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  • 2016.10.30 Sunday
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脇山御境目奉行の役宅を探す

江戸時代、領地の境目は紛争の引き金になりやすい箇所で、日本全国いろいろなところで領地境でもめています。今でも自分の家と隣のお宅の敷地に関するトラブルは良く聞く話です。筑前福岡藩領でも、元禄の頃に佐賀藩と背振山で領地境争いが起こり、結局福岡藩は負けて脊振山の山頂は佐賀藩の領地となりました。以前もこのブログで書いたことがありますが、このように、境目を常に監視し、隣接する他藩との紛争を回避することはとても重要なことでした。福岡藩では、主要な藩境には御境目奉行という役人を置いて境目を管理していました。御境目奉行の役宅が置かれたのは、小石原、埋金、脇山、甘木、それと御茶屋奉行も兼任する前原、原田、黒崎でした。



九州大学が所蔵する三奈木黒田家文書の中に「郡方覚」という文化九(1812)年における藩内の役人を記した名簿があります。この中には御境目奉行として、那珂郡埋金に河嶋傳七郎(350石)、夜須郡甘木に岸原権右衛門(150石)、早良郡脇山に高畠利兵衛(120石)、上座郡小石原に八木又平(200石)とあり、いずれも馬廻組という中級藩士が駐在しました。これら御境目奉行には、現地採用の下役人がおり、埋金には川崎佐内(三人扶持六石)、甘木には宗官長次郎(三人扶持六石)、脇山は当時欠員、小石原には栗原勇次(三人扶持七石)という人物が勤務していました。

九州歴史資料館には、御境目奉行役宅の間取図を描いたものがあり、その中に脇山御境目奉行役宅の間取図がありました。二間の表門が描かれ、門を潜ると、四畳の玄関に十畳の座敷と八畳の次の間(以上が御用の間)があり、奥には台所や居間など奉行の居住スペースとなっています。この間取りは、他の御茶屋奉行や御境目奉行の役宅も同じような間取りとなっていました。現在でいうところの駐在所と同じニュアンスです。
さて、この役宅がどこにあったのだろうと思い、福岡市早良区の早良高校の近くにある脇山公民館に訪ねてみましたが分かりませんでした、しかし、しばらく後に脇山に住む石津司さんという郷土史家の方が、その場所を知っているというので案内してもらうことになりました。石津さんは、高校の数学教師として教鞭をとられた後、生まれ育った早良地方の史跡や伝承に興味を持ち「安楽平城物語」という本を出されている現場主義の郷土史家です。

御境目奉行の職務が国境の監視が主な仕事なので、肥前国境に近い場所だろうと思っていましたが、以外にセブンミリオンというゴルフ場の入り口付近のある野田という集落でした。石津さんは、『平賀義美先生』(非売品)という本を持っておられ、その本に福岡に在住し、かつて福岡藩の城代組という下級藩士であった石松家から平賀家という同じく福岡藩の無足組という下級藩士の家に養子に行った人物がおり、その子孫が、明治初年に御境目奉行役宅を拝借して住んでいた家を大正14年に踏査しに来たことが書いてあったので調べたとのこと。

その本(非売品)には次のように記されています。
「当時より68年後の大正14年の初夏に、先生は夫人及び親戚の木村成太郎氏を始め、その他の人達を伴いて、往時の思い出に誕生地を踏査された。一行は脇山に着くと、それぞれ手分けをして「昔、石松という侍の住んでいた屋敷跡は何処か」とか、或いは「昔、永田国境奉行の山荘のあった所は何処か」と、軒別に村の農家を訪ね廻ったが、何分にも六十余年という遠い過去の事であるから、どこの家でも言い合わせたように、皆「知らぬ存ぜぬ」との返事で取りつく島もない。しかし、幸いにも菊次郎と呼ぶ七十歳の古老に依って、その屋敷跡と云うのを教えてもらった。その処は菊次郎の家の横手からダラダラ坂を百歩許り登りて、山に突き当たった右手にある七八十坪の平地で、案内の菊次郎はそれを指して、「ここが石松さんの家の跡じゃ」と言ったが、見れば柱石一つ残っておらず、只一面の蜜柑畑で、何一つ根拠となすべきものはない。やがて、同行の木村氏は「ここが果して石松家の屋敷跡ならば、背後の山に墓石が二基ある筈である。母から毎日そこで子供を遊ばせていたとの話を度々耳にしたことがあるから」と言って、二十級ばかりの小さき階段を駆け上って高地を探されたところ、芝生の中央に、自然石の墓碑と其の傍に小墳とを発見した。先生一行は、同所に到り見るに、大なる方には明らかに「永田直方入道露草居士」と鐫刻されてあったので、今は疑を挟む余地もなく、のみならず、木村氏が同じく母方自ら聞かされたという当年の泉水も、その付近に僅かながら見出すことが出来た上に、石津幸助と呼ぶ八十三歳の古老から、彼が先生の次兄と遊び友達であったことや、石松家にはかめ子さんという娘も辰さんと呼ぶ末っ子のあったことも、又彼の兄が毎年所産の栗や柿を持って庄の石松家へ挨拶に行ったことまで詳しく話されたので、先生は完全に誕生地踏査の目的を遂げられた」

