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三田尻港と長州藩の御茶屋

「周防三田尻は、幕末における長州藩の軍港である」

司馬遼太郎の『街道をゆく長州路』に三田尻港の事がこう書かれている。

戦国の瀬戸内水軍の末裔どもを吸収して江戸体制に入った長州藩も、中心地を萩に追いやられたため、交通の要衝である瀬戸内での活動が藩主のお膝元でできなかった。そのため、三田尻に港を整備して瀬戸内方面の拠点としていた。

長州は、長い海岸線を瀬戸内海に於いて持っているが、幕末期ともなると、薩摩藩や佐賀藩の汽船や軍艦が波をけって東西を往復してゆくのをうらやましく見ていたのであろう。そんな空気感が萩とは違って三田尻にはあった。

長州の毛利公は、萩往還を通ってよく三田尻に来ていたらしい。

その目的の一つに三田尻の近くにある防府天満宮への参詣がある。

防府天満宮からは港へと道が続いており、萩往還の終着点であり

藩主の別邸である三田尻御茶屋を中心に長州藩の軍港である御船蔵が広がっている。

三田尻御茶屋は、承応三年(1654)二代藩主綱広の時に設けられた。

今は建物の一部しか現存していないが、七代藩主重就は隠居後に

この御茶屋に住んだため大規模に増築された時があったという。

三田尻の繁栄はこの天明期に一度訪れたにちがいない。

表御門

檜皮葺きの二階建て

二階の座敷には、幕末都落ちした五卿の一人三条実美による大観楼の

額が飾られていた。

御茶屋より歩いてすぐの場所にある御船蔵

かつて長州藩の軍船が停泊していたことを想像すると感に堪えない。

この場所から、瀬戸内海を東西する薩摩の軍艦をうらやましく見ていた

長州人を想像してしまう。

公園にわずかに残る堀の跡と説明看板によって御船蔵であったことが

伺えるが、兵どもが夢のあとである。

御船蔵周辺は、はるか沖まで埋め立てられ、昔の風景を感じる場所ではなくなったが

海のほうまで足を延ばすと、かつて瀬戸内の水軍であった毛利家の事を思わずには居られなかった。

防長三関といわれた下関、中関、上関の一つ中関は、この三田尻一体だったのである。

この埋め立てた場所では長州三白の一つであった塩を生産していた塩田が広がっていた。

 

 


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