今年、地元の雷山公民館でお話しする機会をいただきました。話の内容は、「雷山校区は何藩だった?」ということで、近世の藩境の話をさせていただきました。雷山校区があった場所は、江戸時代、福岡藩、中津藩、幕府領の藩が複雑に入り組んでいた地域で、境を示した領境石も多く残っています。
雷山小学校の校庭内に移設された領境石
このブログでも以前福岡藩の家老吉田氏が御境目検分に行った事を書きました。
校区の人たちは、自分は現在何藩があった場所に住んでいるのか?こういうふうに分かれていた
など初めて聞く話ばかりだったそうです。この時に作成したのが下の図です。江戸時代を通していく度も支配領域が変わったので、その変遷を図に表しました。
戦国時代の糸島は、蒙古襲来の恩賞として志摩郡一帯を与えられた大友氏と怡土郡をその領地としていた原田氏(大内氏の配下になったり竜造寺氏の配下になったりした)が割拠していましたが、天正14年に豊臣秀吉が九州征伐によって領地没収され、糸島のほぼ全域が豊臣家の領地になりました。その後、筑前1国を賜った小早川隆景の領地になりましたが、博多は公領のままで、小早川氏が居城とした名島城のすぐ近くに公領があってはやりにくいということで、怡土郡西部と交換して、怡土郡西部が公領、東部が小早川領という形に成りました。その後、黒田長政が筑前1国の国主となりましたが、あいかわらず怡土郡西部は公領のままで、その後、分割されて譜代大名の飛び地として支配されて明治に至りました。
雷山小学校の校庭内に移設された領境石
このブログでも以前福岡藩の家老吉田氏が御境目検分に行った事を書きました。
校区の人たちは、自分は現在何藩があった場所に住んでいるのか?こういうふうに分かれていた
など初めて聞く話ばかりだったそうです。この時に作成したのが下の図です。江戸時代を通していく度も支配領域が変わったので、その変遷を図に表しました。
戦国時代の糸島は、蒙古襲来の恩賞として志摩郡一帯を与えられた大友氏と怡土郡をその領地としていた原田氏(大内氏の配下になったり竜造寺氏の配下になったりした)が割拠していましたが、天正14年に豊臣秀吉が九州征伐によって領地没収され、糸島のほぼ全域が豊臣家の領地になりました。その後、筑前1国を賜った小早川隆景の領地になりましたが、博多は公領のままで、小早川氏が居城とした名島城のすぐ近くに公領があってはやりにくいということで、怡土郡西部と交換して、怡土郡西部が公領、東部が小早川領という形に成りました。その後、黒田長政が筑前1国の国主となりましたが、あいかわらず怡土郡西部は公領のままで、その後、分割されて譜代大名の飛び地として支配されて明治に至りました。