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  • 2016.10.30 Sunday
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福岡藩主の前原宿泊

前原宿は、筑前国怡土・志摩郡のほぼ中心に位置した宿場町です。
この宿場を東西に貫く「唐津街道」は、豊前大里から玄界灘沿岸を通り肥前唐津城下に至る街道で、主に福岡藩主と唐津藩主が利用していました。前原宿の利用者のうち、最も多く利用したのは、筑前国福岡藩主でした。福岡藩主は、参勤交代や長崎警備による通行だけでなく、鷹狩などの遊興や領内の民情視察などで同地を訪れ、特に歴代の福岡藩主が、藩主襲封後に領内を廻り、村内の様子や民情を視察する「国内巡見」は慣例となっていました。
 今回は、前原宿を触下に抱えていた志摩郡御床触の大庄屋鎌田甚吉が記した「寛政十二年閏四月殿様前原宿御泊座記録帳」より、福岡藩主が筑前西部(志摩郡)を巡見した際の前原宿の様子をみてみます。
 
西部巡見の例
福岡藩主の国内巡見は、藩政期を通じて幾度も行われています。
例えば、『黒田家譜』を見てみると、七代藩主治之(二十歳)は、入国後、国中巡見と称して東部を廻った後、西部巡見のため福岡城を出発しました。明和八(1771)年3月、初日は前原御茶屋に宿泊し、三日に染井神社に参詣して五日桜井神社にて神宝をご覧になり、その後、大口浜にて鯛網ご覧になり、六日辺田村より新田開墾見分し築出にて漁をご覧になりました。七日は、雷山に登ろうと出駕しましたが、雨が激しく降ってきたので、三坂村より引き返し前原に帰って今宿、姪浜を通り帰城しています。
九代藩主斉隆の初入国に際しては、寛政六(1794)年3月二十三日に福岡城を発駕し、志摩郡志登神社に参詣した後前原宿に宿泊し、翌二十四日は桜井神社参詣後に西浦で鯛網を御覧になり、その日は桜井泊り、翌二十五日は芥屋太祖神社、塩土神社を参詣後、前原宿に宿泊し、最終日の二十六日は、怡土郡高祖神社、金龍寺、如意寺、染井神社に参詣して帰城しています。
このように領内を巡見することは藩主の仕事の一つであり、特に「襲封の後、はじめて国に就給へば、必諸郡宿駅を巡視ある事旧例なり」とあるように、藩主となって初めて国入りした際の領内巡見は、領民への威光のため特に重要であったと考えられます。
 
福岡藩主の領内巡見
寛政十二年(1800)閏四月一日から三日間、当時わずか六歳の福岡藩主黒田長順(後の斉清)が、西郡巡見をされるというお触が御奉行より届きました。先の藩主、黒田斉隆は、寛政五(1793)年に初入国しましたが、ニ年後の寛政七(1795)年に19歳の若さで死亡したため、同年十月に生まれたばかりの長順が十代藩主となったのです。この長順は、その後文化五(1808)年に元服して将軍家斉の一字を賜り「斉清」と改めます。
 
郡方による通行路の検分
 郡奉行より届いたお触れには、「閏四月朔日より三日まで殿様が西部巡見をなされるので、4月20日から26日までの7日間、見分を行う」とのことです。21日に、普請奉行の寺田宇六郎と郡御組秦幸作、金生七作が出張して、御泊所・御昼所・御小休所・御野立所を見分しました。その際、殿様が使用する井戸も指定されました。これら六ケ所の井戸は、4月26日より汲み替えて、蒋で覆い昼夜番をすることが申し付けられています。
前原御泊については、4月21日に岩野惣七と松田宅七が見分して、次のような指示を出しました。

仝羃悉鰭憾を見分の上、障子張り替えやその他手入れすること。蒋は天井張り替えに使用すること。
御下宿九十三軒は前原宿にて準備できるが、残り七軒は前原宿にて不足のため、浦志村にて準備すること。
A宛興匹妨翡颪砲弔御茶屋・御下宿に仮雪隠・仮湯殿を設えること。無い所は設置すること。
 
