測量日記』には、この部分に註記がされていた。内容は「清水、右四丁余り奥に字八幡、八幡社あり、近年六部納経すと云う。小社なり」という註である。私はこの八幡社を確かめるべく現地に赴いた。

街道沿いには八幡社の案内石が建っていて、この奥に八幡社があるのだと思った。

この道を進むと、ぐるーっと回って少し先に出た。二度ほど歩いてみたが神社らしき入り口は見つからず、神社はもう無くなったのかとも思った。突き当りほどに車屋さんがあって、そこの方に聞いてみると、奥の藪の中にあるということである。

参道とは思えぬ道を歩いて行くと、山に登っていく階段があり、その先に小堂が現れた。まぎれもなく伊能忠敬が測量日記に記した八幡社であり、忠敬が通行する前に六部納経を行ったという社である。六部納経の事についてはこの社では手掛かりはつかめなかった。六部納経とは、追善供養のため、経文を写して全国六十六州の代表的寺院に納めて歩くのを六十六部納経といい、略して六部納経という。

畦町宿の取り組みに思う

今日、宗像に行った帰りに福津市の畦町に寄った。
先日『畦町物語』という冊子も頂いていたので、お礼を言うべく畦町にある「ギャラリー畦」を営んでいる岩熊さんに会いに行った。畦町で生まれ育った岩熊さんは「畦町には何もないから自分たちでなんとか知恵を出して活動している」と口癖のように言っておられるが、何もないと言いつつも、自分たちでいろいろ考えて実行してあるので本当にすごいと思っている。

以前、畦町で一番高台にある氏神様を整備して町全体が見下ろせるようにしたら、すごく眺めが良くなったと言われていたので、氏神様に登ってみた。入口には、岩熊さんをはじめとする畦町宿保存会が作った看板が立っていた。

この辺り一帯に藪になっていた木や竹をみんなで切ったのだという。

石段を登ると本当に町全体が見下ろせる展望台になっていた。

石段の登り口には杖が用意してあった。

何もないと言いながらも、自分たちの暮らす場所が幾らかでも良くなるようにと活動する姿はとても素晴らしい。補助金ありきのまちづくりやコミュニティーデザインなどが現在多くあるが、こういう地道な取り組みこそが本当のまちづくりであると思った。
 

唐津街道と糸島のソウルフード牧のうどんについて


糸島が誇るソウルフードといえば、そう、牧のうどんですよね!
かくいう私も、生まれた時から外食といえば牧のうどんだったので、うどん屋といえば牧のうどんしか知らなくて、牧のうどん以外のうどん屋に行くと、なにか物足りなさを感じます。今日は、そんな牧のうどんの話をいたします。
糸島の人は、牧のうどんが「牧」という場所に本社があるので牧のうどんっていう名前というのは普通に知っていますが(知っていると思いますが・・・)その他の地域の人にこの話をすると、意外に知られていなくて、牧さんという人が始めたとかいう間違った情報が流れているので、それを正すためにも地図を用いたりして牧のうどんについて書いてみます。

糸島の真ん中を東西に通る唐津街道は、福岡藩の西端の前原宿を西へ向かうと、藩境の多久川を渡り中津領(幕府領より唐津領を経て享保二年より中津領)に入ります。それより丘陵(現在は切り通されている)を越えると通行手形を改めていた赤坂関番所があり、その先の長野川を渡ると左に川に沿って唐津街道が通っていました。現在は、国道202号線が加布里の方にのびており、この部分は赤坂交差点になっています。川沿いの唐津街道を進むと、道が緩やかに右に旧道になっていますが、この場所が牧という集落です。牧集落のすぐ北側に犬石という集落があります。ここにはかつて薬鉱泉があり、糸島では二丈吉井の貴船湯(まむし湯)と志摩櫻井大口濱にあった湯の三つが有名であったそうです。

旧道に入る角の部分が牧のうどん本社の畑中製麺所。

看板の下に置いてあるでかい羽釜には蔦が覆い尽くしています。
牧は、江戸時代に一里塚があって槙の木が植えられていたのでマキという集落の名前になったのではないかといわれています。深江宿と前原宿の中間にあり、殿様に湯茶の接待をした場所があったそうです。

