スポンサーサイト

  • 2016.10.30 Sunday
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


明治の漁港の古写真 唐泊

私が所蔵している明治の古写真のうち、港が写されている写真がいくつかある。
おそらく糸島周辺の風景だろうと思うが、なかなか決め手がなくてどこの風景か分からないでいる。その中で、最近になって急に分かってきた古写真があった。

この写真は、手前の砂浜に船が上がっており、左側の松の生えた丘は社のようなものがあって幟が立っている。その先には石積みの防波堤となっており、その先には島影が少し見える。比較的静かな海といった印象と、近いところに島が見えるという点で、野北や西浦、芥屋などの外海に面した港ではないと推測する。また、岐志や船越でもなさそうで、波止の先に見える島は能古島ではないかという仮説をたてて候補としたのが唐泊であった。こういう推測をしたとき、居ても立ってもおられなくなるのが私の性分で、つぎの日、早速現地へ赴くことにした。

現地へ到着すると、100年前と比べて埋め立てがかなり進んでおり、この写真の特徴であった石積みの島は跡形も無くなっていた。しかし、写真に写っていた石積みの波止と社があった丘はあり、その丘には恵比須神社があったことも分かった。幟が上がっていたのは恵比須神社だったのである。

なによりも決め手となったのは、波止の先に見える能古島の島影で、このことからこの写真は唐泊であるとの推測はほぼ間違いないと思った。

また石積みの波止は、石が綺麗なのが気にはなるが、かなり昔からあったと思われる。福岡藩の記録によると、この波止は、江戸時代初期に築かれその後崩壊したが、再度積みなおされ江戸時代後期の絵図には描かれている。

岬の突端部分にあった恵比須神社は崖崩れでも起こしたのだろうか、丘から下に下ろされてプレハブ小屋のようになっていた。それでも地形を見ると当時の地形が分かる。

唐泊港を少し散策してみた。港は海岸線(現在は道路)に沿って家が並び、奥に向かって傾斜に家々が並んでおり尾道のような風景の町である。その一番奥の高台には臨済宗唐泊山東林寺がある。古くから韓泊と呼ばれ天然の良好であった唐泊港を見下ろすように建てられ、文治三(1187)年に宋から帰国した栄西によって開かれたとされる。


ここからは、かつて貝原益軒が『筑前国続風土記』に「小高きところに立たる寺なれば、遠望朗かにして佳景の地なり」と記した風景を今も望むことができる。遠くには今津の毘沙門山を望むことができた。

東林寺にあった説明看板には、唐泊の古図が掲載されており、江戸時代の唐泊の様子がよく分かる。この図を見ると、岬の突端に恵比須神社があり、その下から波止が伸び、砂浜に面して岩場が見える。古写真に写っていた松の生えた岩場はこの図で確認することができた。この図には岩場の名称が古波止と記されている。昔の波止は、現在のように舟を係留するためのものではなく岩場がその名のとおり波を止める「波止」の役割を果たしていたようだ。


 

百年定点観測

明治30年代に撮影された写真があります。その中で、山の形はわかるものの、どこから撮影したのか不明な写真がありました。綺麗な着物を着た女の子が三人小川の橋の上で写っている写真です。遠くに見える山は糸島市二丈に聳える二丈岳という手がかりから、多久川の河口部辺りから撮影されたもので、手前の小山は宮地嶽という山ではないかと思っていました。この写真をフェイスブックで公開したところ、様々な意見が寄せられ、その中の一つに、多久川は多久川でも、少し上流部にある橋から撮影されたものではないかとの情報で、現地に行って撮影してみました。その写真がこれです。




上が明治30年代に撮影されたもので、下が今日撮影したものです。
明治の写真のアングルが、川の底辺りからのに対して、現在は護岸工事のため、川底から撮影できないので、少し上からですが、山の形を見てもほぼ同じ場所だという事が分かります。明治の写真の撮影時期は、雲の具合から冬(正月?)と思われます。少女らの後ろに天秤棒を担いだ女性が写っていますが、これはわざとでしょう。手前の宮地嶽にはあまり木が生えていません。当時の主なエネルギー源が木材であった事を伺わせます。現在は山に人が入らなくなったため、雑木が生い茂り孟宗竹が浸食しています。約100年を経て定点観測してみると様々な事に気づかされます。
 

2013あけましておめでとうございます!!

2013年あけましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い致します。
さて、昨年12月31日の紅白歌合戦で、美輪明宏さんが歌っていたヨイトマケの歌。
この歌は、家を建てる際、敷地の地固めをするのに、櫓を組んで、大きな丸太を数人で
引っ張っては、ドーンと落としながら敷地を突いていく時に歌った歌です。

旧西原家を建てる際、明治33(1900)年1月に行った敷地地突きの様子を写した
写真があります。たいへんな苦労があって建てられた建物なんですね。

110年前の太宰府天満宮

この写真は、今からおよそ100年前の太宰府天満宮延寿王院前です。
太宰府天満宮参道が突き当たった所に大きな門があります​。延寿王院と呼ばれるこの邸宅は、太宰府天満宮が安楽寺​天満宮と呼ばれていたときの宿坊で、宝暦4年に、桃園天​皇より安楽寺延寿王院留守別当大鳥居に院号を下賜されて​この名称になりました。この邸宅には、幕末期に高杉晋作や西郷隆盛ら志士たちが出入りしました。
さて、この写真は、明治39年4月12日に前原の​西原家が太宰府に旅行した際に撮影されたものです。撮影時間は午後5時と記されています。現在とほとんど変わっていないように見える風景ですが、鳥居のすぐ右側にある石碑が移動し、左側にはあった石碑が右奥に移動しているようです。心字池に架かる太鼓橋も変わっていないようです。


明治39年(1906)

平成23年(2011)

そのほかにも天満宮境内を撮影した写真がありました。

【文書館】
明治34年に菅公御神忌千年大祭の記念事業の一環として建設されました。この写真は建設より5年後に撮影されたものです。

【極楽橋】
奥に延寿王院の築地塀が見えます。

【直橋から心字池の鯉に餌を与える人々】
奥に鳥居が見えます。左端の建物はおそらく絵馬堂と思われます。

ちなみに、話は変わりますが、福岡藩主はよく太宰府を訪れて天満宮に参詣しました。文久二年、当時若殿であった黒田(慶賛)長知が参詣したときの古文書があるので紹介します。書いた人は、福岡藩御納戸頭の伊丹大内蔵です。
二日市宿に宿泊していた慶賛一行は、4月11日に太宰府に参詣しました。
一之鳥居際に延寿王院(大鳥居)罷り出、小鳥居はじめその他の面々も罷り出た。
道が少々悪かったので、仁王門を通り、楼門前にて御下乗。拙者(御納戸頭の伊丹大内蔵)は、拝殿上り口中央に控える。奥頭取も同じところの左のほうに控える。慶賛公が拝殿に上られる際、刀を受け取り、すぐに刀掛けへ掛ける。慶賛公の参拝が終わるのを見計らって、御先立(先導)を勤め、お神酒を頂きお立ちになるのを元の所まで先導した。

旧糸島銀行

旧前原宿の通り沿いには、白漆喰の町屋がいくつか残っています。
店舗として使われている町屋、個人宅として使われている町屋など様々です。
中には、まったく気づかれていないものも少なくありません。
古材の森より東に6軒隣にある町屋。現在は個人宅として使われていますが、以前は銀行だったことが分かりました。近くに住む90歳のおばあちゃんに「あの建物は昔なんだったんですか?」と聞いた際、銀行という話が出てきました。でも、何銀行だったかは、覚えておられませんでした。
話では、銀行の上り口は三段ぐらいの石段で、中には黒い扇風機があって夏はいつも当たりに行っていた。という話でした。そのとき、ふと思い出したのが『糸島郡誌』に載っていた糸島銀行の写真でした。実際の写真と比べてみると、少し変わっていますが、雰囲気は、そのまま残っていました。
『郡誌』によれば、旧糸島銀行は、大正10年6月15日に、唐津銀行に合併し、この建物は唐津銀行前原支店となったということです。

現在の建物

唐津銀行時代の建物(写真は糸島郡誌より転載)


老松座

 筑前前原駅北口より北へ100m程のところに国道202号線「西町」という交差点があります。
その交差点の角に「料亭丸一」というのがありますが、その丸一隣にはかつて「老松座」という芝居小屋がありました。明治三十九(1906)年に地元の篤志家であった西原藤次郎が農閑期に芝居興業を行い地域の活性化を行おうと建設し、北九州一円を巡回した旅芸人一座が株主たちから劇場の管理も頼まれて住みこんでいたそうです。劇場は木造二階建てで庇には太鼓を打つやぐらがありました。
名前の由来は、最初にあった場所が老松町であったからだそうで、その後、かつて老松神社の境内があった場所で、現在の国道202号線を走っていた北筑軌道の駅舎跡に移りました。
今回、この老松座の写真を古材の森の近くにある「江川酒店」より借用しました。
戦後、長谷川一夫一座も来たことがあったそうですが、昭和25年頃から映画人気に押され「太陽劇場」という映画館になりましたが、その太陽劇場も火災により消失しました。

外観写真(屋根の入母屋部分に太鼓を打つ櫓がみえる)

内部の写真(中は桟敷席で、株主のための特別席も用意されていたそうです)
 昭和20年代後半の前原町中心部の空撮(糸島新聞社提供)
手前側を通るのが国道202号線。写真右上にある建物は旧前原小学校。
左端の丸で囲んでいるのが老松座

