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幻の福岡三支藩 井原藩と前原御茶屋

  福岡藩初代藩主黒田長政には息子が四人いた。一人は福岡藩二代藩主となる忠之、もう一人は支藩の秋月藩初代となる長興、さらにもう一人は東蓮寺藩の初代藩主となる高政である。そして、地元の豪族筑紫廣門の娘との間に設けた子が、黒田甚四郎政冬である。忠之とは三歳違いの弟なので長政にとって次男である。
 政冬は、慶長十(1605)年に福岡城内で生まれ、幼名を徳松といい、将軍秀忠の近臣として仕えていたが、初代藩主長政により福岡へ返され「政冬には、怡土・志摩二郡内で、船着場以外の場所に知行八千石を与えよ」という長政の遺言によって、元和九(1623)年に怡土郡内で一万石が与えられ、怡土郡内の井原(いわら)村に屋敷を構えた。
金龍寺にある政冬の墓
                                       
〈井原村について〉
井原村は、貝原益軒の『筑前国続風土記』に「郡中第一の廣村にして、膏膄の地なり・・・国中第一の上田とす。民家は多く巷をなして町の如し」と記されるような村である。その歴史を遡れば、古代伊都国の王都があった場所でもあり、付近にある三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡は伊都国王の王墓とされ、古くからこの一帯の中心的な場所として認識されていた場所でもあった。また、この一帯は、怡土郡内でも最大の平野で、東には高祖古城、西には曽根丘陵、南には井原山を最高峰とする脊振山地が肥前との国境となり、怡土平野を流れる瑞梅寺川と川原川に挟まれた天然の要害の地であった。

住吉神社

井原下町より上町方面を望む

筑前名所図会より井原部分

〈政冬の屋敷〉
 井原村内で政冬が屋敷としたのは、手塚水雪が住んでいた場所であった。手塚水雪(手塚孫太夫元直)は古譜代(中津時代に仕官した家臣)の家臣で、慶長六年に怡土郡内で三千石が与えられて井原村に居住したが、慶長11(1606)年より豊前国境の六端城の一つ鷹取城を預かるようになる(嘉麻郡大隈城を預かっていた後藤又兵衛が逐電した後、大隈城には鷹取城を預かっていた母里但馬が移り、鷹取城には手塚水雪が入る)その後、元和の一国一城令(1615)によって鷹取城は廃城となり、手塚水雪は再び井原村に住んだと思われる。しかし、手塚水雪は元和六(1620)年に死去し高祖金龍寺に葬られ、その後、政冬がその屋敷に入ったと思われる。
 また、井原村の東に位置する高祖山は、かつての国人領主原田氏の居城であり、井原村内どこからでも高祖山全体を見通すことができるため、高祖城に対して求心性を意識していたことが伺える。政冬の知行地660石を抱えていた板持村の朱雀家の記録には「甚四郎様高祖に御在城」とあり、居村する家臣らは高祖古城を預かっているという意識があったようだ。
 黒田氏が筑前入国した際、豊前国境に六端城を築いて境目の抑えとしたが、元和の一国一城令(1615)により、六端城が破却された。その後、かつての主要な古城の近くに支藩という形で兵を駐屯させ新たな国境の抑えとしたと思われる。秋月氏の古処山城に秋月藩(元和九年(1623)や直方の鷹取城に東蓮寺藩がそれで、原田氏の高祖城にも井原藩を創設し、福岡藩領を東、南、西で押さえようと考えていたのであろうか。しかし、政冬も寛永二(1625)年3月11日、疱瘡を患い二十一歳で没し、高祖村金龍寺に葬られた。