旧道に入ってすぐ塞の神が祀られています。

牧集落は、街道に沿って民家が並んでおり街道の風情が今でも残っています。

集落のほぼ中央付近に秋風塚という石碑があります。江戸時代前期の俳諧師松尾芭蕉の句碑で、芭蕉は九州に来たことはありませんが、芭蕉の没後、門弟たちが供養のために九州各地に句碑を建立しました。牧の句碑には「もの言えば唇寒し秋の風」「帷子は薄き者なり秋の風」と記されており、芭蕉の門弟の秋川舎紗梅という人物が天保二(1831)年に建立しました。芭蕉句碑は、加布里の天満宮にもあります。

このような古い民家も建っています。牧は、江戸時代後期に筑前国怡土郡中津領の大庄屋がいた神在村の枝村であり、神在という名の由来は、昔、神功皇后が三韓征伐の際に通られる時、この場所に紫雲がたなびいていたので、彼の処には神がおられるといわれたのが地名のおこりといわれています。神在本村にある神在神社では、十月の秋の大祭の時、現在は福吉や深江で見られるような大名行列の神幸を行っていたそうです。牧の集落から神在神社までを練り歩き、神社に詣でた後は神在組庄屋・元神在組庄屋の納富氏、藤瀬氏宅に立ち寄り、行列の手並みを披露して饗応を受けて帰ったそうです。この神幸は戦争中に中止され、その後も再開されなくなったため、その道具一式は伊都国歴史博物館に寄贈されています。

さて、話はかわって、牧のうどん本店は国道202号線沿いにあります。
以前はこの辺りはほとんどが田んぼで、田んぼの真ん中に「龍松」という枝ぶりの良い大きな松の木が立っていたそうです。神在橋のたもとにも、道端に松の大木が二本あり、龍松と二本の松は、地域のシンボルだったそうです。あるとき、長野川から龍が出て二本の松に登り龍松へなぎ渡って巻き付き、天に昇ったとの言い伝えがあり龍松と呼ばれるようになったそうです。龍松は、昭和三十年代の終わりに松食虫の害によって枯れてしまいましたが、史実では、長期間にわたる幕府領岩本村と中津領神在村との境揉めが落着した記念の松であったそうです。

この龍松のあった付近は、戦後になって国道202号線が開通し、昭和40年頃にはだんだん車の通行が多くなってきました。そして、昭和48年に、この場所に牧のうどん加布里本店が出来て現在に至っています。

僕は小さいころから牧のうどん加布里本店に行っていて、明治生まれのひいばあちゃんは、必ず甘い汁の肉うどんを頼んでいた事を覚えています。お店の人はやめてほしいと思っているでしょうが、ネギはこのように山盛り入れて、

ネギを底に沈めて煮やすのが流儀です。

『畦町物語』 あぜのまちものがたり

福津市に所在する唐津街道畦町宿。その山里の宿場町で活動しているのが唐津街道畦町宿保存会である。この度、『畦町物語』という冊子が出来たということで送って頂きました。本の制作は長崎街道や唐津街道などを美しい写真や詳しい内容で紹介した図書出版のぶ工房さんが手がけられクオリティーの高い仕上がりに驚きました!

