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福岡藩主の参勤発駕儀礼 首途(かどで)

 福岡藩主が参勤のために江戸へ向かう際、「首途(かどで)」と称して筆頭家老の三奈木黒田家の屋敷に御成(藩主が家臣の屋敷を訪問すること)することが慣例となっていた。
 参勤交代は、徒歩で長い距離を歩くので、道中の無事を祈って、各藩でも出発の際には様々な儀礼が行われていた。
 首途が、いつごろから行われていたのかについては、『黒田家譜』に「光之(三代藩主)参勤の前吉日を選び三左衛門が宅に入りて首途を祝い給う事恒例なり。(中略)これ、忠之(二代藩主)の時よりの恒例にて、代々の国主参勤の度々並嫡子参勤の時も三左衛門が家にて首途を祝い給う事、今に到りて此の例変わる事なし」と、二代藩主忠之の頃から行われていたと記される。二代藩主、忠之の頃には、福岡藩の御家騒動である「黒田騒動」が起こり、筆頭家老であった栗山大膳が黒田家を出ることになり、続いて母里や井上といった播磨以来の大身と呼ばれる家臣も次々に断絶した頃で、三奈木黒田家は、その頃より、筆頭家老として藩政に深く関わることになっていった。よって、首途もその頃から行われるようになったのではないかと考えられる。


〈三奈木黒田家について〉
 三奈木黒田家は、本姓を加藤といい、福岡藩の藩祖黒田官兵衛が、荒木村重の籠城する有岡城へ単身赴いた際、地下牢に閉じ込められてしまう。その時に、牢番をしていた加藤又左衛門という人物が官兵衛をよく世話をしたので、官兵衛は、有岡城落城後、又左衛門の子を預かり、息子長政と共に育てた。筑前入国後は下座郡1万石を預かり、黒田の姓を名乗る事を許された。黒田騒動後に、母里家が断絶すると、それまで城内三の丸の福岡城の正門である上の橋御門に隣接した母里家の屋敷跡に入り、幕末まで筆頭家老として続いた家である。
 三奈木黒田家には、首途に関する文書が多く保存してあり、今回これらをもとに、首途の動線を考えてみたいとおもう。
参勤の時期が決定すると、御用人と御納戸頭が主となって、参勤に随行する藩士や参勤に関わる儀式などを決めていく。その際、三奈木黒田家からは「首途御成御次第書」「御首途御成御給仕附」「御目見被仰付候一族名附」などを提出して、首途の日程や次第、給仕の者などを確認してもらう。「首途」は、おおよそ参勤の1ヶ月前後に行われており、福岡藩の参勤は、長崎警備の関係から、異国船が帰帆する9月まで在国して備えるよう幕府よりの命を受けており、10月に参勤して2月に帰国となっていたため、9月初旬頃に行われていた。

〈首途の御成〉  
 さて、首途の当日、藩主が居住する御殿に出殿した三奈木黒田家の当主黒田美作(三奈木黒田家では、通称を三左衛門や美作、播磨を名乗る)は、藩主の御座間に於いて御旅中安全の御札守に御肴(御熨斗鮑)を添えて献上する。御座間では、家老や御用人、御納戸頭、御小姓頭など参勤に随行する藩士らが並び祝儀を述べ、美作は、藩主出迎えのためにすぐに退出する。
 三奈木黒田家の屋敷では、藩主出駕の注進があると、美作は屋敷の御成門外に出迎える。藩主は、御殿の御居間より出駕し、表御門を通り、三の丸の家老屋敷の前を通って三奈木黒田家の屋敷前に到着する。
 藩主が居住した御殿は、初代藩主長政の頃は本丸御殿に住んでいたが、二代忠之に頃に三の丸に新しく御殿を造営し、三代光之の頃に城の北西にあたる場所に新たに御殿を造営して、幕末まで藩主の居館となった。

出迎えの作法
 三奈木黒田家の御成門前には美作が出迎え、藩主が下乗すると先立して屋敷に案内する。その際、三奈木黒田家の一族は、書院前庭の白砂に出迎え、藩主が御成座敷玄関まで来ると、先番の奥頭取が先立ちして、藩主を御成座敷上段まで案内し着座する。美作の嫡子も、美作と同様に御成門外まで出迎え、玄関前の中門際まで藩主の後を付き従う。
 三奈木黒田家の御成座敷は、南面する表通りの西側に御成門を設け、門を潜ると線をずらして玄関を設ける。途中、表門前庭は、通り部分に砂利が敷かれ、玄関前は二間四方の塀で囲み、中門を潜って玄関へと入った。御成座敷は、二畳の小さい玄関と、十四畳の次の間と九畳の上段で構成される。上段は床の間と書院を横にし、藩主は、縁側を背に着座したと考えられる。 

