古間取野帳 コマドリヤチョウ

私は、古い間取り図を方眼紙に落として書いていくのが好きで、気に入った古い間取り図があると記録するようにしています。建築学部を出た訳ではないので建築の専門の方につっこまれると困るのですが好きで書いています。昔あった建物や、やむなく解体されていまう建物など、もったいなくて間取り図だけでも残しておきたい!という衝動に駆られ書くようになりました。また、歴史を想像するのに、建物の平面図があったらより具体的な想像が出来てとても面白いです。名前の由来は、野帳という3mmの方眼の手帳に書く古い間取りだから「古間取野帳」です。


甘木御境目奉行役宅
日田街道沿いにある甘木宿の四重町にあった奉行の役宅。絵図をよく見ると裏に旧図が描かれていたので二つ並べて書いてみた。天保三年に建て替えられたという。福岡藩領と豊前との御境目を受け持っていた御境目奉行が駐在した。

姫島定番役宅(岡定番)
玄界灘に浮かぶ姫島に置かれた定番役宅。姫島には2軒の役宅が置かれ、そのうち岡側に置かれた役宅。丘の上にあるので通称、岡定番と呼ばれていたそうだ。野村望東尼救出の際、この役宅に救出に来た旧福岡藩士藤四郎が訪れ、定番坂田と問答をしているすきに望東尼が救出されたという。廃止後にこの役宅は姫島小学校の敷地となる。


姫島定番(浜定番)
姫島に置かれた定番役宅のうち、浜側に置かれた役宅。姫島神社の正面を右側に小道が伸びるその先にあった。絵図には定番桑野喜左衛門と記されているが、彼は慶応元年に流罪となって姫島に流されることとなる野村望東尼の実弟であった。

内野宿町茶屋


箱崎町茶屋
町茶屋とは、大名や一般の旅人が宿泊した半官の施設で、箱崎町茶屋は箱崎宿のほぼ中央の馬場町にあった。普通の旅籠と違い表門と式台を備えている



宰府御造営奉行役宅
太宰府(安楽寺)天満宮とその門前町を管理した奉行の役宅。現在の小鳥居小路と連歌屋の角にあった。




前原代官役宅
福岡藩領前原宿代官役宅西端にあった前原宿にあった代官役宅。前原代官は、御茶屋奉行兼御境目も受け持っていたため、筑前六宿以外の奉行が御茶屋奉行と呼ばれていたのに、前原は特別に代官と呼ばれていた。



山家宿代官役宅
長崎街道筑前六宿の一つ山家宿の代官所。建坪が約50坪近くあり役宅の中では最大規模。代官は、藩主の別邸である御茶屋と宿場と通行する大名らの送迎を職務とする


箱崎御茶屋奉行役宅


脇山御境目奉行役宅
那珂川のセブンミリオンゴルフ場のすぐ近くに脇山村野田という集落がある。そこにあったといわれる御境目奉行の役宅。野田集落の正面には脊振山がそびえる。福岡藩では元禄五年より脊振弁財嶽国境争論があり、ここの御境目奉行はこの関係もあって設置された。

※ここに掲載している図は福岡藩御用大工を勤めた林家文書にあったものです。

 

姫島紀行2「島定番役宅を探す」

島定番とは、福岡藩が領内の離島に置いた役人の事で、浦奉行の支配下にあり福岡藩の中級家臣馬廻組より選任されていた。相島、大島、地島、岩屋、玄海、姫島、小呂島、波止場の8ヶ所に約二名の役人を駐在させ3〜4で交代していた。
以前、私は九州歴史資料館で福岡藩内にあった役人の役宅を描いた平面図綴りを見つけ、その中に糸島の姫島定番役宅が描かれていたが、その役宅が姫島のどこにあったのか調べようと思いつつも資料に出会わず、つい最近まで分からないでいた。しかし先週何気なく『野村望東尼』(花乱社)を手に取りページをめくってみたところ姫島脱獄の図が掲載されていた。その図は昭和15年に『筑紫史談 第76集』で郷土史家大熊浅次郎が発表した「野村望東尼の晩節、姫島流謫脱獄の経路」をもとに作成されており、早速福岡市総合図書館へ行ってその部分をコピーしてきた。

この文を書いた大熊浅次郎は、慶応二年生まれ福岡在住の郷土史家で、郷土史家春山育次郎らの先行研究をもとに脱獄の経路を調査するため、昭和13年に姫島に渡ったことが書いてあり島の平面図も掲載していた。以下、渡海の様子を書いた一文を書き出してみる。
「(春山育次郎は)明治45(1912)年の春同友の中村能道と共に望東尼流謫の処、玄海の一孤島姫島に相渡り、所詮牢居の跡を探討せり、あたかも時の糸島郡町山口良介氏は同郷のよしみあり、郡吏楢崎嘉兵衛を東道たらしめ、望東尼の船路を取りし岐志浦を巡り、轉じて新町に至り舟を艤して姫島に航せり。一夜を同島漁家に明かし隈なく旧跡を見舞い、幸なるかな、尼が姫島日記に名を留めたる「ふじ」と云える島女の未だ現存したる老婆をつかまえて、往年の記憶を聞きただし、その昔日談の数々再び得難く、真に大切なる資料として拾われたるなり」と郷土史家春山育次郎(1866-1930)が明治45年に実際に姫島に渡り望東尼が在島していた時に世話などをした「ふじ」という老婆に会って聞き取りをしている。そして、それから26年後、大熊浅次郎は、「予また遅れながら過ぐる昭和13(1938)年の秋10月9日には交友乾安五郎学士と相伴い糸島郡新町渡海場より発動機船により姫島に航し、先に曩日春山史友探討の跡を捜り、望東尼牢居の遺址を尋ね、江島先生覚の記伝の真相を真證し大いに得るところありたり。」と記している。


そして、それから77年後の平成27年5月31日、私は春山、大熊両先生の探討の跡を捜り、島定番の役宅を探すべく糸島市岐志港より定期船ひめしまに乗船し、姫島にわたることにした。

岐志を後に船が進みだすと筑紫富士とも謳われる可也がきれいに見える。

外海なので海は荒く、ここを船で渡るのはさぞ大変であったと想像する。

やがて姫島が見えてきた

島は南側と西側に集落があるのみで東から北にかけてはそのほとんどが磯になっている。私が行った日も東からの風がかなり強く集落が西側に偏っている理由が少し分かった。西側は芥屋の黒磯と同様の黒い玉石の海岸で、かつて博多聖福寺の住職であった仙涯さんは、この姫島で採れた硯のような自然石を友人からもらい金剛という名をつけてたいそう喜んだという。

まず最初に野村望東尼の獄舎まで行ってみた。細い道を挟んで両側に集落がある
細い道は北に向かって進み所々石垣が積まれている。この写真は、獄舎に向かう途中で撮影したものであるが、この右上に地蔵堂があり、望東尼が救出されて船に向かう途中、姫島で世話をよくした森ミキとばったり会った場所でもある。

そして、集落のはずれのやや小高い場所に獄舎の跡があった。小学5年生の時に近くのおじさんに連れて行ってもらったのが初めてであったが、こんな場所にあったのかと思うほど奥にあった。もっと近くにあったような気がする。この日、下関からわざわざ見に来たという方と一緒になり獄舎跡を見学した。





この建物は獄舎を復元したものかと思いがちであるが、これはお堂とのことである。しかし獄舎を思わせるような錠がかかっていた

獄舎からは遠く唐津の高島や神集島が見えた

獄舎跡から少し浜側に戻ると道が交差する部分がある。望東尼救出の際、救出に来た者の一人の吉野応四郎は、この場所で見張りを行い、その隣の新築中の家からカケヤを持ち出して獄舎のカギを叩き壊したという。ここから山手に上ると通称「岡定番」と呼ばれた定番役宅がある。

姫島に置かれた島定番役宅は二箇所あり、浜部に置かれた方を「濱定番」島の奥に置かれた方を「岡定番」と呼び隔月輪番で勤務していた。江戸後期の姫島定番は、弘化三年十月に桑野喜右衛門(浜定番)が着任し、安政三年四月に周防清六(岡定番)が着任、万延元年十一月に新平ノ進(浜定番)が着任、文久二年九月に小島源五右衛門(浜定番)が着任、そして慶応二年十月に坂田喜左衛門(岡定番)に着任していた。野村望東尼がこの島に流されてきたときの定番は小島と坂田の両名だった。「役宅綴り」に掲載されていた2枚の姫島定番の図には桑野喜右衛門、周防清六と記され、この図は弘化三年から文久二年にかけて描かれたと考えられる。また、驚いたことに浜定番の桑野喜右衛門は、野村望東尼の実弟で姫島で亡くなっていたことも分かった。

図には方位が書かれていないので、建物が敷地内にどのように建っていたか正確には分からないが、玄関の位置や座敷の配置から図の左下の座敷縁側は西向きに海を望めるように建てられていたと推測する。

岡定番役宅跡は、その後小学校の敷地となり、現在は空き地となっている。登り口の部分にある石垣はおそらく当時のものであろう。

そして、敷地の片隅には以外にも「岡定番坂田喜左衛門屋敷跡」と刻まれた石碑があった。定番役宅については近年まで語り継がれていたようだ。望東尼脱獄の際、定番である坂田喜右衛門役宅には救出に来た藤四郎という旧福岡藩士が訪れ坂田と問答を繰り返し、その間に仲間が望東尼を救出したという。

次に浜定番役宅を探すために浜側へ戻る。集落の真ん中の小道が分かれる場所に庚申塔が立っている。この庚申塔を右に進むと奥に姫島神社が鎮座している。この庚申塔は安永四年と刻まれ、定番桑野喜右衛門も野村望東尼もこの庚申塔を見たのであろう。

姫島神社の石段を境に左右に道が分岐しており、右手に進んだところに通称「浜定番」と呼ばれた定番役宅があった。

この図も岡定番同様に方位が分からないため、どのように建っていたか不明であるが、座敷の縁側は南面の浜側を向き、図の右側が敷地の入口であったと推測する。

望東尼が流されてきた際、月番であった小島はこの場所で罪状を読み上げたのだろう。

その跡地は、現在土砂崩れの後に畑となっておりその敷地は見ることはできなくなっているが、この写真の林の部分が定番役宅であった。この役宅は廃藩の後に定番下役であった柴住氏が購入したようで、大熊浅次郎が訪れた際には柴住仙七の宅地となっていた。大熊浅次郎は、この文中に掲載した図について、これは「当時の女傑救出の跡に考え、駆落ちの難易を考察せんと欲し、牢獄の所在と岡定番役宅の所在と立番見張所の想定及び普請中なりしカケヤ取出しの家屋の所在並に望東尼乗船場の位置等を知らんが為め、今糸島郡芥屋村姫島小学校の校長たる柴田新助氏に乞い、現在島の平面見取図制作を煩はし参考に供することとせり」と記し、今となっては非常に貴重な資料である。

姫島から帰ってきた直後は、上記のように姫島小学校が岡定番役宅の跡地だと思っていた。しかし、役宅の場所を正確な地図に落とそうと市役所より白図を購入し、大熊浅次郎が作成した地図を重ねてみたところ、濱定番役宅のあった場所はほぼ間違いないと思うが、岡定番役宅の場所は現在は山となっている部分となってしまう。地図の縮尺の問題かと思ったが、意外にも道の形が合うため、江戸時代には山の斜面に民家が建っていたのではないかと思うようになってきた。問題の小学校の位置であるが、移動したとも考えられるため、再度冬に島に渡って役宅推定地の踏査をし、姫島小学校の位置について検証してみようと思う。






 

姫島紀行1「古写真の場所を探して」

明治30年代を写したと思われる古写真が手元にあり、1枚は野村望東尼旧居跡の石碑、もう一枚は船と鳥居が写っている写真で、おそらく姫島を写したものではないかと考えていました。そして昨日、これらを確かめようとやっと姫島に渡る機会を得ました。今回、姫島に渡った理由は‥臘衄屬量鯊霎廚琉銘屬分かったのでその場所を確かめること。古写真にあった野村望東尼の石碑の状態を確かめること。この2つの事を確かめるべく島に渡ったのでした。,砲弔い討聾綟詳しく書くとして、今回は謎であった古写真が姫島だったことを書いてみます。

まず「野邨望東尼之旧址」の石碑ですが、この石碑は伊藤博文や山縣有朋によって明治35年に建てられたといわれています。この古写真は、他の写真の年代から明治30年代頃に撮影されたものと考えられ、石碑が建てられた直後に写されたものだと考えられます。

今回、実際に現物を見てみると基礎の部分が石積で高くなっており二段目の受け皿までは当時のままですが、基礎の部分は変わっています。当時、基礎石は綺麗に整形された御影石であったのに荒い石積になっています。当時の石は左端に敷地を縁取る石に使われたと思われます。この場所は高所ですが、正面向かって右側に山が迫り左側は空いているのは当時とあまり変わりません。

次に、長らく不明であったこの場所が姫島であったということが分かりました。戦前の郷土史家大熊浅次郎が書いたものに、野邨望東尼を救出するために船をつけた場所は鳥居の前であったことが記され、この写真はまさにその場所から写された写真です。さて、この写真がどこであるのか決め手となったのは鳥居の横の石灯籠でした。

姫島神社の一の鳥居は正面向かって右に灯篭があり左は恵比寿様があります。写真を見てみると右側に石灯籠があり左は灯篭がありません。

そして、灯篭の上にある石の形が同じであり、受け皿の石も同じ形なのでこの写真が姫島神社の一の鳥居であることが分かりました。明治45年にこの地を訪れた戦前の郷土史家 春山育次郎は、この島で望東尼の調査をしたことが『筑紫史談』に書かれています。この写真と同じ風景を見たのでしょう。
 

篠原古城(つなぎの城)を探す

現在、私は実家のある有田の北隣にある篠原というところに住んでいる。
ここには「つなぎの城」という舞岳城(現在の笹山公園)に連なる城があり、それが糸島高校付近であると云われていたというのは知っていたが、最近になって古い測量図や村の配置などを見ていると「つなぎ城」は別の場所にあったのではないかと思い、改めて調べてみることにした。

波多江より舞岳城と篠原村を望む

篠原村は、怡土郡に属し近世は福岡藩領であったが、以前は多久村と共に志摩郡波多江村の内で天喜三(1055)年に独立し怡土郡に入れられたそうである。村は雷山より伸びる台地上にあり、村の北側に八幡宮と西側に旧本村であった西からなる。枝村に延命寺と新屋敷があり村の東側には雷山川が北流しその周辺には水田が広がっている。
そもそも、つなぎ城が糸島高校付近にあったというのはいつ頃から言われはじめたのであろうか?『筑前国続風土記』の古戦古城記には「篠原村の境内に、つなぎの城とて、波多江上総助鎮種か里城の址有り。前原の城につらなりたる故に、つなぎと名付しならん」と記され具体的な場所は記されていない。
『筑前国続風土記附録』には篠原古城について「つなきの城ともいう。今は松山となれども、絶頂平らかにして南北百五十間余あり、東西凡五十間、山の半腹に堀の跡あり、東西に廻れり」とある。さらに、『筑前国続風土記拾遺』では「篠原村の西低き山在。繋城と云。今松樹繁れり」と記され、これらを基に考えてみると、その位置は篠原村の西にある小高い丘であることが分かった。
しかし、昭和四年発行の『糸島郡誌』を見てみると「延命寺」の部分に「篠原枝村の西一町にあり、小高き松山なり。繋城とも云う。山上平らにして南北百五十間東西五十間、山の中腹に堀の址南北に廻れり。破瓦など出ることあり。又小さき古墳あり」とあやふやな記述がなされている。『糸島郡誌』は、附録や拾遺をもとに書かれているが、その記述には間違いが多く、以前井原村にあった黒田政冬の屋敷跡を調べたときも方位が間違っていた。この篠原古城の部分もそうで、郡誌の記述を鵜呑みにすると「篠原村の枝村である延命寺の西1町にかつての延命寺があってそこを繋城と呼ぶ」という間違った解釈になってしまう。したがって、篠原古城(繋城)が糸島高校部分にあったとされる説は『糸島郡誌』の記述をそのまま引用したため間違ったことになり、正しくは篠原村の西にある小高い丘に篠原古城があったというのが正しい。糸島高校付近がつなぎの城であるというのが通説になってしまった由縁は『糸島郡誌』にあったことが分かった。
ということであらためて篠原古城を探してみた。

明治時代の地形図に現在の主要な建物や戦国時代の城跡等を書き込んでみると、このような位置関係となる。篠原村の西に小高い丘があることが分かる。左端に舞岳城があり右端に波多江村、その間にあるのが篠原村である。つなぎの城とは、中継基地の役割を持つ城で、本城と支城での移動時の中継の役割を果たすため広い曲輪を持たせるのが特徴である。このつなぎ城は原田氏の本城である高祖城とその支城である舞岳城を繋ぐと云われていたが、この地図を見ていると後に波多江氏の居住する波多江村と舞岳城を繋ぐ城であったと考えられる。

戦後すぐの航空写真を見ても小高い丘が写っており赤で印をつけた部分が城跡であった。戦後、ここには桃が植えられ通称「桃山」と呼ばれていたが、昭和50年代に団地が造成され桃山団地となったため城の遺構はほとんど分からなくなっている。

この丘を南側にある池から望むとこのように見え、左端には本城の舞岳城も見える。

城跡の遺構が分からなくなっているとはいえ、旧本村であった西集落より篠原古城を望むと、現在でもこのように急に標高が高くなっており、かつて城があったことを伺わせる。「波多江旧記」には、天永二(1111)年に大蔵(美氣)種房がこの地を賜り、筑後国にあって篠原辺りを領していたが、正治二(1200)年にその子孫の種貞が篠原の西岳という場所に山荘を構えたという。そして後に波多江の姓を名乗ったという。この山荘を構えた場所が波多江氏の屋敷であり後年、篠原城または、つなぎの城と呼ばれた場所となる。つまり、篠原城は糸島における波多江氏発祥の地でもある。
今回、調べてみて思ったことは『糸島郡誌』は現在からすると古くて分厚い本なので書いてあることは全て正しいと思いがちであるが、つなぎの城の件にしても井原の黒田政冬の屋敷跡にしても孫引きにあたるため、その編纂の元になった原資料を当たらなくてはいけないという事を改めて考えさせられた。尤も『筑前国続風土記附録』や『筑前国続風土記拾遺』に関しても絶対的に信頼できる資料ではないと思うので、やはりその他の地形図や聞き取りなどを含めて多角的に見る必要があるとも感じた。




 

正興製作所について

「村に火の雨が」という私の地元で起こった空襲についての聞き書きをまとめた本があります。私の母校である雷山小学校では、毎年6月19日になると平和学習として雷山地区に焼夷弾が落とされた”雷山空襲”について学んでいました。平成11年にこの空襲にまつわる聞き取りが行われて1冊の本になったのが、その本です。この本の中に石井さんという方の聞き書きの中に正興製作所という飛行機の部品をつくる工場が篠原にあって、そこに勤務していたという事が書かれ、工場の平面図まで掲載されていました。

雷山空襲は、6月19日に行われた福岡大空襲の爆撃機のうち1〜2機が福岡市内を外れて雷山地区を爆撃し、その理由として雷山大溜池が月の光に照らされて大きな工場に見えたからだとか言われていますが、ほかの理由の一つに正興製作所が軍需工場であったという理由も挙げられています。この製作所がどこにあったのか?この平面図だけでは当時どこにあったのか全く分からなかったため、私の祖母に正興について聞いてみると、現在の前原中学校が正興の跡地であるという事を聞き、昭和22年に空撮された航空写真で確かめてみると、確かに現在の前中の敷地に、石井さんが書いた平面図とほぼ同じ配置で正興製作所が確認できました。

前原から雷山へ向かう雷山線に面して正門を構え、大きな工場が4つ確認できます。製作所の裏を通る細い道は、現在もそのまま残っており、戦後、この敷地はそのまま前原中学校に転用されたと思われます。

 

不動滝に行く


先週の土曜日に雷山の中腹にある不動滝に行った。
今月初めに見た糸島新聞に、不動滝の側にある不動堂が地元で管理しきれなくなったので、雷山千如寺に移すという記事を見たからである。私は小学校の頃、家族で不動滝のさらに上にある神籠石によく行っていた。今は跡しか残っていないが、神籠石の上にある筒城神社が皮膚病に効くということで、1年生の頃に皮膚病を患った私を連れて、筒城神社に参りに行っていたのである。
糸島市飯原という集落からさらに進むとやや広い駐車スペースがあって、そこに車を止めて山道を登っていく。しばらく進んだ場所に不動滝があった。そこで少し休憩してさらに上を目指し神籠石まで行っていた。今から25年ほど前の話である。

不動滝は、雷山の中腹にある不動池という貯水地から流れ出す川が滝となった場所で、滝のすぐ側にお不動様を祀る不動堂がある。うちの祖母は、私の実家のある集落の老婆数人と、月に1回ほど、その不動堂に御籠りに行っていた。祖母たちは自転車に乗って有田から飯原まで行き、そこから山を上って不動滝まで行って御籠りをしていた。御籠りといっても、不動堂に到着すると、お不動様にお参りをして、お堂の掃除などをし、持ってきたお菓子やお茶を食べたり飲んだりしながら1日中お堂の中で雑談をするというようなもので、普段家では公にお菓子を食べたり雑談したりというようなことがなかなかできなかった時代に、お不動様に御籠りに行くという大義名分で行っていたものと思われる。

さて、25年ぶりに訪れた不動堂は、25年前とあまり変わっていなかった。しいて言えば、そこにいたるまでの道のりが違っていた。当時は飯原から登らないと神籠石まで行くことができなかったが、近年は雷神社の裏に立派な道路ができていて、車で神籠石まで行って山道を下るということが可能になっていた。山道も杉の間伐が行われていて森の中はすごく明るかった。

さて、山道をかなり下って不動滝に到着した。お堂の周りには御不動様の石像がいくつかあったが、いずれも新しい花が行けられており、毎日集落の人が登ってきてお花を上げているのだろうと思った。

お堂は石垣に囲まれており、お堂の後ろに滝が流れている。

お堂の扉が開いていたので中に入り、うちの祖母がそうしていたように、箒で掃いてお不動様に参り、折りたたみの小さなテーブルがあったので、それを出してお茶とお菓子でしばしお籠りのようなことをしてみた。八畳一間のお堂の窓からは不動滝と糸島平野が望める。かつて、仙涯さんがここに遊び、幕末期には野村望東尼も滞在していたというこのお堂が、近い将来無くなってしまうのは大変おしいことである。現にこの翌日(4/26)にはお不動様は千如寺に移られる。幾らかでもここでお不動様籠りをしていた祖母たちの話を聞きとって保存しておきたいと思った。

お堂は5月5日に解体されるそうです




 

波多江白圭

先日、糸島市内のあるお寺の襖絵を波多江白圭という人物が描いたものであるということを、そこの和尚さんに教えていただいた。波多江白圭について調べてみると、『前原町誌』にその名が確認できた。

波多江白圭(はたえ はっけい) 
天保10(1839)年〜明治35(1902)年
通称、波多江弥吉。二得斎、二得道人とも号す。志摩郡前原の人。二刀流の達人で、戊辰戦争にも従軍し各地を転戦。山水花鳥を得意とし、作品は糸島郡内に残る。死ぬまで帯刀髷姿であったという。64歳で没。

志摩郡前原村という在所と、波多江弥吉という名前から推測して、前原宿に勤務していた下代か口留番所に勤務する関番ではないだろうか?以前、このブログにも書いたが、関番の萩尾可朔や時枝峰雲なども書や絵画に秀でていたという。関番の中には波多江氏が2名おり、この波多江氏が白圭という号で書画を描いていたとしても不思議ではない。落款をみると、波多江白圭は通称を弥吉といい、名を種正という人物であったことも分かった。


唐津藩主が参勤の際に参詣したと思われる場所に行ってきました。


唐津藩主は、参勤交代で唐津を出る際にどのような作法で江戸へ向かったのか?
初日の宿泊先である前原宿での様子は、いろいろ分かってきましたが、唐津を出て前原に到着するまで、どんな行動をとって進んできたのかが最近気になって、資料を探してはいるんだけども、なかなか出会わなくて・・・唐津藩主が参勤交代で通行する唐津街道沿線上にある由緒ある神社などに行ってみました。

唐津城の本丸は、松浦川に突き出す満島山に築かれており、歴代藩主らは現在早稲田佐賀中学校のある二の丸御殿に住んでいました。参勤の朝、(おそらく五つ時くらい)に館を出発し、三の丸にある唐津神社に参詣し道中の祈願を行ったと思われます。

その後、城下の町屋を通り、唐津藩の船手が待機する船着場に行き、そこから乗船して満島に上陸したのではないかと思われます。

満島は、現在唐津城に向かって橋が架けられているので、そのまま行けますが、当時は、城下より船で渡るしか方法がありませんでした。船が着いてすぐの場所に札の辻と満島八幡宮があるので、ここにも祈願したのではないでしょうか?

二里松原を進み、城をでて最初の宿場は濱崎宿ですが、ここには宿場内に諏訪神社がありました。太閤秀吉が名護屋へ向かう際にも戦勝を祈願したと伝えられ、唐津藩主も道中祈願を行ったのではないかと思われます。

街道からは外れますが、鏡山の下に鏡神社があります。この神社も初代寺沢志摩守以来祈願所とされてきた場所なので、代参を行ったのではないかと思われます。

一ノ宮、二ノ宮ともに藩主水野氏が再建しています。

その後、海岸のそばの峠を登り下りして、吉井・福井浦にておそらく昼休みを取ったのではないかと思われます。

この吉井浦より南の山裾には浮岳大明神が鎮座しています。浮嶽大明神は、古来霊峰といわれた浮嶽の山頂に上宮があり、中腹に中宮があります。天文二十年(1551)までは僧坊が10区あったそうですが、秀吉の九州征伐の際に寺が戦火で焼け、寺領も没収されっましたが、江戸時代になって唐津藩主寺澤志摩守が山林百十数歩を寄進したので繁栄したそうです。現在、浮岳神社には正面向かって左右に鳥居があります。左側が浮岳神社で右側が浮嶽山久安寺の址でしょう。

ある時、海で時化にあった人が雲の上に浮かぶ山容を見て助かったことが、その名の由来といわれています。確かに円錐形に見える山容を見ると、周囲の人々が目印にしたこともうなづけます。唐津藩船手組の資料によると、参勤交代の前に浮嶽大明神に代参に行ったことが記され、参勤の際に唐津を出発した船手組は、陸路を行く藩主らの先回りをして大里で待機し、藩主らの下関渡海を終えた後また唐津に帰ったそうで、浮嶽は海上交通での信仰の対象であったことが分かります。

向かって左側の鳥居を潜ると浮嶽中宮であった浮嶽神社が鎮座しています。

拝殿前にはこのように中宮の石碑が立っています。

この拝殿の格天井には、近隣の村々や個人が寄進したであろう絵が描かれていて、吉井村○○とか田地原村中など人名が記されています。

右側の鳥居には「浮嶽山」という山名が刻まれ、寺であったことが分かります。

建物もお寺っぽくて神仏習合の姿を垣間見ることができる場所です。












 

田んぼの中を走る一直線の線路


福岡市営地下鉄の西唐津行き電車に乗り、唐津方面へ向かうと一貴山駅と筑前深江駅の間で、このように田んぼの真ん中を一直線に電車が走る光景を見ることができます。この写真は、5月頃に線路の北側を走る国道202号線沿いにある松末五郎稲荷から見た光景ですが、緑色の田んぼの真ん中を赤と白(シルバー)の3両電車が走るのはとてもかわいい光景です。

特に五月頃の春麦がとても美しく、おおよそ1ヶ月の間に黄緑色から黄金色に変化する様子は素晴らしいです。

しかし、なぜ田んぼの真ん中を一直線の線路が走っているのでしょうか?これには、あるエピソードが残っています。

JR加布里駅と筑前深江駅の間に一貴山駅という無人の小さな駅があります。加布里駅を出て1kmも離れていないのに、なぜか駅があるのは変だとは思いませんか?

これは、一貴山駅のすぐ近くにある田中村の地主であった満生氏が、線路ができる際に自分の土地を提供して一直線の線路を引いたと云われ、その際、自分の屋敷のすぐ近くに駅を作ったといわれています。それゆえ、田んぼの真ん中を直線に線路が走り、加布里駅をでて1kmも進まないうちに駅があるのです。

飛梅の印


太宰府天満宮の神木「飛梅」
この木の枝で作ったいくつかの印の話をまとめてみました。
平成17年に、筑紫野市歴史博物館で藤瀬冠邨展という筑紫路の南画家の企画展が開催されました。その時、私も展示に関わりましたが、特に藤瀬冠邨の落款印についていろいろ調べました。その印の中に「神木 太宰府天満宮 天海刀」という側款の入った木の印が二点ほどありました。その後、私の交通史の先生である近藤典二先生と話をしていると、近藤先生のお父さんである近藤思川さんが還暦の祝いに飛梅の枝で作ったという印があるというので見せてもらいました。冠邨と同じく天海という人が彫ったものでした。その話を詳しく聞くと、筑紫野市の二日市に豊島南窓という漢詩人がいて、その人の紹介で作ってもらったそうです。近藤思川さんの還暦の年は、明治16年生まれなので昭和18年であり、ほぼ同じ時期に藤瀬冠邨も印を作ってもらっているようです。昭和18年頃に大宰府天満宮の飛梅の枝を落とすことがあったようで、筑紫路の文人たちはその枝をもらって印にしたことが少しづつ分かってきました。また、この印を刻した天海という人については、近藤先生からは箱崎に住んでいたということを聞きましたが、印を収集している方に問い合わせると、天海は、樋川天海といい高千穂に住んでいたらしいことがわかりました。昭和24年に高千穂峡にある北原白秋の歌碑も天海の作だといいます。当時名の知れた篆刻家だったのでしょう。天海の彫った飛梅の印に関してはまだまだ調査中です。

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