<< 脇山御境目奉行の役宅を探す | main | 今宿の追分石が倒れる >>

スポンサーサイト

  • 2016.10.30 Sunday
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


筑前国怡土郡 有田城跡

糸島郡内の各村には、戦国時代に、この地方で勢力を持っていた原田氏の旧臣を先祖に持つ家が多い。糸島市雷山校区にある有田地区には、高祖城主原田氏の家臣として有田氏(官職名:因幡守)という豪族がいたことが伝えられている。
有田村が記録に出てくるのは、周防国の大内氏の奉行である相良正任が記した日記「正任記」の中に、文明十三(1481)年、飯田次郎右衛門入道の所領であった怡土郡有田村七町のうち五町を吉賀江上上総介楼造法∋弔蠧鹹を御笠郡岩屋城の在城料として郡司鳥越越前守忠経に与えたと記され、室町時代後期の有田地区は飯田という人物の所領であった事が分かる。それから約50年後の享禄五(1532)年、に
木原盛連・箱田長安・眞島景盛の連署で怡土郡有田筋目居屋敷が有田源三郎という人物に与えられている。この有田源三郎という人物が次第に勢力を増し、戦国時代に原田氏の傘下に入るようになったと考えられる。天文二十四(1555)年、原田隆種が有田蔵丞の軍功を賞して二町地を宛行い、有田神五郎という人物を右近充に任じている。永禄八(1565)年には勢力を盛り返した原田隆種(了栄)が長年の苦労に対し、七反の地と居屋敷を有田彦七郎に与えて賞している。
また、江戸時代に有田村の庄屋であった有田家に伝わる文書によると、有田氏の自出は、平重盛の妻が原田種直に下され、その後に設けた男子が有田氏の祖であると伝えられ、嘉元三年(1306)、有田右衛門は、有田村に居城を構え、いつの頃からか有田殿と呼ばれるようになったという。永禄十年(1567)より天正十四年(1586)に至るまで、様々な合戦に原田軍の将として活躍し、特に、永禄11年(1568)の小金坂の合戦では、有田因幡守宗良に抜群の戦功があり、原田家から感状その他で賞されている。ちなみに、糸島には二丈波呂村に有田姓があるが、同村に居住していた有田市佐は、原田家惣政所を司り郡吏を兼帯していたという。

その居城である有田城は、原田氏が勢力を持った怡土郡東部平野の入口守る要害の地であり、高祖城と対面する位置にあったため重要な城であったと考えられる。江戸時代に編纂された『筑前國続風土記』には、「有田村古城、城主は郡士有田因幡守住せりと伝へたり」と記されており、昭和初期の編纂である『糸島郡誌』には「大字有田の原口の南より大字富に出る小路の上に小山あり、是郡士有田因幡守住せし処と伝えたり」と記されている。古記録によると、城跡は「茅山」「とんの山」と呼ばれていたという。現在、はっりとした場所は不明であるが、神社の裏手にある標高56.2の場所ではないかと思ってたが、神社のすぐ西北にある有田一号墳がそうではないかと考えられる。

明治35年の地図 有田村の左手に小高い山がある。有田村の鎮守熊野神社が鎮座する山であるが、ここに有田城があったと推定している。

有田村の鎮守である熊野神社。この神社は、文明年間の創設と伝えられ、「天文元年壬辰戴十二月二十三日石橋坊源正員」という棟札をはじめ「永禄十二年十九日大檀那大蔵朝臣隆種建立願主権律師朝威奉行大神朝臣正次」「再興天正十二年二月二十三日大檀那大藏朝臣原田隆種建立願主権立師朝威奉行源朝臣進」「在城無難」など原田家に関係の深い棟札が上がる。棟札により、天文元年には神社は存在し、永禄十二年に原田了栄が建立し、天正十二年に再建させた由緒を持つ原田家の信仰の厚い神社であることがわかる。