井原から見た高祖山
 
〈政冬の屋敷は今どこに?〉
 さて、政冬が居住した場所は、井原村のどこにあったのだろうか?その手がかりの一つとして『筑前国続風土記拾遺』には、その位置が記されている。それは「上村の南にあり。黒田甚四郎政冬の居館の址なり。東西三十間、南北四十一間あり、其已前は興雲公(初代長政)の臣手塚水雪が居宅の地なりしが」であった。さらに、現在でも、井原住吉宮に隣接する北側に「茶屋屋敷」という小字が残っている。また、井原村の町割りがどのような様子であったのか、明治初年に編纂された『福岡県地理全誌』には、本村(茶屋屋敷、上町、中町、下町、東横町、西横町81戸)、上鹿我子(14戸)、鹿我子(枝郷8戸)、上村(45戸)、松井(枝郷24戸)と記され、上村は町を含む本村とは区別されている。

〈井原村と前原御茶屋〉
 筑前国続風土記』には、「この村に邦君の別館有り、別館今はなし、里人曰く昔は別館有りし時、唐津の領主大久保氏、毎にこの地に遊狩ありて、この別館に寓し玉い由申し伝えと云。その後、別館を前原驛に移して之建てるとの云伝え也」と記され、『続風土記附録』には、「其已前は興雲公(初代長政)の臣手塚水雪が居宅の地なりしが、霊源公(4代綱政)の時更に御茶屋建給う。それより茶屋屋敷の名は起これりと伝ふ。この時、沢野伊右衛門その子吉太夫まで事を司りて在村す」とある。
 政冬が居住した館は、政冬の死後、街道の整備に伴って次第に整備されつつあった前原宿に移して御茶屋としたようだ。前原宿の成立について『筑前国続風土記附録』には「貞享年中舞嶽山の麓より民家を此処に移され宿駅となる。行館をも構へ給へり」と、宿場成立の年代が貞享年中(1680年頃)であると記される。一方、唐津領主大久保氏は、慶安二(1649)年より延宝六(1678)年まで唐津を領しており、前原宿ができる以前であるため、時代的にはほぼ一致する。
 また、その後四代藩主綱政の時に再度御茶屋を建てたことも記される。四代藩主綱政は、元禄元(1688)年より正徳元(1711)年までを藩主として在職し、元禄六(1693)年には高祖宮に鳥居を寄進したりと、怡土郡とはゆかりの深い殿様であった。綱政時代に存在した井原村の御茶屋については『筑前国続風土記』に元禄期に存在した御茶屋について19箇所を挙げるが、その中に井原の記載はなく、その他の記録にも井原御茶屋に関する記述は見当たらない。わずか数年間ほど存在していたのであろうか?

〈もともとの井原村の姿〉
 明治33年に日本陸軍が測量した地図がある。これを見てみると、付近にある三雲村や大門村、篠原村などの村と比べて、真っ直ぐな道や意図的に屈折した道が目立つ。さらに、井原の町名も上町、中町、下町など近世になって新しく町割りされたような町名を持ち、町内には寺が四つ(いずれも開基の時代詳ならず)も存在しているため、政冬が井原村に居住した際に町立された新しい町部分ではないだろうか。それに対して、上村と思われる部分には廃寺の跡が多く残り、村内の道は付近の村と同じような様子である。また、中屋敷や小路など中世から続く村によく使われている地名が残っているのも上村部分である。
そのように見ると、県道より南部分が、中世から続く井原村の姿であったと思えてくる。
 よって現在の井原村の姿は、政冬が1万石を与えられて村内に居住したため、商工業者が集まり、村の南側に町割が行われはじめたが、政冬の死によって幻の井原藩(秋月、東蓮寺も陣屋の所在した村名を藩名にしていることから井原藩が適当であろう)となってしまった。そういう意味では井原村は未完成の陣屋町と言ってもよいのかもしれない。また、前原宿の成立が、甚四郎政冬が立藩するはずであった井原藩によるものであったことも興味深い。 
※1万石程度なので支藩となっていたかは不明。下座郡三奈木村の黒田家の屋敷程度であったと思われる。

井原村復元図

〈参考文献〉
・福岡県史(通史編)
・新修志摩町史
・福岡藩分限帳集成

 


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  • 2018.06.14 Thursday
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