前原宿での準備
 閏4月朔日に福岡城を出発した藩主一行は、桜井神社に参詣し、1日目は桜井大宮司宅に宿泊し、翌2日は野北から芥屋を通って前原宿に宿泊予定です。 前原宿では、2日目の宿泊に備え、前日の閏4月1日、朝六つ時に人足777人(内訳・御床触539人・井原触238人)を前原宿の郡屋へ召集しました。
集められた人足たちの仕事内容は、御茶屋水汲、油比村殿川より水汲、前原御茶屋内の御風呂屋、御馬屋、御鷹部屋に詰める者、前原宿に下宿する侍たちの給仕にあたる者、本部となる郡屋に詰る者、野北村御小休所、芥屋村昼休所御床村小休所に詰める者などです。そして、いよいよ前原宿泊当日となりました。まず、昨夜から郡屋に呼び出していた遠見二名を六つ時に(嫖賃失山御開土手、⊇蘋酖擽供↓A宛僅史楙召貿枌屬気擦泙后
前原宿では、案内や掃除など、各役割を郡内の庄屋や組頭が受け持ち、特に郡屋には、今回の宿泊に関する本部となるため、御床村大庄屋鎌田甚吉と井原村大庄屋三苫寿六ほか、各村の庄屋・組頭たちが待機しました。殿様が到着する前、宿場内には、事前に諸注意が言い渡されています。

仝翔り前、宿押えに郡屋詰庄屋を差し出し吟味する事。
御下宿の風呂焚は郡屋詰の組頭を差し出し火の用心を宿々へ念入に申しつける事。



藩主は、御茶屋に二日未ノ中刻(午後二時頃)到着します。非常の際の御立退宿には、前原宿を挟んで東(潤村)と西(荻浦村)の二ヶ所に用意され、御茶屋で使用する水は、油比村の殿川井戸が指定されたため、油比村組頭の武助が殿川井戸に詰め、水田子に封印して御茶屋へ差し上げ、その日に前原代官柳瀬与平次へ封印に使用した印鑑を差し上げることになっています。
前原宿で必要となった諸品は、郡内より様々な物が持ち寄られています。蒲団650、蚊帳200張、御座520枚、行灯100、煙草盆100、手水田子80、盤20、屏風35双、風呂桶100、畳60枚、荷田子20荷、枕50箱、七輪10、手水盤100、壱間蒋1478枚、弐間蒋81枚(天井張替に使用)、草鞋146足、草履175足
 
女中たちの宿泊所は町茶屋が充てられました

 町茶屋とは、宿場内の民間人が自分宅を藩に提供して町茶屋守に任命され、それ以後の維持管理を福岡藩が賄うもので、御茶屋の次に格式を備えた宿泊施設です。前原宿の町茶屋は、天明三(1783)年より津田作左衛門が受け持っていました。 今回、藩主一行には、家老の久野次左衛門と御用人の黒田源左衛門、そして御納戸頭の槙玄蕃が随行していますが、町茶屋に宿泊したのは、藩主が幼少のためか、随行の御女中(二十人)でした。町茶屋守の作左衛門は、二十人分の宿泊料のほかチップとして九百文を受け取っています。風呂は四つ用意していますが、お風呂に使うお湯を沸かすのに町茶屋にある大羽釜では足らず、前原宿の酒屋にある大羽釜も使用しています。食事用の黒膳椀がなかったため萩浦村の医師怡悦に頼み準備しています。
 
殿様お帰り
前原宿での宿泊を終えた殿様は、三日に御帰城します。前原御茶屋を辰ノ中刻(午前9時頃)に出発し、人馬は継立てをせずにそのまま前原より福岡まで通行の予定でしたが、翌日に唐津藩主の通行があるので、今宿の継人馬を三日より指し出すのは差し支えがあるとの事で、野北・芥屋・御床で御小休ために詰めていた人足を、三日の七つ時(午前四時頃)に今宿へ向かわせ、監督の庄屋がいないので、右3カ所の詰方庄屋は、今宿へ三日朝飯後に出る事が言い渡されています。

旧志摩郡の旧家には、このような巡見の際に藩主より拝領した品々が残されています。
 

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コメント
糸島歯科医師会で広報を担当しています。
会員に無料で配布する機関誌「糸歯会報」の中に会員から原稿をお願いしているのですが、そこに貴HPからの地図と航空写真が入っていました。掲載の折にはもちろん転載元の記述はさせていただきたいと思います。
ずうずうしいお願いで申し訳ありませんが、許可していただけないでしょうか?
よろしくお願いいたします。
  • 川勝 真
  • 2015/10/20 3:03 PM
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