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  • 2016.10.30 Sunday
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正興製作所について

「村に火の雨が」という私の地元で起こった空襲についての聞き書きをまとめた本があります。私の母校である雷山小学校では、毎年6月19日になると平和学習として雷山地区に焼夷弾が落とされた”雷山空襲”について学んでいました。平成11年にこの空襲にまつわる聞き取りが行われて1冊の本になったのが、その本です。この本の中に石井さんという方の聞き書きの中に正興製作所という飛行機の部品をつくる工場が篠原にあって、そこに勤務していたという事が書かれ、工場の平面図まで掲載されていました。

雷山空襲は、6月19日に行われた福岡大空襲の爆撃機のうち1〜2機が福岡市内を外れて雷山地区を爆撃し、その理由として雷山大溜池が月の光に照らされて大きな工場に見えたからだとか言われていますが、ほかの理由の一つに正興製作所が軍需工場であったという理由も挙げられています。この製作所がどこにあったのか?この平面図だけでは当時どこにあったのか全く分からなかったため、私の祖母に正興について聞いてみると、現在の前原中学校が正興の跡地であるという事を聞き、昭和22年に空撮された航空写真で確かめてみると、確かに現在の前中の敷地に、石井さんが書いた平面図とほぼ同じ配置で正興製作所が確認できました。

前原から雷山へ向かう雷山線に面して正門を構え、大きな工場が4つ確認できます。製作所の裏を通る細い道は、現在もそのまま残っており、戦後、この敷地はそのまま前原中学校に転用されたと思われます。

 

不動滝に行く


先週の土曜日に雷山の中腹にある不動滝に行った。
今月初めに見た糸島新聞に、不動滝の側にある不動堂が地元で管理しきれなくなったので、雷山千如寺に移すという記事を見たからである。私は小学校の頃、家族で不動滝のさらに上にある神籠石によく行っていた。今は跡しか残っていないが、神籠石の上にある筒城神社が皮膚病に効くということで、1年生の頃に皮膚病を患った私を連れて、筒城神社に参りに行っていたのである。
糸島市飯原という集落からさらに進むとやや広い駐車スペースがあって、そこに車を止めて山道を登っていく。しばらく進んだ場所に不動滝があった。そこで少し休憩してさらに上を目指し神籠石まで行っていた。今から25年ほど前の話である。

不動滝は、雷山の中腹にある不動池という貯水地から流れ出す川が滝となった場所で、滝のすぐ側にお不動様を祀る不動堂がある。うちの祖母は、私の実家のある集落の老婆数人と、月に1回ほど、その不動堂に御籠りに行っていた。祖母たちは自転車に乗って有田から飯原まで行き、そこから山を上って不動滝まで行って御籠りをしていた。御籠りといっても、不動堂に到着すると、お不動様にお参りをして、お堂の掃除などをし、持ってきたお菓子やお茶を食べたり飲んだりしながら1日中お堂の中で雑談をするというようなもので、普段家では公にお菓子を食べたり雑談したりというようなことがなかなかできなかった時代に、お不動様に御籠りに行くという大義名分で行っていたものと思われる。

さて、25年ぶりに訪れた不動堂は、25年前とあまり変わっていなかった。しいて言えば、そこにいたるまでの道のりが違っていた。当時は飯原から登らないと神籠石まで行くことができなかったが、近年は雷神社の裏に立派な道路ができていて、車で神籠石まで行って山道を下るということが可能になっていた。山道も杉の間伐が行われていて森の中はすごく明るかった。

さて、山道をかなり下って不動滝に到着した。お堂の周りには御不動様の石像がいくつかあったが、いずれも新しい花が行けられており、毎日集落の人が登ってきてお花を上げているのだろうと思った。

お堂は石垣に囲まれており、お堂の後ろに滝が流れている。

お堂の扉が開いていたので中に入り、うちの祖母がそうしていたように、箒で掃いてお不動様に参り、折りたたみの小さなテーブルがあったので、それを出してお茶とお菓子でしばしお籠りのようなことをしてみた。八畳一間のお堂の窓からは不動滝と糸島平野が望める。かつて、仙涯さんがここに遊び、幕末期には野村望東尼も滞在していたというこのお堂が、近い将来無くなってしまうのは大変おしいことである。現にこの翌日(4/26)にはお不動様は千如寺に移られる。幾らかでもここでお不動様籠りをしていた祖母たちの話を聞きとって保存しておきたいと思った。

お堂は5月5日に解体されるそうです




 

波多江白圭

先日、糸島市内のあるお寺の襖絵を波多江白圭という人物が描いたものであるということを、そこの和尚さんに教えていただいた。波多江白圭について調べてみると、『前原町誌』にその名が確認できた。

波多江白圭(はたえ はっけい) 
天保10(1839)年〜明治35(1902)年
通称、波多江弥吉。二得斎、二得道人とも号す。志摩郡前原の人。二刀流の達人で、戊辰戦争にも従軍し各地を転戦。山水花鳥を得意とし、作品は糸島郡内に残る。死ぬまで帯刀髷姿であったという。64歳で没。

志摩郡前原村という在所と、波多江弥吉という名前から推測して、前原宿に勤務していた下代か口留番所に勤務する関番ではないだろうか?以前、このブログにも書いたが、関番の萩尾可朔や時枝峰雲なども書や絵画に秀でていたという。関番の中には波多江氏が2名おり、この波多江氏が白圭という号で書画を描いていたとしても不思議ではない。落款をみると、波多江白圭は通称を弥吉といい、名を種正という人物であったことも分かった。


飛梅の印


太宰府天満宮の神木「飛梅」
この木の枝で作ったいくつかの印の話をまとめてみました。
平成17年に、筑紫野市歴史博物館で藤瀬冠邨展という筑紫路の南画家の企画展が開催されました。その時、私も展示に関わりましたが、特に藤瀬冠邨の落款印についていろいろ調べました。その印の中に「神木 太宰府天満宮 天海刀」という側款の入った木の印が二点ほどありました。その後、私の交通史の先生である近藤典二先生と話をしていると、近藤先生のお父さんである近藤思川さんが還暦の祝いに飛梅の枝で作ったという印があるというので見せてもらいました。冠邨と同じく天海という人が彫ったものでした。その話を詳しく聞くと、筑紫野市の二日市に豊島南窓という漢詩人がいて、その人の紹介で作ってもらったそうです。近藤思川さんの還暦の年は、明治16年生まれなので昭和18年であり、ほぼ同じ時期に藤瀬冠邨も印を作ってもらっているようです。昭和18年頃に大宰府天満宮の飛梅の枝を落とすことがあったようで、筑紫路の文人たちはその枝をもらって印にしたことが少しづつ分かってきました。また、この印を刻した天海という人については、近藤先生からは箱崎に住んでいたということを聞きましたが、印を収集している方に問い合わせると、天海は、樋川天海といい高千穂に住んでいたらしいことがわかりました。昭和24年に高千穂峡にある北原白秋の歌碑も天海の作だといいます。当時名の知れた篆刻家だったのでしょう。天海の彫った飛梅の印に関してはまだまだ調査中です。

赤い檜の林 高祖宮

糸島市高祖にある高祖宮

先日、行ってみようと思い神社の入り口まで行ったところ、奇妙な光景に出会いました。

スプレーで色をつけたかのような真っ赤な木が並んで立っています。

良く見ると、木の皮がはがされていました。なぜ、このようなことをするのかというと、現在高祖宮の神殿は修復中で、この檜の皮が桧皮葺といって屋根材に使われるのです。

皮は主に下の部分がはがされていました。

神社の屋根を葺くのに、その周辺にある木の皮を使うっていうところが素晴らしいと思いました。元来、日本家屋というのは、その土地にあるものを有効に活用して作ったので、萱葺きや藁ぶき、桧皮葺きなど様々な屋根材が用いられました。現在みたいに、遠くの木や外国などからもってきた材料で建てられても長持ちするはずはないし、風土を感じさせる建物にはなれません。食べ物が地産地消なら、建物も歴史も、その土地ではその土地のものが一番すぐれていると思います。

ちなみに、高祖宮の鳥居は、福岡藩四代藩主黒田綱政が元禄六年に寄進したものです。



 