先生と呼ばれる人物が誕生し1〜2歳の頃まで住んでいた御境目奉行の役宅を探しにきた事が書かれています。脇山に在宅していた福岡藩城代組の石松源次は、永田弥次郎直方という国境奉行(御境目奉行)より役宅を提供され、しばらくそこに住んでいたようで、その家で生誕したのが、先生と呼ばれる人物です。先生は、その後旧藩士で無足組の平賀家に養子に入り、福岡藩の貢進生としてボストンに学び、化学を学び明治・大正の応用科学者となる平賀義美(註1)の事です。また、文中に出てくる古老の菊次郎は安政元(1855)年の生まれ、石津幸助は天保13(1842)年の生まれであるから、当然子供のころに石松家となっていた役宅に出入りした可能性があります。今回、案内していた石津さんは、この石津幸助の子孫にあたるそうです。石津さんに案内されて言った場所には、文中にあった墓碑があり、「永田直方入道露草居士」と刻まれていました。

御境目奉行の役宅があった場所は、現在、竹が生い茂っており背振山を望むことが出来ませんでしたが、おそらくこの場所に脊振山を望むように間取り図のような役宅が建っていたと思われます。

昔の建物跡を探すのはなかなか困難なので、このように地元で伝承されている事などはとても大切です。甘木、小石原、脇山の御境目奉行役宅の場所はほぼその位置を特定することができました。のこるは那珂川町の埋金のみです。

役宅付近からは、肥前国境の背振山がこのように見えます。


(註1)平賀義美
初名は石松决(いしまつ さだむ)福岡藩城代組の藩士(十石三人扶持)の石松家に生まれ、無足組の平賀家(十四石三人扶持)に養子に入り磯三郎と名乗る。平賀義質の斡旋により、慶応三(1867)年、11歳にして長崎に出て英学を修め、明治三(1870)年、14歳で福岡藩の貢進生となって大学南校に入学した。 ここで外国教師の化学実験に感動して、化学を志すようになった。明治11(1878)年、東京帝国大学理学部卒業。当時、旧福岡藩主の黒田長溥は廃藩置県後も、旧福岡藩士出身で東京帝国大学卒業者を対象に、個人的な資金援助を行って欧米留学生として派遣していた。 義美が大学で研究していた「科学染料による染色法」の経験が見込まれ、黒田の給費でイギリスに留学させてもらい、オーエンス大学に入学、染色術を専攻した。また実際的工業を修めた。 明治14(1881)年に帰国し、東京職工学校(東京工業大学)東京大学教授、農商務省技師となる。翌15(1882)年、平賀義質と長男の急死に伴い、義質の長女の婿養子となり家督を継いだ。これを期に名前を平賀義美と改名。この頃の日本は好景気に湧いていたこともあり、留学で得た染色術を繊維業界からの講習依頼が殺到したため、全国行脚を行った。 大阪商品陳列所所長、大阪織物会社を設立し社長になるなど歴任。教育面でも関西商工学校創立に参加、明治専門学校創立以来の協議員などを歴任するなど尽力した。また『日本工業教育論』を著すなど、工業学の普及に努め、日本で初めて工学博士となった。 人造真珠工業は、光珠商であり貿易商であった大井徳次郎がフランス製品を入手し、その研究を義美に依頼したことに始まったといわれる。このように明治・大正期の商工業界に多大の貢献をなした。
 

 


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