首途の饗応
 藩主が着座すると、美作はすぐに御熨斗鮑を献上し、それが御納戸によって引かれると、座敷の床の間にこれを飾る。その後、御茶、御煙草盆を出し、美作自ら御雑煮を出す。(以後美作は御相伴を勤める)
三献が終わると、美作一族と妻等への御目見があり、美作とその嫡子に藩主が御意をのべて退出する。退出の時も、三奈木黒田家の一族は書院前庭の白砂に罷り出、出迎え時と同じように美作が先立し、嫡子が藩主の後ろに付き従い、御成門外まで見送る。藩主が御殿に戻ると、美作は首途の御礼として出殿し、御肴と安泰の御札守を差し上げる。

鞭と笠の受け渡し
 また、首途の行列には、御槍奉行と御馬方が随行している。御槍奉行は、藩主が参勤の道中に使用する笠を預かり、御馬方は同じく参勤の道中使用する鞭を預かっている。首途の御成の際には、この笠と鞭を持って三奈木黒田家の屋敷に向かう。藩主の行列の後ろから、御槍方小頭が草履取を伴って笠を持ち、御馬方小頭が草履取を伴って鞭を持って随行する。御槍奉行と御馬方は、藩主らと共に御成門から屋敷内に入るが、笠と鞭を持つ両小頭と草履取は、表門から入り、両草履取は玄関切縁にて両小頭に笠と鞭を渡し、玄関式台の箱段の上の板敷で、先に到着していた御槍奉行と御馬方が出迎えてそれを受け取る。そして、その場で美作の取次の者に渡す。

〈参勤時の首途御成〉
本丸での参拝
 首途の御成よりほぼ一月経ち、いよいよ藩主が国許を出発する日がきた。参勤当日、藩主は御殿にて発駕の祝いを行った後に発駕する。参勤供の藩士の人数は、おおよそ60名程で、藩主は御用人と御納戸頭、奥頭取を伴い、本丸に上り、藩祖如水と長政を祀った水鏡権現、聖権現に参拝後に本丸で熨斗鮑を上げて祝い、二の丸を通って三の丸に下り、三奈木黒田家の門前で下乗する。(水鏡権現、聖権現は、黒田家の血筋を自分の代で絶やすことになった六代継高が、天守台東側に創建した如水と長政を祀る社で、安永二(1773)年に祀られ、その後、長政を祀る聖権現が合祀された。明治になり、福岡藩主が東京に移住したので、荒戸の光雲神社に移った。発駕前に本丸に上る行為は明和以降と考えられる)

三奈木黒田家屋敷に立ち寄る
 門前には、首途御成と同じように美作が出迎え案内する。藩主が着座すると、美作が自ら御熨斗鮑を上げ、給仕が御煙草盆、御茶、御菓子を出して、藩主からも美作をはじめ、参勤に随行する家老、御用人、御納戸頭、御小姓頭などに切熨斗鮑を出す。その後、御用人より随行の藩士らの披露があり、随行の藩士は書院縁側にて切熨斗鮑を受ける。
 この時、御槍奉行と御馬方は、三奈木黒田家の玄関において、首途の時に預けておいた笠と鞭を美作の取次役より受け取る。
以上の事が終わると藩主は退出するが、出迎え時と同じく、一族は書院前白砂に罷り出、美作は御成門外まで見送る。

松原でお見送り  
 藩主は、福岡城の正門である上の橋門を通り、六町筋を通って箱崎松原へ向かう。箱崎松原は、福岡藩主の出発、帰国共に藩士をはじめ御目見を許された庄屋や町人が並んで送迎する場所で、美作は、藩主の出発を見計らって上の橋門を通り、町裏を通って箱崎松原に先回りする。福岡藩の菩提寺である崇福寺より馬出口まで主な藩士や秋月藩の名代などが並び、藩主は崇福寺前で下乗し、しばらく歩いて藩士らに声をかけ、駕籠に乗って箱崎御茶屋まで行く。そこで旅装束に着替えて箱崎八幡のお札を受けて出発した。
 

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