福岡藩主と小金丸浜

筑前国志摩郡櫻井村には与土姫大明神という神社が祀られています。この神社は、慶長15(1610)年より祀られ、寛永六年より福岡藩二代藩主忠之が整備して社殿を造営しました。ちょうどその頃、福岡藩のお家騒動である「黒田騒動」が起こり、忠之は夢のお告げを書付と絵にして与土姫大明神に奉納したところ、事なきを得たため、いっそう尊崇の念を厚くしたといいます。
さて、歴代の福岡藩主は、藩主襲封後や在国中は、領内を巡見することが慣例となっていました。現在の糸島方面にも度々訪れており、例えば9代藩主斎隆が初入国の際に行った巡見ルートは、福岡城を出発し、志登宮に参詣、その日は前原宿で宿泊。翌日は与土姫大明神に参詣して西浦で鯛網を見て櫻井村に宿泊。その翌日は芥屋太祖宮と塩土社に参詣して前原宿に宿泊。さらに翌日は、高祖宮、金龍寺、如意寺、染井社を参詣して城へ戻っています。
寛政12年に10代藩主斎清が初巡見に出た際の記録を見ると、福岡城を出た後、桜井の与土姫大明神に参詣し、
その後、小金丸浜で野立(トイレ休憩)をした後、芥屋へ向かっています。この小金丸浜は糸島の巡見の際によく通った道で、歴代の福岡藩主は海岸沿いを通るこの風景を眺めたことでしょう。

この桜井から野北を通って小金丸に向かう浜がある場所に「おはな」という食事処があります。先日、そこに行く機会があって食事の後店内を見ていると、ある物が目に入りました。

藤巴の紋の入った軒先瓦です。お店の人に聞くと、ずーっと昔からおじいさんが持っていたものだそうで、福岡城で使ってあった瓦だそうです。かつて福岡藩主が通っていた浜辺のすぐ側にある店で福岡城の瓦を見たとき、往時の風景が浮かぶようでした。

 

脇山御境目奉行の役宅を探す

江戸時代、領地の境目は紛争の引き金になりやすい箇所で、日本全国いろいろなところで領地境でもめています。今でも自分の家と隣のお宅の敷地に関するトラブルは良く聞く話です。筑前福岡藩領でも、元禄の頃に佐賀藩と背振山で領地境争いが起こり、結局福岡藩は負けて脊振山の山頂は佐賀藩の領地となりました。以前もこのブログで書いたことがありますが、このように、境目を常に監視し、隣接する他藩との紛争を回避することはとても重要なことでした。福岡藩では、主要な藩境には御境目奉行という役人を置いて境目を管理していました。御境目奉行の役宅が置かれたのは、小石原、埋金、脇山、甘木、それと御茶屋奉行も兼任する前原、原田、黒崎でした。



九州大学が所蔵する三奈木黒田家文書の中に「郡方覚」という文化九(1812)年における藩内の役人を記した名簿があります。この中には御境目奉行として、那珂郡埋金に河嶋傳七郎(350石)、夜須郡甘木に岸原権右衛門(150石)、早良郡脇山に高畠利兵衛(120石)、上座郡小石原に八木又平(200石)とあり、いずれも馬廻組という中級藩士が駐在しました。これら御境目奉行には、現地採用の下役人がおり、埋金には川崎佐内(三人扶持六石)、甘木には宗官長次郎(三人扶持六石)、脇山は当時欠員、小石原には栗原勇次(三人扶持七石)という人物が勤務していました。

九州歴史資料館には、御境目奉行役宅の間取図を描いたものがあり、その中に脇山御境目奉行役宅の間取図がありました。二間の表門が描かれ、門を潜ると、四畳の玄関に十畳の座敷と八畳の次の間(以上が御用の間)があり、奥には台所や居間など奉行の居住スペースとなっています。この間取りは、他の御茶屋奉行や御境目奉行の役宅も同じような間取りとなっていました。現在でいうところの駐在所と同じニュアンスです。
さて、この役宅がどこにあったのだろうと思い、福岡市早良区の早良高校の近くにある脇山公民館に訪ねてみましたが分かりませんでした、しかし、しばらく後に脇山に住む石津司さんという郷土史家の方が、その場所を知っているというので案内してもらうことになりました。石津さんは、高校の数学教師として教鞭をとられた後、生まれ育った早良地方の史跡や伝承に興味を持ち「安楽平城物語」という本を出されている現場主義の郷土史家です。

御境目奉行の職務が国境の監視が主な仕事なので、肥前国境に近い場所だろうと思っていましたが、以外にセブンミリオンというゴルフ場の入り口付近のある野田という集落でした。石津さんは、『平賀義美先生』(非売品)という本を持っておられ、その本に福岡に在住し、かつて福岡藩の城代組という下級藩士であった石松家から平賀家という同じく福岡藩の無足組という下級藩士の家に養子に行った人物がおり、その子孫が、明治初年に御境目奉行役宅を拝借して住んでいた家を大正14年に踏査しに来たことが書いてあったので調べたとのこと。

その本(非売品)には次のように記されています。
「当時より68年後の大正14年の初夏に、先生は夫人及び親戚の木村成太郎氏を始め、その他の人達を伴いて、往時の思い出に誕生地を踏査された。一行は脇山に着くと、それぞれ手分けをして「昔、石松という侍の住んでいた屋敷跡は何処か」とか、或いは「昔、永田国境奉行の山荘のあった所は何処か」と、軒別に村の農家を訪ね廻ったが、何分にも六十余年という遠い過去の事であるから、どこの家でも言い合わせたように、皆「知らぬ存ぜぬ」との返事で取りつく島もない。しかし、幸いにも菊次郎と呼ぶ七十歳の古老に依って、その屋敷跡と云うのを教えてもらった。その処は菊次郎の家の横手からダラダラ坂を百歩許り登りて、山に突き当たった右手にある七八十坪の平地で、案内の菊次郎はそれを指して、「ここが石松さんの家の跡じゃ」と言ったが、見れば柱石一つ残っておらず、只一面の蜜柑畑で、何一つ根拠となすべきものはない。やがて、同行の木村氏は「ここが果して石松家の屋敷跡ならば、背後の山に墓石が二基ある筈である。母から毎日そこで子供を遊ばせていたとの話を度々耳にしたことがあるから」と言って、二十級ばかりの小さき階段を駆け上って高地を探されたところ、芝生の中央に、自然石の墓碑と其の傍に小墳とを発見した。先生一行は、同所に到り見るに、大なる方には明らかに「永田直方入道露草居士」と鐫刻されてあったので、今は疑を挟む余地もなく、のみならず、木村氏が同じく母方自ら聞かされたという当年の泉水も、その付近に僅かながら見出すことが出来た上に、石津幸助と呼ぶ八十三歳の古老から、彼が先生の次兄と遊び友達であったことや、石松家にはかめ子さんという娘も辰さんと呼ぶ末っ子のあったことも、又彼の兄が毎年所産の栗や柿を持って庄の石松家へ挨拶に行ったことまで詳しく話されたので、先生は完全に誕生地踏査の目的を遂げられた」

先生と呼ばれる人物が誕生し1〜2歳の頃まで住んでいた御境目奉行の役宅を探しにきた事が書かれています。脇山に在宅していた福岡藩城代組の石松源次は、永田弥次郎直方という国境奉行(御境目奉行)より役宅を提供され、しばらくそこに住んでいたようで、その家で生誕したのが、先生と呼ばれる人物です。先生は、その後旧藩士で無足組の平賀家に養子に入り、福岡藩の貢進生としてボストンに学び、化学を学び明治・大正の応用科学者となる平賀義美(註1)の事です。また、文中に出てくる古老の菊次郎は安政元(1855)年の生まれ、石津幸助は天保13(1842)年の生まれであるから、当然子供のころに石松家となっていた役宅に出入りした可能性があります。今回、案内していた石津さんは、この石津幸助の子孫にあたるそうです。石津さんに案内されて言った場所には、文中にあった墓碑があり、「永田直方入道露草居士」と刻まれていました。

御境目奉行の役宅があった場所は、現在、竹が生い茂っており背振山を望むことが出来ませんでしたが、おそらくこの場所に脊振山を望むように間取り図のような役宅が建っていたと思われます。

昔の建物跡を探すのはなかなか困難なので、このように地元で伝承されている事などはとても大切です。甘木、小石原、脇山の御境目奉行役宅の場所はほぼその位置を特定することができました。のこるは那珂川町の埋金のみです。

役宅付近からは、肥前国境の背振山がこのように見えます。


(註1)平賀義美
初名は石松决(いしまつ さだむ)福岡藩城代組の藩士(十石三人扶持)の石松家に生まれ、無足組の平賀家(十四石三人扶持)に養子に入り磯三郎と名乗る。平賀義質の斡旋により、慶応三(1867)年、11歳にして長崎に出て英学を修め、明治三(1870)年、14歳で福岡藩の貢進生となって大学南校に入学した。 ここで外国教師の化学実験に感動して、化学を志すようになった。明治11(1878)年、東京帝国大学理学部卒業。当時、旧福岡藩主の黒田長溥は廃藩置県後も、旧福岡藩士出身で東京帝国大学卒業者を対象に、個人的な資金援助を行って欧米留学生として派遣していた。 義美が大学で研究していた「科学染料による染色法」の経験が見込まれ、黒田の給費でイギリスに留学させてもらい、オーエンス大学に入学、染色術を専攻した。また実際的工業を修めた。 明治14(1881)年に帰国し、東京職工学校(東京工業大学)東京大学教授、農商務省技師となる。翌15(1882)年、平賀義質と長男の急死に伴い、義質の長女の婿養子となり家督を継いだ。これを期に名前を平賀義美と改名。この頃の日本は好景気に湧いていたこともあり、留学で得た染色術を繊維業界からの講習依頼が殺到したため、全国行脚を行った。 大阪商品陳列所所長、大阪織物会社を設立し社長になるなど歴任。教育面でも関西商工学校創立に参加、明治専門学校創立以来の協議員などを歴任するなど尽力した。また『日本工業教育論』を著すなど、工業学の普及に努め、日本で初めて工学博士となった。 人造真珠工業は、光珠商であり貿易商であった大井徳次郎がフランス製品を入手し、その研究を義美に依頼したことに始まったといわれる。このように明治・大正期の商工業界に多大の貢献をなした。
 

 


ビジネスマン黒田官兵衛


あけましておめでとうございます。
黒田官兵衛を現在に置き替えて考えると、小寺家という中小企業の黒田取締役部長さんが、経営があやしくなってきたので、これまで取引のあった毛利家という大企業と付き合い続けるか、最近台頭してきた織田家という企業と付き合うかを迷って、自分の会社の小寺社長を差し置いて、独断で織田家に営業をかけ「播磨を差し上げます」なんて、勝手に契約してきた(お礼に名物へし切をもらう)けど、小寺社長はなかなかこれまで取引のあった毛利家との取引を切ることができず、どちらと取引するか決断できずに、織田家と小寺家との間で板挟みの状況になって、結局、小寺社長と小寺家の社員にウザがられて、騙されて有岡城に幽閉されることになって、出てきたけど、小寺家には居ずらくなって、上場企業の織田家に中途採用されて、信長社長が急死したので、羽柴取締役を社長にするべく、より一層営業したという、話だと思います。
 


つかのまの博物館

 3年前の話ですが、糸島市二丈松末にあるStudioKuraの松崎さんに会って、それからいろいろあって、クラのすぐ前を通る道が唐津街道で、現在はなくなってしまったが、そこには街道に添って松並木があったことを郷土の画家松永冠山が描いていたので、博物館がしたい!!という話をもちかけて、1週間というつかのまで行うのでつかのまの博物館と題して展示会を行った時の様子です。

糸島市二丈松末にあるStudioKura。二つの蔵が並んでいるのが特徴です。この前を通っているのはあ国道202号線ですが、江戸時代は唐津街道として唐津藩や福岡藩の殿様が通行しました。

Studikuraの前を通る唐津街道には松並木が並んでいました。現在は全て切り倒されて1本も残っていません。

江戸時代の絵図には羅漢川に沿った街道に松並木が並んでいる様子が描かれています。

この様子を大正11年に郷土の画家松永冠山が「糸島街道」というタイトルで描いている絵があるのを知っていました。糸島郡観光協会が発行した『糸島伝説集』の表紙にも使われていました。

そこで、ぜひこの絵を現地で展示したいと思い、所有者の方より絵を借用して展示会をすることにしました。

題して「つかのまの博物館 唐津街道と松末の松並木展」展示資料の数が余りないため、付近の古老に聞き取り調査を行いました。そこで、サブタイトルを「キオクをキロクする」としました。