原田家隆盛の頃は祭礼も盛んで前原の海岸まで神幸があっていたという。現在、前原商店街にある旧家の敷地内には、熊野権現の神幸が行われていた事を示す権現潮井場の石碑が残っている。


この山の周辺を見下ろす高台には古墳がある。有田城は、これを利用したのではないかと考えられる。江戸時代の記録に、「御社の乾の方に当りてたかき地に古へ御幸に用ひし物納めたる後と云伝へて今も里人其虚はいたくかしこみて汚し物せぬとなむ」とあり。当時、鏑流馬や神幸に用いた品を埋めた所が神社の西北百メートルにあり、神聖な地として汚れないようにしていると記されている。神社の乾は、まさにこの古墳のある場所なので、古くから重要な場所としていたと考えられる。
現在の有田1号墳の様子。古墳時代前期の前方後円墳で約30mの大きさがある。有田村やその東部に広がる平野を見下ろす場所に造られており、古代から有力な人物がいたことを思わせる。 現在は削られてなくなっているが、社殿の南側にも方墳が2基確認されている。記録がないのであくまで推測であるが、熊野神社の上宮はこの古墳の墳丘の上にあり、その後下に降ろされたのではないかと考えられる。そして、かつて上宮のあった場所は神物理地として汚れないようにとの伝承が残ったのではないかと考えられる。




有田城推定地は、熊野神社の裏手西北に位置し、有田村の東側に広がる平野や原田氏の居城高祖城を望むことができる。

現在は神社の南側と北側は、昭和50年代に公園化や宅地化のため削られてているが、以前はうっそうと生い茂る山であった。現在社殿がある場所も、山を削って建てられおり、鳥居などの年号からおそらく神社一帯が整備された明治30年代頃に削られたと考えられる。


原田氏の居城高祖城からは、有田村がこのように望める。有田因幡守は『高祖侍名籍』に記される幕下国士十二人衆の1人に数えられ、高祖城の有力支城として有田城が存在していた。

現在、有田地区で家紋を調査したら図のようになった。図の右側を占めるのが、引き両紋の有田家。左側を占めるのが丸に竹の有田家である。有田村は近世は幕府領を経て豊前中津領であった。有田村の中心に位置し近世庄屋であった有田家は後者の紋を使用している。また、引き両紋は、原田家の家紋でもある。
永正八(1511)年、原田興種は、船岡山合戦にて大内義興軍に参陣し、足利義稙より感状と三引両紋の使用を許されている。
 
有田氏略年表

享禄五年(1532)

怡土郡有田筋目居屋敷を、大内氏重臣が有田源三郎に与える。(註1)

 

天文二十四年(1555

原田隆種が有田蔵丞の軍功を賞して二町地を宛行う。(註2)

同年有田神五郎を右近充に任じる。(註3)
 

弘治元年(1555)  

安芸の毛利元就が厳島において陶氏と戦ったとき、原田隆種は毛利軍に参加して毛利氏の勝利に貢献した。この時、有田内蔵充京直が大いに働きを賞された。
 

永禄八年(1565)  

勢力を盛り返した原田隆種(了栄)が長年の苦労に対し、少しではあるがと七反の地と居屋敷を有田彦七郎に与えて賞している。(註4)(註5)
 

永禄十年(1567)曽根原の対陣 

肥前の竜造寺隆信の侵入で、原田了栄は曽根原で対陣し、志摩郡の臼杵氏抑えのため、高祖城の留守番役に有田因幡守(正員)中島・大原・鬼木らを残した。
 

永禄十一年(1568)小金坂の戦い

志摩郡政所臼杵新介は高祖城を攻めるため高祖の麓にある小金坂に進軍。原田軍は兵を二手に分けて挟撃し、臼杵新助は柑岳城に退却した。この戦いで、抜群の戦功のあった有田因幡守宗良は、原田家から感状その他で賞された。
 

