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  • 2016.10.30 Sunday
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篠原古城(つなぎの城)を探す

現在、私は実家のある有田の北隣にある篠原というところに住んでいる。
ここには「つなぎの城」という舞岳城(現在の笹山公園)に連なる城があり、それが糸島高校付近であると云われていたというのは知っていたが、最近になって古い測量図や村の配置などを見ていると「つなぎ城」は別の場所にあったのではないかと思い、改めて調べてみることにした。

波多江より舞岳城と篠原村を望む

篠原村は、怡土郡に属し近世は福岡藩領であったが、以前は多久村と共に志摩郡波多江村の内で天喜三(1055)年に独立し怡土郡に入れられたそうである。村は雷山より伸びる台地上にあり、村の北側に八幡宮と西側に旧本村であった西からなる。枝村に延命寺と新屋敷があり村の東側には雷山川が北流しその周辺には水田が広がっている。
そもそも、つなぎ城が糸島高校付近にあったというのはいつ頃から言われはじめたのであろうか?『筑前国続風土記』の古戦古城記には「篠原村の境内に、つなぎの城とて、波多江上総助鎮種か里城の址有り。前原の城につらなりたる故に、つなぎと名付しならん」と記され具体的な場所は記されていない。
『筑前国続風土記附録』には篠原古城について「つなきの城ともいう。今は松山となれども、絶頂平らかにして南北百五十間余あり、東西凡五十間、山の半腹に堀の跡あり、東西に廻れり」とある。さらに、『筑前国続風土記拾遺』では「篠原村の西低き山在。繋城と云。今松樹繁れり」と記され、これらを基に考えてみると、その位置は篠原村の西にある小高い丘であることが分かった。
しかし、昭和四年発行の『糸島郡誌』を見てみると「延命寺」の部分に「篠原枝村の西一町にあり、小高き松山なり。繋城とも云う。山上平らにして南北百五十間東西五十間、山の中腹に堀の址南北に廻れり。破瓦など出ることあり。又小さき古墳あり」とあやふやな記述がなされている。『糸島郡誌』は、附録や拾遺をもとに書かれているが、その記述には間違いが多く、以前井原村にあった黒田政冬の屋敷跡を調べたときも方位が間違っていた。この篠原古城の部分もそうで、郡誌の記述を鵜呑みにすると「篠原村の枝村である延命寺の西1町にかつての延命寺があってそこを繋城と呼ぶ」という間違った解釈になってしまう。したがって、篠原古城(繋城)が糸島高校部分にあったとされる説は『糸島郡誌』の記述をそのまま引用したため間違ったことになり、正しくは篠原村の西にある小高い丘に篠原古城があったというのが正しい。糸島高校付近がつなぎの城であるというのが通説になってしまった由縁は『糸島郡誌』にあったことが分かった。
ということであらためて篠原古城を探してみた。

明治時代の地形図に現在の主要な建物や戦国時代の城跡等を書き込んでみると、このような位置関係となる。篠原村の西に小高い丘があることが分かる。左端に舞岳城があり右端に波多江村、その間にあるのが篠原村である。つなぎの城とは、中継基地の役割を持つ城で、本城と支城での移動時の中継の役割を果たすため広い曲輪を持たせるのが特徴である。このつなぎ城は原田氏の本城である高祖城とその支城である舞岳城を繋ぐと云われていたが、この地図を見ていると後に波多江氏の居住する波多江村と舞岳城を繋ぐ城であったと考えられる。

戦後すぐの航空写真を見ても小高い丘が写っており赤で印をつけた部分が城跡であった。戦後、ここには桃が植えられ通称「桃山」と呼ばれていたが、昭和50年代に団地が造成され桃山団地となったため城の遺構はほとんど分からなくなっている。

この丘を南側にある池から望むとこのように見え、左端には本城の舞岳城も見える。

城跡の遺構が分からなくなっているとはいえ、旧本村であった西集落より篠原古城を望むと、現在でもこのように急に標高が高くなっており、かつて城があったことを伺わせる。「波多江旧記」には、天永二(1111)年に大蔵(美氣)種房がこの地を賜り、筑後国にあって篠原辺りを領していたが、正治二(1200)年にその子孫の種貞が篠原の西岳という場所に山荘を構えたという。そして後に波多江の姓を名乗ったという。この山荘を構えた場所が波多江氏の屋敷であり後年、篠原城または、つなぎの城と呼ばれた場所となる。つまり、篠原城は糸島における波多江氏発祥の地でもある。
今回、調べてみて思ったことは『糸島郡誌』は現在からすると古くて分厚い本なので書いてあることは全て正しいと思いがちであるが、つなぎの城の件にしても井原の黒田政冬の屋敷跡にしても孫引きにあたるため、その編纂の元になった原資料を当たらなくてはいけないという事を改めて考えさせられた。尤も『筑前国続風土記附録』や『筑前国続風土記拾遺』に関しても絶対的に信頼できる資料ではないと思うので、やはりその他の地形図や聞き取りなどを含めて多角的に見る必要があるとも感じた。




 

正興製作所について

「村に火の雨が」という私の地元で起こった空襲についての聞き書きをまとめた本があります。私の母校である雷山小学校では、毎年6月19日になると平和学習として雷山地区に焼夷弾が落とされた”雷山空襲”について学んでいました。平成11年にこの空襲にまつわる聞き取りが行われて1冊の本になったのが、その本です。この本の中に石井さんという方の聞き書きの中に正興製作所という飛行機の部品をつくる工場が篠原にあって、そこに勤務していたという事が書かれ、工場の平面図まで掲載されていました。

雷山空襲は、6月19日に行われた福岡大空襲の爆撃機のうち1〜2機が福岡市内を外れて雷山地区を爆撃し、その理由として雷山大溜池が月の光に照らされて大きな工場に見えたからだとか言われていますが、ほかの理由の一つに正興製作所が軍需工場であったという理由も挙げられています。この製作所がどこにあったのか?この平面図だけでは当時どこにあったのか全く分からなかったため、私の祖母に正興について聞いてみると、現在の前原中学校が正興の跡地であるという事を聞き、昭和22年に空撮された航空写真で確かめてみると、確かに現在の前中の敷地に、石井さんが書いた平面図とほぼ同じ配置で正興製作所が確認できました。

前原から雷山へ向かう雷山線に面して正門を構え、大きな工場が4つ確認できます。製作所の裏を通る細い道は、現在もそのまま残っており、戦後、この敷地はそのまま前原中学校に転用されたと思われます。

 

不動滝に行く


先週の土曜日に雷山の中腹にある不動滝に行った。
今月初めに見た糸島新聞に、不動滝の側にある不動堂が地元で管理しきれなくなったので、雷山千如寺に移すという記事を見たからである。私は小学校の頃、家族で不動滝のさらに上にある神籠石によく行っていた。今は跡しか残っていないが、神籠石の上にある筒城神社が皮膚病に効くということで、1年生の頃に皮膚病を患った私を連れて、筒城神社に参りに行っていたのである。
糸島市飯原という集落からさらに進むとやや広い駐車スペースがあって、そこに車を止めて山道を登っていく。しばらく進んだ場所に不動滝があった。そこで少し休憩してさらに上を目指し神籠石まで行っていた。今から25年ほど前の話である。

不動滝は、雷山の中腹にある不動池という貯水地から流れ出す川が滝となった場所で、滝のすぐ側にお不動様を祀る不動堂がある。うちの祖母は、私の実家のある集落の老婆数人と、月に1回ほど、その不動堂に御籠りに行っていた。祖母たちは自転車に乗って有田から飯原まで行き、そこから山を上って不動滝まで行って御籠りをしていた。御籠りといっても、不動堂に到着すると、お不動様にお参りをして、お堂の掃除などをし、持ってきたお菓子やお茶を食べたり飲んだりしながら1日中お堂の中で雑談をするというようなもので、普段家では公にお菓子を食べたり雑談したりというようなことがなかなかできなかった時代に、お不動様に御籠りに行くという大義名分で行っていたものと思われる。

さて、25年ぶりに訪れた不動堂は、25年前とあまり変わっていなかった。しいて言えば、そこにいたるまでの道のりが違っていた。当時は飯原から登らないと神籠石まで行くことができなかったが、近年は雷神社の裏に立派な道路ができていて、車で神籠石まで行って山道を下るということが可能になっていた。山道も杉の間伐が行われていて森の中はすごく明るかった。

さて、山道をかなり下って不動滝に到着した。お堂の周りには御不動様の石像がいくつかあったが、いずれも新しい花が行けられており、毎日集落の人が登ってきてお花を上げているのだろうと思った。

お堂は石垣に囲まれており、お堂の後ろに滝が流れている。

お堂の扉が開いていたので中に入り、うちの祖母がそうしていたように、箒で掃いてお不動様に参り、折りたたみの小さなテーブルがあったので、それを出してお茶とお菓子でしばしお籠りのようなことをしてみた。八畳一間のお堂の窓からは不動滝と糸島平野が望める。かつて、仙涯さんがここに遊び、幕末期には野村望東尼も滞在していたというこのお堂が、近い将来無くなってしまうのは大変おしいことである。現にこの翌日(4/26)にはお不動様は千如寺に移られる。幾らかでもここでお不動様籠りをしていた祖母たちの話を聞きとって保存しておきたいと思った。

お堂は5月5日に解体されるそうです




 

波多江白圭

先日、糸島市内のあるお寺の襖絵を波多江白圭という人物が描いたものであるということを、そこの和尚さんに教えていただいた。波多江白圭について調べてみると、『前原町誌』にその名が確認できた。

波多江白圭(はたえ はっけい) 
天保10(1839)年〜明治35(1902)年
通称、波多江弥吉。二得斎、二得道人とも号す。志摩郡前原の人。二刀流の達人で、戊辰戦争にも従軍し各地を転戦。山水花鳥を得意とし、作品は糸島郡内に残る。死ぬまで帯刀髷姿であったという。64歳で没。

志摩郡前原村という在所と、波多江弥吉という名前から推測して、前原宿に勤務していた下代か口留番所に勤務する関番ではないだろうか?以前、このブログにも書いたが、関番の萩尾可朔や時枝峰雲なども書や絵画に秀でていたという。関番の中には波多江氏が2名おり、この波多江氏が白圭という号で書画を描いていたとしても不思議ではない。落款をみると、波多江白圭は通称を弥吉といい、名を種正という人物であったことも分かった。


唐津藩主が参勤の際に参詣したと思われる場所に行ってきました。


唐津藩主は、参勤交代で唐津を出る際にどのような作法で江戸へ向かったのか?
初日の宿泊先である前原宿での様子は、いろいろ分かってきましたが、唐津を出て前原に到着するまで、どんな行動をとって進んできたのかが最近気になって、資料を探してはいるんだけども、なかなか出会わなくて・・・唐津藩主が参勤交代で通行する唐津街道沿線上にある由緒ある神社などに行ってみました。

唐津城の本丸は、松浦川に突き出す満島山に築かれており、歴代藩主らは現在早稲田佐賀中学校のある二の丸御殿に住んでいました。参勤の朝、(おそらく五つ時くらい)に館を出発し、三の丸にある唐津神社に参詣し道中の祈願を行ったと思われます。

その後、城下の町屋を通り、唐津藩の船手が待機する船着場に行き、そこから乗船して満島に上陸したのではないかと思われます。

満島は、現在唐津城に向かって橋が架けられているので、そのまま行けますが、当時は、城下より船で渡るしか方法がありませんでした。船が着いてすぐの場所に札の辻と満島八幡宮があるので、ここにも祈願したのではないでしょうか?

二里松原を進み、城をでて最初の宿場は濱崎宿ですが、ここには宿場内に諏訪神社がありました。太閤秀吉が名護屋へ向かう際にも戦勝を祈願したと伝えられ、唐津藩主も道中祈願を行ったのではないかと思われます。

街道からは外れますが、鏡山の下に鏡神社があります。この神社も初代寺沢志摩守以来祈願所とされてきた場所なので、代参を行ったのではないかと思われます。

一ノ宮、二ノ宮ともに藩主水野氏が再建しています。

その後、海岸のそばの峠を登り下りして、吉井・福井浦にておそらく昼休みを取ったのではないかと思われます。

この吉井浦より南の山裾には浮岳大明神が鎮座しています。浮嶽大明神は、古来霊峰といわれた浮嶽の山頂に上宮があり、中腹に中宮があります。天文二十年(1551)までは僧坊が10区あったそうですが、秀吉の九州征伐の際に寺が戦火で焼け、寺領も没収されっましたが、江戸時代になって唐津藩主寺澤志摩守が山林百十数歩を寄進したので繁栄したそうです。現在、浮岳神社には正面向かって左右に鳥居があります。左側が浮岳神社で右側が浮嶽山久安寺の址でしょう。

ある時、海で時化にあった人が雲の上に浮かぶ山容を見て助かったことが、その名の由来といわれています。確かに円錐形に見える山容を見ると、周囲の人々が目印にしたこともうなづけます。唐津藩船手組の資料によると、参勤交代の前に浮嶽大明神に代参に行ったことが記され、参勤の際に唐津を出発した船手組は、陸路を行く藩主らの先回りをして大里で待機し、藩主らの下関渡海を終えた後また唐津に帰ったそうで、浮嶽は海上交通での信仰の対象であったことが分かります。

向かって左側の鳥居を潜ると浮嶽中宮であった浮嶽神社が鎮座しています。

拝殿前にはこのように中宮の石碑が立っています。

この拝殿の格天井には、近隣の村々や個人が寄進したであろう絵が描かれていて、吉井村○○とか田地原村中など人名が記されています。

右側の鳥居には「浮嶽山」という山名が刻まれ、寺であったことが分かります。

建物もお寺っぽくて神仏習合の姿を垣間見ることができる場所です。












 

田んぼの中を走る一直線の線路


福岡市営地下鉄の西唐津行き電車に乗り、唐津方面へ向かうと一貴山駅と筑前深江駅の間で、このように田んぼの真ん中を一直線に電車が走る光景を見ることができます。この写真は、5月頃に線路の北側を走る国道202号線沿いにある松末五郎稲荷から見た光景ですが、緑色の田んぼの真ん中を赤と白(シルバー)の3両電車が走るのはとてもかわいい光景です。

特に五月頃の春麦がとても美しく、おおよそ1ヶ月の間に黄緑色から黄金色に変化する様子は素晴らしいです。

しかし、なぜ田んぼの真ん中を一直線の線路が走っているのでしょうか?これには、あるエピソードが残っています。

JR加布里駅と筑前深江駅の間に一貴山駅という無人の小さな駅があります。加布里駅を出て1kmも離れていないのに、なぜか駅があるのは変だとは思いませんか?

これは、一貴山駅のすぐ近くにある田中村の地主であった満生氏が、線路ができる際に自分の土地を提供して一直線の線路を引いたと云われ、その際、自分の屋敷のすぐ近くに駅を作ったといわれています。それゆえ、田んぼの真ん中を直線に線路が走り、加布里駅をでて1kmも進まないうちに駅があるのです。

飛梅の印


太宰府天満宮の神木「飛梅」
この木の枝で作ったいくつかの印の話をまとめてみました。
平成17年に、筑紫野市歴史博物館で藤瀬冠邨展という筑紫路の南画家の企画展が開催されました。その時、私も展示に関わりましたが、特に藤瀬冠邨の落款印についていろいろ調べました。その印の中に「神木 太宰府天満宮 天海刀」という側款の入った木の印が二点ほどありました。その後、私の交通史の先生である近藤典二先生と話をしていると、近藤先生のお父さんである近藤思川さんが還暦の祝いに飛梅の枝で作ったという印があるというので見せてもらいました。冠邨と同じく天海という人が彫ったものでした。その話を詳しく聞くと、筑紫野市の二日市に豊島南窓という漢詩人がいて、その人の紹介で作ってもらったそうです。近藤思川さんの還暦の年は、明治16年生まれなので昭和18年であり、ほぼ同じ時期に藤瀬冠邨も印を作ってもらっているようです。昭和18年頃に大宰府天満宮の飛梅の枝を落とすことがあったようで、筑紫路の文人たちはその枝をもらって印にしたことが少しづつ分かってきました。また、この印を刻した天海という人については、近藤先生からは箱崎に住んでいたということを聞きましたが、印を収集している方に問い合わせると、天海は、樋川天海といい高千穂に住んでいたらしいことがわかりました。昭和24年に高千穂峡にある北原白秋の歌碑も天海の作だといいます。当時名の知れた篆刻家だったのでしょう。天海の彫った飛梅の印に関してはまだまだ調査中です。

五所八幡宮

福岡藩主が参勤の際、必ず立ち寄って道中祈願をしたという五所八幡宮に行きました。
福岡藩主は参勤の当日、福岡城を出て箱崎松原で家臣らの見送りを終え、箱崎八幡宮に参詣した後箱崎御茶屋に立ち寄って箱崎宮のお札を受け、濱男、三代で小休して青柳宿の少し手前にある五所八幡宮に参詣もしくは代参して青柳宿に宿泊しました。
五所八幡宮は、神功皇后が三韓御神幸の際に竜興を休めた場所と伝えられ、この地に五柱の神々が鎮まりますようにということで五所八幡宮と名付けられたそうです。表粕屋郡・裏粕屋郡・宗像郡の三郡の総社として祀られてきたそうです。創建の年は不明ですが、五度も兵火にあい、天正11年に立花城主立花道雪が社殿を造営しましたが、島津軍によって焼失したということです。江戸時代になり、参勤の道中にある五所八幡には参詣、代参を欠かさなかったそうです。

唐津街道に面して鳥居があり、少し引きこんだ場所に八幡宮が鎮座しています。

五所八幡宮と書かれた額

石段を登った小高い丘の上にあります。

拝殿の前にムーミンの木がありました。楠の幹にできたコブが横を向いたムーミンに見えます。

広い境内の真ん中に社殿があります。
慶安三年に二代忠之は神殿・社殿・鳥居に至るまで造営し、宝暦九年に六代継高は神殿を寄進しました。

現在の拝殿は、嘉永六年二月に十一代斉溥が建立したものです。

社殿の瓦には黒田家の紋である石持と藤巴が使われており、黒田家の信仰の深さを伺わせました。
 

赤い檜の林 高祖宮

糸島市高祖にある高祖宮

先日、行ってみようと思い神社の入り口まで行ったところ、奇妙な光景に出会いました。

スプレーで色をつけたかのような真っ赤な木が並んで立っています。

良く見ると、木の皮がはがされていました。なぜ、このようなことをするのかというと、現在高祖宮の神殿は修復中で、この檜の皮が桧皮葺といって屋根材に使われるのです。

皮は主に下の部分がはがされていました。

神社の屋根を葺くのに、その周辺にある木の皮を使うっていうところが素晴らしいと思いました。元来、日本家屋というのは、その土地にあるものを有効に活用して作ったので、萱葺きや藁ぶき、桧皮葺きなど様々な屋根材が用いられました。現在みたいに、遠くの木や外国などからもってきた材料で建てられても長持ちするはずはないし、風土を感じさせる建物にはなれません。食べ物が地産地消なら、建物も歴史も、その土地ではその土地のものが一番すぐれていると思います。

ちなみに、高祖宮の鳥居は、福岡藩四代藩主黒田綱政が元禄六年に寄進したものです。



 

伊能忠敬が記した八幡社

文化九年八月十五日早朝、小雨降る中、前原宿を出発した伊能忠敬は、唐津街道を西へ進んだ。八月十日より本隊の伊能忠敬は西廻りで前原より岐志、芥屋を測量し、別隊の坂部貞兵衛は今宿より西浦、野北を経て芥屋大門の東側の黒い玉石の海岸である黒磯で出会い、五日間かかって糸島半島を測量し終え、前原宿で一宿した後である。
前原宿を出た後は、福岡領と中津領の境である多久川より測量を始め街道を進む。赤坂口留番所を通過し、神在川(長野川)にかかる十二間の土橋を渡って、牧、田中を経て諏訪神社の横を通過して田中村の枝村清水を通って松末村に向かった。
『測量日記』には、この部分に註記がされていた。内容は「清水、右四丁余り奥に字八幡、八幡社あり、近年六部納経すと云う。小社なり」という註である。私はこの八幡社を確かめるべく現地に赴いた。

街道沿いには八幡社の案内石が建っていて、この奥に八幡社があるのだと思った。

この道を進むと、ぐるーっと回って少し先に出た。二度ほど歩いてみたが神社らしき入り口は見つからず、神社はもう無くなったのかとも思った。突き当りほどに車屋さんがあって、そこの方に聞いてみると、奥の藪の中にあるということである。

参道とは思えぬ道を歩いて行くと、山に登っていく階段があり、その先に小堂が現れた。まぎれもなく伊能忠敬が測量日記に記した八幡社であり、忠敬が通行する前に六部納経を行ったという社である。六部納経の事についてはこの社では手掛かりはつかめなかった。六部納経とは、追善供養のため、経文を写して全国六十六州の代表的寺院に納めて歩くのを六十六部納経といい、略して六部納経という。

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