入口にはケヤキの板で博物館の看板を掲げました。以前萩博物館に行った際に、こんな看板があったので、同じような雰囲気で作成しました。

展示の風景。唐津街道について述べ、浮世絵に見る松並木や元禄期に描かれたこの付近の絵図。そして、付近で収集してあった松並木の古写真を4枚展示しました。

反対側には、今回の展示会のメインとなる松永冠山の絵を展示しました。

今回の展示会では、松永冠山がこの絵をどこから描いたのかを検証しました。

絵に描かれている馬鍬も、蔵にあったので展示しました。

近くの古老から聞き取り調査を行って、その記憶をパネルにして展示しました。



地元の人や松並木を実際に見た人たちがたくさん来てくれました。そして、その場で松並木についての思い出を語る場面も多くありました。

さらに、なるだけ博物館に近づけようと、ミュージアムカフェや

ミュージアムショップなども開設しました。

もちろん展示図録も製作しました。

同じ場所に立って絵を描くワークショップやギャラリートーク、フィールドワークなども行いました。

1日限りでしたが、松並木を植えたりもしました。※怒られました。

この展示会は、地元の歴史は地元の人に一番知ってもらいたいというコンセプトで行いました。地域の人は地域の歴史をあまり知らないことが多く、知っていても見える形での共有ができなかったりするので、今回の展示はそのような意味でもとても良かったと思います。


糸島と黒田官兵衛

来年の大河ドラマは、福岡にゆかりのある黒田官兵衛です。
おそらくドラマの80%近くが播州での話しになるでしょうね。福岡はどちらかというと息子の長政の代になってからの舞台ですから、福岡で官兵衛とゆかりのある場所は、如水の住まいがあった福岡城御鷹屋敷と福岡城が完成するまで住んでいた太宰府天満宮境内くらいでしょうか。
最近、糸島と黒田官兵衛の関係するところはないか?とよく聞かれます。しかし、関係する場所はほとんどなく、江戸時代に入ってからの場所くらいしかありません。たとえば黒田家のお家騒動に関係する櫻井神社とか、黒田二十四騎の1人で怡土志摩の代官であった菅和泉守に関係する飯氏や泉川、黒田長政の息子である甚四郎政冬が、秋月や東蓮寺と同じように怡土郡の内1万石を分地されて支藩を創設するはずだったが、早くに亡くなってしまったため、支藩はできなかった。などいずれも官兵衛とは直接関係ないものばかりです。

今回紹介する『黒田家譜』の中の内容も、官兵衛は直接関わっていませんが、家臣で二十四騎の1人久野四兵衛が糸島の高祖にあった原田氏の居城高祖城攻めの際、一番駆を果たし、原田氏は秀吉軍に肝をつぶして無血開城するお話です。

原田氏の居城 高祖城

原田五郎右衛門尉信種は、筑前怡土郡高祖の城に在りて秀吉公に従わず。小早川隆景彼を討たんために、その手の兵を卒し、高祖の城に向かわれける。孝高よりも目付として家臣久野四兵衛等を相添らる。原田はいなか士なれば、近郡の城持と小攻合に度々利を得たる事を自満し、人敷千二千を大軍と思い、秀吉公の武威の盛なることを知らず、上方の軍兵たとえ大勢なりというも、公家長袖のごとくならんには、何程の事かあらんと思い侮って、先高祖の前なる大門河原に出で勢揃いぞしける。その形勢ちぎれたる鎧を着、縄手綱かけたる馬に乗たる士敷十騎には過ず。上方勢の攻め来るを待居たり。寄手の兵早良郡より日向山を打越、高祖を指て押来る。原田が兵是を見て、案の外なる大軍なれば、対揚し難く思い、先籠城して薩摩方の後詰をも待べしとて城内へぞ引入れける。かくて隆景の勢城下まで押寄けるに、鴾毛の馬に乗たる武者一番に城下に乗付たり。隆景はるかに見て、あれは誰ぞの問い給うに、孝高の家人久野四郎兵衛なりと答ふ。然るに原田は本丸の上より東の方を見渡せば、敵猶も寄来ると見えて、博多の西早良郡より城の麓まで三四里の間、大勢つづき旗指物馬物のきらめき渡るを見て、肝を消し評議にも及ばず降参を乞ければ、城攻はなくしてやみぬ。隆景より此事秀吉公へ言上せられしかば、秀吉公より輝元・吉川・小早川に賜る十二月廿日の御書の内に、黒田勘解由家人久野四兵衛、筑前国高祖原田居城の一番乗の事聞召たる由御感ありける。

原田軍の形勢は、「ちぎれた鎧を着て縄手綱をかけた馬に乗った侍が十騎ばかりほど」と田舎侍を強調すべく残念な書かれようです。

高祖城本丸より見た大門河原 


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