前原宿もまけちゃおられんばい

唐津藩主の駕籠立場 立花峠

参勤交代の行列は、小休(休憩)と野立(トイレ休憩)、昼休、宿泊を繰り返しながら道中を進んでいく。小休の際、殿様が乗る御駕籠を置いて休んだ場所が駕籠立場である。駕籠立場は、行列が通る数日前に周辺の村人達によって用意され、その構造は、土を6尺×4尺(約1.8m×1.2m)ほどの長方形に盛り上げて土俵のようにしたもので、周囲を柴垣が囲み仮設のトイレや茶屋を設けたものもあった。殿様の乗物である御駕籠をその辺に置くことはできないので、駕籠を置くため専用に作られた設備であった。
さて、前原宿を西へ向かうと、唐津街道は深江宿を通過し福井・吉井浦の中を通る。ここまでは、おおよそ国道202号線に沿うように街道は通っていたが、ここから先は海沿いではなく鹿家村の方へ山中を通ることになる。この峠を立花峠と呼び、頂上付近には「駕籠立」という地名が残っているという。唐津城下を発駕した唐津藩主は険しい山道を登ってきてここで小休止したといわれている。天正十二(1584)年、肥前松浦の波多三河守の軍勢2千人と、高祖城の原田信種率いる1万5千の軍勢が激突したのもこの峠付近だという。一昔前まではこの峠の西側にある鹿家村の子供たちはこの峠を越えて福吉小学校まで通っていたということが、小金丸輝さんの『ふるさと歳時記』(糸島新聞社)に述べられている。

福吉浦(福井浦・吉井浦)を過ぎると街道は峠越えの道となる。

峠の頂上付近からは志摩郡が望める

駕籠立場があったとされる場所に鎮座する愛宕神社
屈んで通らなければならないほどの小さな鳥居には宝暦年間の
年号が刻まれていた。

鳥居をくぐって急な階段を上ると小さな石の祠があった。

この祠は、天保七年に再建されたことが刻まれており、
唐津藩主がここを通るのを見ていたのだろう。

祠のすぐ裏は、二丈ゴルフカントリーであった。
街道は現在通っている道ではなく祠の裏側を通っていたというが、
ゴルフ場造成の際に無くなったとみえる。
 

今宿の追分石が倒れる

福岡城下から唐津街道を西へ進むと、筑前国の西の郡である怡土志摩郡に入る。
雷山千如寺を開いた清賀上人が、油山で採れた椿油を誤ってこぼしてしまい、その油が長く垂れたので長垂という地名となった伝説を持つという長垂峠を越した最初の宿場町が、志摩郡今宿である。この宿場には、唐津街道と福岡藩主が毎年の参詣を欠かさなかったという櫻井大明神へ向かう道とを分ける分岐点があった。この分岐点には、追分石という、今で言うところの道路標識が現在も残っている。(赤点部分)

ところが、先日通りがかりに、この追分石が倒れているのを発見した。
を停めて、近寄ってよく見てみると、車のぶつかった跡があり、すぐ側の玄洋公民館に聞くと、先日事故があって石にぶつかり倒れたとの事。一応、修復の依頼はしている。との事であった。

実際、前原宿の西構口に現在でも残っている追分石は、トラックやバスが何度も倒し、何度も立て直された後、現在は道の反対側に立っている。その他にも、倒された石は、家の上がり框に転用されたり、どこかに移設して保存されたりしている。歩くことがほとんどであった昔に対し、車での通行がほとんどの現在では、追分石は単なる邪魔な存在だと思が、地域の歴史を伝える証人でもあるので、なるべく気にして運転してほしい。

赤間宿は町であった。

 昨年より赤間宿に関わっていろいろ調べる機会を得ました。そこで分かってきたのは、赤間は、唐津街道でも前原や青柳、畦町などとは比べ物にならないくらいの純然たる町であった事です。江戸時代から、明治・大正にかけて、赤間は宗像郡一帯における中心的な存在であり、周辺の漁村に対して地勢的に扇の要のような位置にあり、芦屋・波津・鐘ヶ崎・神の湊・勝浦・津屋崎・福間の7浦からちょうど三里ほどの位置にあるため、七浦三里と呼ばれ、物資の参集地として栄えました。

『福岡県地理全誌』(明治8年)によると、明治初年の赤間には1000人近い人口があり、そのうち農業が33人に対して商業者は299人、工業者は47人と、大多数が商業者だったことが分かります。明治30年代に作成された引き札(宣伝用のチラシ)をみると、卸店や小売、魚屋、酒屋など様々な店があったことが分かります。

明治になっても依然として賑わいを見せていた赤間も、明治16年に郡役所が東郷に移転したのをきっかけに、鉄道の駅も宿場から離れた場所に開業し、それまで宿場が担っていた旅客・輸送の機能は鉄道へ移行し、だんだんと廃れていきました。

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