あの風景が

綿屋から出てきたガラス乾板写真の中に「明治33年1月 建築板囲の雪」というタイトルの写真があります。この写真は、現在の古材の森から前原名店街側(西側)を見た写真です。今から約109年前の風景ですが、この写真をみるとみなさんきまって「昔はこんなに雪が降りよったねえ」と言われます。
 ところが、ついにこの風景に近い風景が109年を経て現れました。昔のように雪が多くはありませんが、普段は滅多に積もらないこの付近にも昨夜から雪が降り続きました。



名勝 箱島

糸島市の二丈浜窪と加布里の境に「箱嶋」という小さな島がある。加布里湾に突き出したこの島は、昔から糸島の風光明媚な景勝地として有名であった。江戸時代には、博多聖福寺の住職仙涯和尚も度々訪れ「幾千代か浦島の子の玉手箱隠してここに沖津しら波」という歌を詠み絵にも残している。大正五年、加布里港の南側の丘を開削し、姫越公園と名付けて此の里亭や太田屋といった茶屋を設け、箱島にも「料亭箱島」という数寄屋造りの料亭が立ち並び、筑紫富士と謳われた可也山を水上より望む名所として大正から昭和初期にかけて、この一帯は遊客には広く知られた遊興地であった。

炭鉱王として名高い伊藤傳右衛門も妻の柳原白蓮と共に訪れたと云われ、白蓮は伊藤家から出奔した大正10(1921)年に、傳右衛門への離縁状を朝日新聞に掲載したが、傳右衛門はそれに対しての反駁文を大坂毎日新聞に掲載した。その中に「早良郡の箱島に遊びに行ったとき、その箱島が気に入ったからあの島を買ってくれと頼まれた時には全く二の句が告げなかった」とある。しかし、その箱島の茶屋も昭和18年頃に襲った台風によって倒壊してしまい、現在、当時の建物等は残っていない。「北に筑紫富士を望み四周の連峰静かに影を投じ、一大湖水の観があって風光明媚。殊に夏月の納涼に至りては興味言外に在り」とも云われた箱島は、現在観光ブームの糸島にありながら、その影を潜めている。

島の中にはこのようにいくつもの建物が建っていた。

西南側から見た写真

島の中にあった料亭千鳥亭はかつてはこのようににぎやかだった。

此の里より眺めた箱島

明治期の箱島。未だ建物が建っていない。

加布里の此の里海岸には大きな石が今でも残っている。
その石の横には浮世亭という茶屋があった。
左側に写っている石は現在も残っている。

ということで、現地を見に行ってきました。橋を渡ると正面に箱島神社の鳥居があります。

箱島様といって耳に効くみたいです。

箱島より可也山を望む。なだらかな曲線が美しい

島より突き出す防波堤は西方沖地震で崩れたみたいです。ここでは以前鯛の養殖をしていたことが古い絵葉書で分かりました。

鳥居を潜ると石段があり神社へ向かう

小さな社殿が島の山頂に建っていて、濱窪集落の方が祀ってあるそうです。
この記事は西日本文化協会発行の「西日本文化」に書いてます。
 

古材の森の定点観測

定点観測とは、定まったにカメラを設置し、時間おきに撮影して対象がどのように変化したかを見るものです。次に紹介する写真は、前原古材の森(綿屋出店)を約100年間定点観測したものです。

明治34年、今から107年前の綿屋です。まだ壁塗りの途中で完成していません。表門もまだ出来ていません。

平成16年、綿屋が空家だったころの写真です。上の写真と比べてみると、手前側の4間ほどある建物がなくなっていることが分かります。

現在の綿屋、表が白漆喰で塗られ、二階の窓も新しくガラスが入れられ再生された様子。

綿屋前の配水管工事


現在の古材の森前の道を掘って土管を埋めている工事の写真です。明治時代の終わりか大正になってからの写真と思われます。この写真は、前原名店街の中にある「辰巳陶器店」所蔵のもので、当時建材店を営んでいた辰巳建材店が土管などを造っていたためこの工事の写真があったと思われます。右に見えるのが綿屋出店(古材の森)、左側が綿屋本家(現在の天平工房)です。綿屋本家の看板には「アサヒビール」の看板が架かっているのが見えます。

calendar
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
recent comment
recommend
recommend
recommend
recommend
福岡地方史研究 第49号
福岡地方史研究 第49号 (JUGEMレビュー »)

福岡藩主の前原宿泊を所収しています
recommend
recommend
recommend
recommend
recommend
福岡地方史研究 47号
福岡地方史研究 47号 (JUGEMレビュー »)

唐津藩主の前原宿泊を所収しています
recommend
福岡地方史研究〈45〉
福岡地方史研究〈45〉 (JUGEMレビュー »)
福岡地方史研究会
福岡藩旅籠屋屋号帳を所収しています。
recommend
福岡地方史研究〈46〉
福岡地方史研究〈46〉 (JUGEMレビュー »)

福岡藩主のおもてなし作法を所収しています。
recommend
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM