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蓮池陣屋〜佐賀蓮池鍋島家〜

 私が 大学の頃、KBC九州朝日放送の「九州街道ものがたり」を見ていたとき、「佐賀三支藩物語」という放送があった。それまで、佐賀には佐賀藩一つしかないと思っていたのに、小城、蓮池、鹿島という3つの小さな藩がある事を知り、それがどこに、どんな館を構えて存在していたのかがとても知りたくなって、いろいろと調べたことがあった。私は、どうも大きな城とか藩よりも、できるだけ小さくてコンパクトな城が好きみたいで、この支藩の城(館)にとても興味を持った。
支藩とは、大名分家の内、1万石以上を分知され将軍によって認められた藩をいう。主に本藩の補佐や血統保持の役割を果たした。佐賀三支藩はいずれも、佐賀本藩の領地朱印(35万石)に含まれていた。これを内分支藩と呼ぶ。内分支藩の他に、本藩とは別に領地朱印を交付されるものもあり、これは外分支藩と呼ばれて独立していた。福岡藩の支藩である秋月藩は、幕府から朱印状を受ける外分支藩であった。

佐賀藩には、本藩の他に小城藩7万石、鹿島藩2万石、蓮池藩5万石の三支藩があった。これらの創出は、鍋島家の主家であった龍造寺家が断絶したため、その家督を重臣であった鍋島直茂の子勝茂が相続するという稀なプロセスの藩である。そのため、龍造寺家臣団に対して三部上地(知行の30%を献じる)を行って蔵入地を拡大させ、龍造寺一門に対抗するべく鍋島一門の支藩を創設した。慶長14年に鹿島藩を創設し、元和3年に小城藩、そして寛永16年に蓮池藩を創設した。これらの三支藩は寛永19年から大名として扱われたため、佐賀藩内で参勤交代や公儀普請などを4つも行っているというかなりの負担を強いられ、支藩側も大名として扱われている以上、藩としての体面を保ちたいと思い、本家である佐賀本藩を超える場面も多くあった。

さて、三支藩の中で最も遅い設立の蓮池藩は、その陣屋を佐賀城より東へ5km程の場所にある蓮池に置いた。ここは、かつて常陸国より移り住んだ小田常陸介によって築かれた城跡で、その後、鍋島直茂・勝茂父子が整備して居城としていた。この頃には天守もあったといわれるが、その天守は、秀吉による朝鮮出兵の際に建てられた名護屋城の大手門櫓として移築したという。鍋島氏が佐賀藩主となった後、かつて龍造寺氏の居城であった村中城を改修して居城とし、さらに元和の一国一城令によって蓮池城は廃城となっていた。それから40年ほど経った承応三(1654)年、勝茂の三男である直澄は、廃城となっていた蓮池城を改修して陣屋とした。

現在、かつて陣屋の置かれた場所は、蓮池公園となっている。田園地帯のなかにある寂れた公園といった感じである。明治になって旧藩士らは職を失い各地へ転出した。そのため、陣屋の周りにあったと思われる武家屋敷もほとんどなく、その跡地は田んぼと化している。

明治になると、陣屋は県庁となって再利用されていたが、明治6年に消失し、明治10年に蓮池公園として整備され、旧藩主を祀る蓮池神社が造られた。

軒瓦には蓮池鍋島家の紋である花杏葉が使われている。

境内には築山・泉水があるが、おそらくこれは明治10年に公園化する際に造ったもので、藩主館の泉水を利用して造られた庭園であろう。昭和21年に写された『蓮池陣屋城略図』にはこの部分には泉水が描かれるが、築山はなく藩主の奥となっている。

かつて、蓮池城は、佐賀江川の蛇行した部分を利用して築かれていた。この部分を大曲・小曲といっていたが、現在は河川改修によって真っ直ぐになり、曲がった部分は埋め立てられている。陣屋の裏手に当たるこの川は、艤舟湾と呼ばれ、大船が接岸できるほどの深い場所であったといい、藩主が塩田(家臣の三部上地によって創出された蓮池藩は、その領地が藤津郡に多くあった)に行く場合は、ここから乗船して蓮池藩の主要港蒲田津まで行ったという。

さて、蓮池陣屋の構造はどのようになっていたのであろうか。
初代藩主直澄は、陣屋周辺を牙城・城内・郭内・郭外の4区画に分けた。牙城は御殿を置いた陣屋を指し、城内は陣屋を囲む上級家臣の屋敷があった方形区画を指す。郭内には魚町、本町、神埼町、城原町、紺屋町と呼ばれる町屋がL字に配置され、その外側にあたる西小路や北小路には武家屋敷や寺社地が置かれた。南と東側は、佐賀江川と中地江川が堀となる天然の要害であった。

現在、蓮池神社のある場所が藩主の御殿のあった場所であるが、明治10年の公園化によって御殿の範囲が分かりにくくなっている。蓮池神社の周りを堀が囲んでいるが、これは陣屋の遺構ではなく明治期に改修されたものである。かつて陣屋の北側には馬場があり、御殿と馬場を分けていた堀は現在埋め立てられているものの牙城と城内を分ける堀は現存しているため、陣屋の範囲はかなり広かったことが分かる。

陣屋の中心部であり、藩主の居住した御殿の内部構造については、昭和21年に写された「蓮池藩城略図」によっておおよそ知る事が出来る。現在、蓮池公園の入口付近にある城内会館の横には堀の残存がある。ここからが陣屋の内部となる。公園入口とほぼ同じ場所に表御門があり、門を入ると武器庫が二棟あり、十一間の間という大広間を中心に表とその東側は奥で構成される。御殿の北側には、渡り廊下を挟んで役所が設けられている。表御殿の東には堀を挟んで七代藩主直温の隠居所が建てられた。この館を東館と呼ぶのに対し、表御殿を西館と呼ばれていた。
弘化二(1845)年には、東館の廻りに八代藩主直興が天賜園という池泉回遊式庭園を造った。中地江川から水を引き、泉水を中心に枝分かれして水濠が巡り、各所に馬場や稽古場・茶等があった。春には梅が、夏には柳の美しい庭園であったといわれる。この天賜園にあったとされる八代直興が記した「帰田詩」の碑は、河川改修によって向こう岸となってしまった中ノ島の横に移動させられている。天賜園についての紹介を時々見るが、その場所を、現在の神社から川を挟んだ対岸としている。これは間違いで、かつて中ノ島という泉水であった場所がこの部分で、天賜園の場所は、現在東館の跡地に建てられている蓮池公民館の東側にあたる。しかし、この部分は現在畑となっており、その遺構は全く残っていない。佐賀県立博物館と蓮池魚町にある浄国寺に所蔵されている「天賜園総図」によってのみ見ることが出来る。

蓮池陣屋は、鹿島・小城に比べて、かつての城下町の雰囲気がほとんどない。武家屋敷の雰囲気を持つ家も全くなく、その跡地が田んぼと化している。しかし、古地図や文献を見ていくことで、かつての陣屋の姿を蘇らせることは非常に楽しい。




 


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