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  • 2016.10.30 Sunday
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綿屋出店の間取り図

 古材の森の建物は、旧西原家(屋号をわたや)といいます。
江戸時代の末頃に綿屋本家より分家して明治34年に建てられた建物です。
現在でも明治の風格を漂わせる建物は当時のままです。
この綿屋出店の建物の間取り図が残っていました。

手前が道で、南を上に書いてあります。左下の門の先に玄関と次の間、座敷があり、右横には勘定場、店などの部屋が並びます。図右側には食堂など記されていますが、この部分は現在はありません。通称「西店」と呼ばれていました。

今はなき西店の古写真です。明治期には郵便取扱所の建物になっていました。



綿屋について(英訳)

古材の森が所在する糸島には九州大学が移転し、留学生も多くやってきます。そこで、多くの外国の方にもこの日本建築を分かってもらえるように知り合いの方に頼んで綿屋についてを英訳してもらいました。

綿屋(西原家)Wataya ( former Nishihara clan)
During Edo period, the Nishihara clan became prosperous with their shop Wataya, which was prominent in Itoshima area.
They started their business circa 1780 (during the era of Tenmei) when they moved from Aoki village, Shima county (currently Aoki, Nishi ward, Fukuoka city), to the post station of Maebaru-shuku.
In 1795 (Kansei 7), they expanded their business from a small shop to crops trading, vinegar making, soy sauce making, haze (raw material for wax making) seeds collecting, financing and Gofukuya. Finally, Wataya became one of the most famous and wealthy merchants in Maebaru area.
Wataya also made a lot of financial contributions to Fukuoka domain so the government gave the Nishihara clan a title of Ooshoya-Kaku-Eitai-Ichinin-Fuchi.
In 1812 (Bunka 9), Itaba was built next to the main building of Wataya, where workers made haze wax. Later during the Edo period, Demise, a shop area, was built across from the main building. Demise was rebuilt in 1901 during the Meiji period (Meiji 34) and is now used as “Maebaru Kozai no Mori.”
Its gorgeous interior is still intact. On the first floor of the main structure is a Doma, a floor of compacted earth that is covered by a wooden surface called a Kanjo(-)ba. The Kanjo(-)ba, or the cashier’s office, is surrounded by a stairwell which is urushi-coated and beautifully designed. The Zashiki has a traditional style. The outer main gate, the front door, the room, and the Zashiki are located in a row. There is also a Sukiya-style Zashiki on the second floor.
Demise’s main gate and shopping area were built to face the main street. It resembles a honjin, an inn only used by daimyo or other officials in the Edo period.


唐津街道Karatsu Kaido(-)
Kaido(-), or ancient roads such as Tokaido(-), were constructed during the Edo period. In Kyushu, there were many Kaido(-) such as Nagasaki Kaido(-). Among them was Karatsu Kaido(-), which followed the coastline of the Genkai Sea.
Karatsu Kaido(-) ran from Wakamatsu in Fukuoka domain to Karatsu. It ran through Ashiya, Akama, Azemachi, Aoyagi, Hakozaki, Hakata, Fukuoka, Meinohama, Imajuku, Maebaru, Fukae, and Hamasaki. In 1764 (Meiwa 1), many people used Nagasaki Kaido(-) and Karatsu Kaido(-) from Dairi to Akama. They used Nagasaki Kaido(-) from Dairi to Kosenoya, passing Kokura and Kurosaki, and then they changed to Karatsu Kaido(-).
Daimyo from Fukuoka, Karatsu, Hirado, Goto, and Omura domains used this Kaido(-). Government officials, such as Nagasaki bugyo or Hita daikan, also used it.


前原宿 Maebaru Shuku
Maebaru shuku had developed to become a big post station on Karatsu Kaido(-). After the Shimabara Rebellion in 1638 (Kan’ei 15), sekibansho was established, where officials checked the documents of the travelers. Houses and temples from Maebaru mura (village) at the foot of Sasayama (now Sasayama Ko(-)en) were moved near the sekibansho. The area had been constructed as a post station, or shukuba machi (town) in 1685 (Jo(-)kyo(-) 2). Before the shukuba was built, people had changed their horses and litter carriers for their trips in Matsubara area, which was west of the later shukuba area.
Kamaeguchi, or a gate of the shukuba, was made with stone walls, dobei (earth wall), and roofed with kawara. Inside of the shukuba there was a villa, or ochaya, for the governor of Fukuoka domain and machichaya where daimyo or other travelers were allowed to stay. At toiyaba people and their luggage arrived from Imajuku or Fukaeshuku to change their transportation for the trip to the next post station. When daimyo had a trip to or from Edo for Sankin kōtai, village officials had a meeting at gun’ya. The managers of shukuba were daikan or gedai, who worked as a subordinate position to daikan.
At the west end of the shukuba, there was sekibansho or immigration office where the travelers had their passport-like documents (ourai tegata) checked. Maebaru shuku had an important role as a gate on the west end of Fukuoka domain.


西原家の集まり

12月14日、綿屋西原家の方々が古材の森(旧綿屋)に集まりました。前原市に在住の綿屋本家の西原さんや、最近東京から志摩町の芥屋に引っ越してこられた西原さん、大阪からわざわざこられた方々もおられましたが、親戚同士とはいっても、みなさん顔を合わせられるのは初めてという方々ばかりで、本家の西原さんが作成された系図を見ながら昔の西原家についての思い出話などで大いに盛り上がりました。古材の森で食事された後は、向かいの綿屋本家(天平工房)も見学されたいへん喜ばれて帰られました。次回集まるときはもっと人数が増えるといいですねと言って見送りました。




西原家のお正月

 綿屋の分家のひとつで、屋号「たびや」の西原さんと「出店」の谷川さんから綿屋の正月料理について聞き取りをしました。
 綿屋の元旦は、家長を中心に一人ひとり高足膳にお雑煮、下に南天を敷いた頭付き鯛の塩焼き(戦時中は鯛が鰯になったそうです)、数の子、黒豆、鱠(芥屋蕪を使った鱠)が載せられ、膳は、子供、嫁、結婚していない娘などそれぞれちがいがあったそうで、家長の膳は紋の入った黒塗りの大きなお膳だったそうです。
特に面白いのはお雑煮の内容で、5日に渡って違う種類のお雑煮を食べます。
 ・元旦・・・一般的な博多雑煮
 薄く切った大根を底に敷き、丸餅、カツオ菜、鰤を入れ、竹串にさした昆布・椎茸・里 芋・焼豆腐・蒲鉾・スルメなど七種類の具(お椀に盛るときに串から抜きます)を入れて作ります。ダシは焼きアゴ。

 ・2日目・・・小豆雑煮
 1日目の汁に小豆と餅を入れて食べます。餅は焼餅ではなく昆布のダシでやわらかくし た(のべた)ものを入れます。綿屋出店は郵便局をしており、正月の元旦までは郵便局の配達の人といっしょに雑煮を食べ、二日には配達員が里帰りされるので家族で小豆雑煮を食べ たそうです。

 ・3日目…福入り雑炊
 1日目の汁にご飯と餅を入れて雑炊のようにして食べたそうです。雑煮が熱くて冷ます ために吹くと福が逃げるということでがまんして食べたそうです。

 ・5日目…力飯
 「力飯」という米に餅を入れて炊いた少し塩味のするものを食べていたそうです。

 綿屋西原家一統すべてがこのような料理だったかは分かりませんが、おそらく同じようなものを食べていたと思います。

綿屋本家の鏝絵

綿屋出店(前原古材の森)から綿屋本家(小田工房)を見ると、店の間の奥にもうひとつ高い棟があります。その中央には窓があってその窓の周りには装飾が施されています。壁を塗るときに左官が彫刻ならぬ模様を描いたのが今でも残っているのです。

わかってきた綿家本家のこと

昨日、古写真展に現在は前原市篠原というところに住んでおられる綿家本家の当主が来店されました。私は以前から会っていろいろお話を伺いたいと思っていたのでここぞとばかりにいろいろ聞き取りをしました。それで次のことが分かりました。

・綿家本家の建物はまだ残っている 綿家本家の建物は、昭和40年頃解体されたと以前別の人からの聞き取りで聞いていましたが、実際は解体されてなく、今でも残っているということが分かりました。そして、その建物が、最近町屋風によみがえった小田工房(博多人形師)だったのです。築年代は、出店よりもさらにさかのぼり、文化7年の宿場大火後に建てた当時の建物だそうです。

・本家の建物内の様子
 敷地は古材の森筋向いの、小田工房とよしのや住設で、小田工房が店の間で、よしのやの場所に表門や玄関があったこと。表門をくぐると、綿家出店(古材の森)と同じような玄関式台と十畳の次の間と座敷があったこと。表門から式台までの距離が出店より長く、その直線上に大きなイチョウの木があったことなどです。そして、馬車がそのままは入れるくらいの大きな土間が裏まで続いていたそうです。

現在の小田工房(綿家本家の店の間)

古写真にはわずかながら本家の正面が写っています

本家店の間(現在の小田工房)


本家の玄関式台



前原宿の施設А〔焚伊棆

最近忙しくて、パソコンに向かう時間があまりなく、久しぶりのブログ更新となります。
今回は、最近発見した綿屋本家の図について書いてみたいと思います。現在、前原古材の森として使用している建物は、綿屋の分家で通称「出店」といい、綿屋本家はその筋向いにあったということは前に書きました。本家の建物は、現在は一部小田工房(博多人形師)となっており、表門や式台があった所はよしのや住設(塗料屋)の敷地になっています。今回は、昭和40年頃に福岡県が実施した古文書調査の中に綿屋本家の敷地図が二枚残っていたので、紹介したいと思います。
 本家の跡地は、現在、前原古材の森の筋向かいにある小田工房とよしのや住設の2店舗の敷地です。絵図を見ると、街道に面して67坪半の居宅。その裏には穀蔵三棟、醤油蔵四棟、櫨蔵二棟、その他納屋や塩蔵などいくつもの蔵が立ち並んでいた様子が分かります。豪華な建築である出店とは対照的に大きな蔵や倉庫が立ち並んでいた様子が伺えます。


吉嗣拝山の板戸

 

 綿屋(出店)には美しい装飾をした建具がいくつかあります。主屋から庭に突き出るようなかたちで茶室がありまが、その入り口の板戸に南画家吉嗣拝山が描いたと思われる絵が描かれています。
 吉嗣拝山は、筑紫野・太宰府を代表する南画家で、江戸時代の終わりの弘化3年(1846)に町絵師の吉嗣梅仙の長男として生まれました。19歳のときに、日田の咸宜園に入門し、明治4年(1871)から太政官記録編輯局に勤めるようになりました。しかし、同年7月出勤途中に大風雨によって倒壊した家屋の下敷きになり右腕を切断しました。その後、自分の右骨で作った骨筆をたずさえて各地を漫遊し、大正4年(1915)1月、病のため70歳で亡くなりました。
 綿屋(出店)の板戸に書かれた讃には「壬寅」と記されています。「壬寅」は明治35年(1902)のことで、綿屋(出店)が前年に建ったことを考えると拝山を招いて描いてもらったのかもしれません。
有田和樹

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