元亀元年(1596

原田隆種(了栄)家臣に有田因幡守・有田瀬左衛門
 

元亀三年(1572)池田河原の合戦

臼杵進士兵衛鎮氏が、待ち伏せして原田了栄に斬りかかったため、同二十八日に池田川原で戦をし、有田因幡守が精兵として出陣している
 

天正七年(1579)第二次生松原合戦

戸次道雪・高橋紹運・志賀道輝が高祖城を攻めようとした時、原田藤種は有田因幡守を将とし、太田・三坂・西・西郷に四百余人を従えて日向峠に布陣。退却を装った小田部軍に誘われ山門鉢の窪を経て姪浜に及ぶところを有田因幡守が原田藤種に警告した。
 

天正七年(1579) 

第二次生松合戦の恩賞として原田了栄は志摩郡のうち一町を有田彦七郎に与えている。(註6)(註7)
 

天正十二年(1584)鹿家合戦

3月祝儀として高祖城に来た肥前岸岳の城主、波多信時の弟時実は饗応中、笠笠大炊勘助と口論になり、波多が怒って刺し殺そうとする所を有田因幡守・鬼木・深江らがなだめて帰らせた。その後波多氏は三千の兵をもって、浜崎に軍を進め、吉井浜に本陣を置き、原田信種は先手として有田因幡守らを出陣させ鹿家峠付近で波多ら一千余人と戦う。
 

天正十三年(1585

原田了栄・原田信種から有田小太郎に師吉之内弐町八段、有田村之内四段、山北村之内 八段、橋本村之内九段が与えられた。註8
 

天正十四年(1586)岩屋城攻め

原田信種が、島津氏の命で岩屋城の高橋紹運を攻めた時に有田因幡守宗良が手柄をたてた。
 

天正十四年(1586)高祖城落城

豊臣秀吉が九州平定の軍をおこすと、原田軍は高祖城に籠もり、秀吉軍と対決しようとした。有田右衛門は油坂に布陣したが、軍は総崩れとなり搦手の陣所上ノ原に退却した。
 

天正十四年(1586)高祖城退去

高祖城退去の折りは、有田右衛門尉は信種に随行して城を後にした。
 

天正十四年(1586)朝鮮出兵

秀吉が朝鮮出兵した折りに原田信種は、二番団の加藤清正の部将として渡船しており、共に有田右衛門丞と有田惣四郎が出兵している

(註1)享禄五年九月二十一日 有田源三郎宛 木原盛連・箱田長安・眞島景盛連署打渡状

(註2)天文二十四年十二月九日 有田藏充宛 原田隆種宛行状

(註3)天文二十四年十二月十三日 有田神五郎宛 原田隆種官途状
註4)永禄五年九月十日 藤原鎮永書状…有田彦七郎宛

註5)永禄八年二月二十八日 留守宮内少輔鎮信安堵状…有田彦七郎宛

註6)天正七年十月八日 原田了栄宛行状…有田彦七郎宛

(註7)天正七年十月□日 深江種周・松隈種正・原田種秀連署坪付…有田彦七郎宛

(註8)天正十三年閏八月十七日 富田家茂・深江種周・友枝宗益連署坪付…有田小太郎宛


スポンサーサイト

  • 2016.10.30 Sunday
  • -
  • 10:56
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

コメント
コメントする









calendar
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< March 2017 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
recent comment
recommend
recommend
recommend
recommend
福岡地方史研究 第49号
福岡地方史研究 第49号 (JUGEMレビュー »)

福岡藩主の前原宿泊を所収しています
recommend
recommend
recommend
recommend
recommend
福岡地方史研究 47号
福岡地方史研究 47号 (JUGEMレビュー »)

唐津藩主の前原宿泊を所収しています
recommend
福岡地方史研究〈45〉
福岡地方史研究〈45〉 (JUGEMレビュー »)
福岡地方史研究会
福岡藩旅籠屋屋号帳を所収しています。
recommend
福岡地方史研究〈46〉
福岡地方史研究〈46〉 (JUGEMレビュー »)

福岡藩主のおもてなし作法を所収しています。
recommend
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM