スポンサーサイト

  • 2020.01.04 Saturday
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


前原御代官に関する話

2011年10月21日(金)に古材の森歴史講座を開催します。
これまで、このブログで紹介したきたことなどをお話します。是非お越しください。

福岡藩の最西端にある前原宿
そこには、藩主の別邸である御茶屋が置かれていました。
この御茶屋を管理する役人を「御茶屋奉行」と呼び、さらに、藩境の宿場では「御境目奉行」と呼ばれていました。特に、長崎街道の黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田の六宿は、御代官と称し、ニュアンス的には御茶屋奉行よりも格上でした。
各宿場に置かれた代官並びに御茶屋奉行は、福岡藩の馬廻組という100石クラスの中級家臣が派遣されていました。代官は、藩主の別邸である御茶屋の管理と、宿場全体の管理、そして、通行する諸大名や幕府役人の対応を主な職務としていました。
さて、前原宿は、唐津街道上にあり、駐在する藩士は「御茶屋奉行」と呼ばれるべきところを、藩境の宿場町という場所柄「御茶屋奉行」と「御境目奉行」を兼帯し、六宿と同等の御代官と呼ばれていました。幕末頃に前原宿の代官をしていた田中杢次郎より 「御境目検分済、村役よりの書面差出受取置」という連絡が福岡藩の役所に届けられた記録が残っています。
前原宿の代官の変遷を記録より拾い上げてみる。
‖臾扈右衛門(寛文年間)
∋暗舖ケΡ厂隋弊菊素間)
7汗喫識辧弊菊素間)
ぬ瀬藤太夫(享保年間)
ヌ瀬太兵衛(安永年間)
μ瀬与平治(文化年間)
柳瀬与太夫(文政年間)
そして、幕末になると、その在任期間は短くなり、次々と交代が行われました。
内海与左衛門
牛尾右膳(安政三年〜万延元年)
田中杢次郎(文久元年〜文久三年)
平賀傳左衛門(文久三年〜元治元年)
田中杢次郎(慶応)
文久三年末、前原代官田中杢次郎は、それまで木屋瀬代官であった平賀傳左衛門と交代し、田中は木屋瀬代官へ繰り上げとなり、平賀は前原代官へ引越しとなりました。

前置きが長くなりましたが、最近、この前原宿の代官が居住した代官所の間取り図を発見しました。これまで、代官所は、建坪が40.75坪であることと門が長屋門であったことなどしか分かっていませんでしたが。しあkし、この図面によって間口や奥行き、敷地の形、建物内の様子などが分かりました。原本ではなく、分かりやすく清書した画像を載せます。

図の下が北です。敷地は、長方形で、街道に対して間口を構え、中央に長屋門を構え、敷地の表側には練塀を築いていました。長屋門を入ると、L字の茅葺の主屋があり、玄関部分は破風が付いていました。主屋に入ると左側(東側)に応接のための座敷があり、右奥にかけて台所や居間、奥の間など居住部分となっていました。敷地の東南に「社」と印された部分があり、おそらく屋敷神が祀ってあったのでしょう。




記録と記録の一致〜書家時枝峰雲と関番時枝保兵衛〜

昭和16年に発行された 『前原町誌』を見ていて、ある人物に釘付けになった。
それは、時枝峰雲(1803〜1879)という仙涯和尚に絵を学んだと云われる幕末の書家である。出身は前原で、通称を保兵衛という。
時枝保兵衛という人物は、私が知っている限り前原宿関番所に勤務していた人物である。
時枝氏は、前原宿に6名いた旅人が持つ通行手形を改める「関番」という役人の一人で、幕末の元治元(1864)年の名簿に時枝与左衛門(二人扶持四石)という名を確認することができ、明治七年の名簿にも時枝与三という名を確認することができる。
おそらく、与左衛門の父と思われる時枝保兵衛は、萩尾(定)文書の中に記録されていた。文書の内容は、波多江軍兵衛という関番が、退役するにあたり、波多江利蔵という人物を新たに関番に任ずるため、関番である萩尾定吉と時枝保兵衛が福岡に出向いたという内容である。文書の差出人が、今宿に在住していた怡土志摩郡代の貝原一兵衛であるので、文久元(1861)年頃と思われる。時に時枝保兵衛58歳である。
この時枝保兵衛と時枝峰雲が同一人物であるという決め手は今のところ見つからないが、『前原町誌』に、時枝峰雲の絵馬が糸島市岩本の西宮神社にあると記してあったので見に行った。

それは、文久二(1862)年の年号の入った絵馬であった。右下に峰雲の落款があった。それより2年後にあたる元治元(1864)年の関番名簿を見ると、時枝与左衛門となっており、59歳の保兵衛は退役し、おそらく息子の与左衛門(与三)に関番を譲ったものと考えられる。

さらに、同僚の関番であった萩尾定吉(可朔)が亡くなった後に描かれたと思われる肖像画(明治14年)には、時枝更生(露滴)なる人物が賛をいれている。しかし、明治14年には峰雲はすでに亡くなっているから、息子である時枝与三(更生・露滴)がこの賛を入れたのではないかと思われる。関番という役人でありながら、父保兵衛と同じく書も嗜んでいたのであろうか。いずれにしても、記録と記録が一致し、新たな郷土史の1ページを見つけた瞬間であった。

献上品 泉川のシジミ貝

 前原宿の北側には、雷山から流れる「雷山川」と志摩から流れる「初川」そして、長糸にある白糸滝からくる「長野川」が合流する「泉川」が流れています。
この泉川は、現在では九州でも有数のハマボウ群落として知られていますが、河口部だけをどうして「泉川」と呼ぶのでしょうか?その由来は、元和四(1618)年に福岡藩主黒田長政が新田開発を行い、その管理を黒田24騎の一人である菅和泉守正利が請け負ったことにちなむといいます。
 この泉川で採れるシジミ貝に関する記録があるのでご紹介しましょう。

文化八(1811)年、将軍の代替わりごとに来日する朝鮮通信使との国書交換儀式が、対馬で行われることになりました。朝鮮通信使は、これまで海を渡って江戸まで行き、将軍に挨拶を行うのが例でしたが、12回目となる今回は、財政難ということもあって対馬にて行われることになったのです。
このため、幕府の大目付や勘定奉行など多くの役人たちが通行しましたが、今回お話しするのは、応接役の副使として通行した播州竜野城主の脇坂中務大輔が前原宿に休憩したときの事です。
脇坂中務大輔は、幕府の奏者番で、播州竜野より中国道を通って赤間ヶ関(関門海峡)を渡り、大里−小倉−黒崎−木屋瀬−飯塚−内野−山家と長崎街道を通って、山家から二日市−博多を通って唐津街道に出、福岡−姪浜−今宿を経て前原宿で休憩となりました。
この日は深江宿に宿泊のため前原宿では休憩でしたが、午後二時頃に本陣(御茶屋)に入り、本陣亭主の埴生喜平次はチップとして金子500疋を拝領しました。この喜平次と中務大輔のやり取りに関する記述が残っています。

「脇坂様は、午後二時頃に御茶屋にお入りになりました。御家来衆より、当初の名産についてお尋ねであったので、泉川にシジミ貝とタル小貝がございますと申し上げておいたところ、届けてほしいとのことなので、調達してから後日差し上げます。
また、長垂山のキララ石をお帰りまでお預けになり、もう少し求めてくれるよう頼んでおります。」



当時、前原宿周辺の名産として泉川のシジミ貝とタル小貝が挙げられていたことが分かります。シジミ貝は、現在でも漁が行われています。また、長垂山のキララ石とは、天然記念物の鉱物ペグマタイトの事で、中務大輔がお土産にしていたことは非常に興味深いです。
 

福岡藩主の西部巡見

寛政12年福岡藩主黒田斉清が西部(現在の糸島地方)を巡見に来た際のルートを見てみたいと思います。



福岡城下を出ると、最初に今宿で小休みしました。

今宿からは、唐津街道と分かれて、いわゆる桜井往還を通っていきます。


しばらくいくと、太郎丸河原でトイレ休憩をしました。

太郎丸河原より桑原村を望む。現在は九州大学がその途中にあります。

桑原村 庄屋宅で藩主は休憩したそうです。

桑原村を過ぎて桜井神社へ向かいます。

桜井神社。筑前第一の神社として歴代の福岡藩主は毎年の参詣を欠かしませんでした。

桜井神社の楼門。

桜井神社の大宮司宅へ宿泊した後、野北村庄屋好右衛門宅で一休み。

そして、小金丸村濱でトイレ休憩しました。

その後、芥屋の大門神社を参詣し、神主の柴田出羽宅でお昼ごはんを食べ

新町西口濱で鯛網をご覧になり、

小休みのため御床村へ来ました。
 
御床村では、志摩郡の大庄屋鎌田甚吉宅で休み

辺田浦でアサリ貝掘りをされた後前原宿へ向かいます。

そして、四町開という干拓地を見学して前原宿で宿泊しました。

前原宿を出たあとは、周船寺村を通り、福岡へ帰りました。

関所役人の羽織

 現在、前原古材の森では、「濱田久代着物コーディネート」が行われています。是非ご来店下さい。
さて、江戸時代の前原宿には、旅行者が旅をするときに持っていた「通行手形」を調べる「関番所」という施設があり、関番とよばれる役人が交代で関番所に出所し、通行手形を改めていました。
この、関番役人が着ていたとされる羽織を地元で和裁をしている方に頼んで作成してもらいました。
前原宿の説明をする際にはこの羽織を着て案内しますよ!もちろん「唐津街道御膳」をお食事になる際にはこの羽織を着て説明いたしますよ!


表側(生地は麻、龍の刺繍が施されています。)


裏側


唐津藩主の前原宿泊2

長らくお待たせしました。唐津藩主の前原宿泊の続きです。

 さて、いよいよ宿泊当日となると、宿場内には盛砂(もりずな)といって砂をまき清め、樋などのみぐるしい所には菰を掛けて見えないようにし、本陣となる御茶屋には表門の両脇に盛砂をして出迎えました。
 宿場では、朝五つ時から「赤坂土橋」と「萩浦下」、「筒井原」の3ヶ所に「遠見の者」(とおみのもの)を配置し、福岡領と中津領の境である多久川に川越人足と監督の萩浦村庄屋を配置させました。
 一行の御案内は、油比村庄屋卯助が担当し、宿場では、本陣亭主喜平次と町茶屋守の作左衛門が裃を着用し、遠見の者の知らせを受けて時間を見計らって宿場の西口まで出迎えます。

両名は、宿口で道路脇に屈み行列を待ちます。

大名の乗物が両名の前に来ると、喜平次は行列の先導をして御茶屋の表門脇まで案内し礼をします。

大名は表門を通り式台まできて乗り物から降り、未の下刻(午後三時頃)座敷へ入ります。御茶屋では、火災など緊急時に供えて御立退所に潤村の庄屋宅が準備されていました。
 本陣亭主の喜平次と町茶屋守の津田作右衛門には祝儀として金子五百文が下賜され、問屋利助にも、金子百疋が下賜されました。
大名行列が宿場内に宿泊すると混雑するため、宿場内の監督には、前原村庄屋作次と組頭が担当し、火の用心番には山北村庄屋多右衛門が担当しました。
宿場内には、藩士らが購入するための八百屋や肴屋が設けられ、様々な支払いのために必要な金銀両替所には豪商綿屋藤三郎が担当しました。
 また、この時前原宿には、蒲団220、ゴザ220、手水盤15、行灯27、屏風15、煙草盆20、枕100、蚊帳80、風呂桶30が怡土・志摩の両郡から持ち寄られ、宿泊に必要な菰33枚・薪74〆・半縄3束・草履23足・草鞋12足も準備しました。
 宿泊当日、前原宿には人馬輸送と諸用のための、人足448人と馬53疋が召集され、翌朝の人馬継立の準備で問屋場は多忙を極めました。

召集した人馬采配のための人足役所と馬役所が別々に設けられ、人足役所には、大門村、千里村、波多江村、桑原村、小田村、井原村の各庄屋。馬役所には、桜井村、草場村、松隈村、御床村、飯場村、三坂村の各庄屋達が監督として詰めました。これらを取りまとめる本部となる郡屋には、元岡村、師吉村の庄屋が詰め、様々な采配にあったことでしょう。
翌朝出立は、卯の上刻(午前五時頃)の出立で、喜平次と作左衛門は宿場の東構口まで見送りました。
これから姪浜までを前原で集められた人足が運び、案内は、高田村庄屋が志摩・早良郡の郡境小濱まで案内します。
この日、唐津藩一行は青柳宿に宿泊します。一日に8里(約30km)の距離を進んでいた事になります。
この通行が終わると、前原宿代官の柳瀬与平次は、次の宿場に通行が終わったことを連絡し、唐津藩一行の継ぎ送りは終了します。

唐津藩主の前原宿宿泊 

 唐津街道は、その名の通り唐津藩が主に参勤交代路として使用していた街道でした。
唐津藩は初代寺沢氏断絶の後、大久保・松平・土井・水野・小笠原と譜代大名の転封が繰り返されて幕末まで至った藩で六万石を領していました。
 文化六(1809)年4月、唐津藩主水野和泉守忠光が参勤のため唐津街道を通り、4月13日に前原宿に宿泊することが決定しました。
 4月3日、唐津藩士の杉一・水野新右衛門・矢倉七蔵・井上軍蔵ら4人が連名で道中の日程及び通行に必要な人足と馬の数を知らせた先触(参勤交代の内容を前もって知らせるお触れ)が届き、それを見た前原宿代官の柳瀬与平次は、直ちに輸送に要する人馬の準備を行うため、怡土・志摩両郡の大庄屋及び前原宿問屋利助にこの先触を回覧しました。

先触
一、人足九十三人 内三十七人 尾野道より減
一、本馬二十疋  内四疋 大里より減
一、半馬二疋
来る四月十三日、唐津藩主水野和泉守様が参勤のため唐津を発ち、その日の夕刻に前原宿に宿泊の予定であるので、書面の通り滞りなく人馬を提供していただきたい。また、病人などで余分に駕籠や人馬が必要になるかもしれないが、その時は迅速な提供をお頼み申しあげる。我ら四人の印鑑を押しておくので、この印鑑が合う者に人馬の提供をお願いする。この印鑑は、前日宿割の者が参るときに持参致すので、この四人の内一人でも印鑑が合えば人馬の提供をお願いする。
四月十三日前原泊  同十四日青柳泊  同十五日黒崎泊 肥前浜崎宿より西宮宿まで問屋中 追てこの触大坂堂島浜四丁目和泉守蔵屋敷まで指し送り候

宿泊予定地は、13日に唐津を発って当日は前原宿に宿泊、14日青柳宿(現在の福岡県古賀市)、15日黒崎宿(北九州市黒崎)に宿泊する予定で、1日におおよそ8里(約30km)を歩いていたことになります。
 4月12日、参勤前日の夕方頃に、唐津藩士1名が前原宿に到着しました。この藩士は、「宿割」といってお供の家臣達が泊まるための宿泊所を調べ、宿場の入口と御茶屋(殿様が宿泊するための本陣)に掲げる関札(大名の名前を書いた木の札)を渡して翌日に関する事前の打ち合わせを行います。また、先触に書いてあったように、印鑑を持参した宿割の藩士は、人足と馬などの支払いを済ませ、明日に備えました。この藩士に必要な本馬(おおよそ100kgの荷物を背負うことができる馬)1疋と人足6人を前原宿にて用意しました。この時の藩士は、先触にあった4人の内の誰であったかは分りません。 つづく
次回は、いよいよ唐津藩一行が前原に到着します。お楽しみに!!

福岡藩士の領境調査

これは福岡藩の家老吉田家の伝記に記されていたものです。当時、現在の前原・志摩・二丈周辺は、福岡藩領・中津藩領・幕府領が入り組んでいましたので、その領地境はとても重要でした。江戸時代を通じてこの領地境問題でどこの藩でもかなりもめています。

 寛政13年(1801)、11月7日、吉田経年は、西部御境目見分として上野小八・広羽八之丞の2人をお供に、午前5時ごろ福岡城下を出発しました。上野小八(18石4人扶持)は、福岡藩の無足組に属し記録方・境目引切請持という役職でした。文化9年(1812)に伊能忠敬が福岡藩を測量した際、御境目受持・御祐筆頭取として伊能忠敬に随行した人物です。
広羽八之丞は、福岡藩の城代組に属する分間方を家業とする七人扶持御二十石の藩士です。分間方とは、測量によって藩の境界を正す役職です。

1日目
周船寺村の大庄屋宅に昼休みして、雷山・筒原・筒滝御境筋・城ノ口・三坂の盗人塚まで見分し、この日は三坂村に宿泊しました。
2日目
曽根原から井原までの御境筋を見分し、波多江村で昼休み、篠原村の白原・鎌越原・多久村の芝崎・高峰・荻浦井樋堰まで見分して前原宿の町茶屋に宿泊しました。
3日目
その翌日は、辺田・船越の海境を見分、船越の八代龍王神社前から岐志まで船で渡り、芥屋村で昼休み、この日は野北村に宿泊
4日目
そのまた翌日は桜井を通り、宮金穴・桜井の井戸を見物して西ノ浦では海の方を見分して西ノ浦で昼休、この日は今宿で宿泊
5日目
翌日は姪浜で昼休みをとって夕方4時頃帰宅しています。

※地元の人からの聞き取りで、三坂の盗人塚は現在の三坂交差点辺りだったそうです。そこには墓があって家を建てるとあまりうまくいかなかったそうです。


前原宿の町屋




前原宿(現前原名店街)では近年の空洞化で商売をしていない店が多くあります。そういうところは、たいていシャッターが閉まっていて、壊されるとその敷地はどんどんマンションに建て替えられています。最近も、新しくマンションが建った場所の向かいにあった店舗が取り壊され、隣の古い町屋がよく見えるようになりました。この建物は、前原宿の典型的な町屋で、間口が狭く奥行きが長いつくりになっています。街道に面した表の二階部分にはウダツを利用した看板が付いており、内部はおそらく二階建てで明り取りのために吹き抜けになっているはずです。敷地の奥には坪庭を挟んで倉庫または倉があります。この建物も取り壊さないでこのまま修復して使ってくれる人がいたらいいなと思います。また、今回取り壊された建物の跡地になにか建つとすれば町の雰囲気に合わせたものであってほしいと願っています。


前原宿年表

字ばっかりで読む気がうせるのではないかとは思いますが・・・
一応、好きな人にために公開します。

前原宿略年表
寛永15年 (1638)関番所が設けられる
正保4年  (1647)福岡藩主黒田忠之が前原に宿泊する
明暦元年 (1655)津田作左衛門が庄屋となる
寛文年間 (1660)初代代官 大野助右衛門
寛文元年 (1660)福岡藩主黒田光之が長崎の帰りに前原で一泊する
寛文6年  (1666)福岡藩主黒田光之が前原を通って長崎へ向かう
寛文12年 (1672)長崎上使の牛込忠左衛門が前原宿に宿泊する
貞享2年  (1685)前原宿に御茶屋・人馬継所などができ笹山より民家を移す
元禄3年  (1690)福岡藩主黒田綱政が遊猟のため前原宿で休憩する
宝永4年  (1707)丸田池が築造される
宝永5年  (1708)福岡藩主黒田綱政が猟遊のため前原宿で休憩する
正徳3年  (1713)福岡藩主黒田宣政が領内巡検のため前原宿に滞在する
正徳4年  (1714)直方藩主黒田長清が長崎巡検のため前原宿に宿泊する
正徳5年  (1715)遊行上人が前原宿に宿泊する
正徳5年  (1715)前原宿代官三島團右衛門が罷免される
正徳5年  (1715)郡正兵衛が代わって前原宿代官になる
享保2年  (1717)諸国巡検使が通過し、家老の郡平馬が前原宿にて接待する
寛保3年  (1743)老松神社の二の鳥居を庄屋津田源助が奉納する
延享3年  (1746)遊行上人が前原宿に宿泊する
明和8年  (1771)福岡藩主黒田治之が西部巡検の途中に前原宿に宿泊する
安永2年  (1773)遊行上人が前原宿に宿泊する
天明元年 (1781)志摩郡吉田村の西孫七が前原宿の庄屋となる
天明3年  (1783)津田作左衛門の屋敷内に町茶屋が建てられる
天明3年  (1783)庄屋であった津田作左衛門が町茶屋守を勤める
天明5年  (1785)老松神社の一の鳥居が奉納される
天明9年  (1789)銅板画家司馬江漢が長崎からの帰路前原宿を通過する
寛政6年  (1794)福岡藩主黒田斉隆が西部巡検の途中に前原宿に宿泊する
寛政7年  (1795)西原氏(綿屋)が前原宿内に店を構える
寛政10年 (1798)大村藩主が前原宿を通行する
寛政11年 (1799)津田作七が前原宿庄屋を勤める
寛政12年 (1800)福岡藩主黒田斉隆が前原宿に宿泊する
文化2年  (1805)幕府奉行の遠山左衛門尉景晋が通行
文化5年  (1808)福岡藩主黒田斉清が前原に訪れる
文化7年  (1810)前原宿大火
文化7年  (1810)地蔵庵を宿場の東構口付近に移す
文化9年  (1812)福岡藩主黒田斉清が西部巡検で前原に宿泊する。庄屋津田作次
文化9年  (1812)伊能忠敬が測量のため前原宿に宿泊する
文政5年  (1822)津田作七が町茶屋守を勤める
文政5年  (1822)前原宿大火
文政10年 (1824)津田作助が町茶屋守を勤める
文政13年 (1830)前原宿の有力商家が桜井神社の仰古館に書籍を奉納する
天保3年  (1832)関番所が出火する
天保4年  (1833)津田半内が町茶屋守を勤める
天保15年 (1844)御茶屋が焼失する
弘化元年 (1844)老松神社を本村から宿場内に移す
嘉永元年 (1848)焼失した御茶屋が再建される
万延元年 (1860)前原宿代官 牛尾辰之丞
文久3年  (1863)小倉藩の用人大池金右衛門が前原宿の千福屋に宿泊する
元治元年 (1864)関番上役として福岡藩士の岡山左太夫が勤務する
慶応元年 (1864)前原宿代官田中杢次郎
明治3年  (1870)宿駅制度廃止
明治4年  (1871)関番所が廃止される
明治7年 (1875)郵便取扱所ができ、問屋場跡に通運会社ができる
明治7年 (1875)御茶屋が前原尋常高等小学校として使用される
明治42年(1909)下町に唐津街道道標が建てられる
明治43年(1909)北筑軌道駅舎開設のため老松神社を移動する

calendar
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< April 2020 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
recent comment
recommend
recommend
recommend
recommend
福岡地方史研究 第49号
福岡地方史研究 第49号 (JUGEMレビュー »)

福岡藩主の前原宿泊を所収しています
recommend
recommend
recommend
recommend
recommend
福岡地方史研究 47号
福岡地方史研究 47号 (JUGEMレビュー »)

唐津藩主の前原宿泊を所収しています
recommend
福岡地方史研究〈45〉
福岡地方史研究〈45〉 (JUGEMレビュー »)
福岡地方史研究会
福岡藩旅籠屋屋号帳を所収しています。
recommend
福岡地方史研究〈46〉
福岡地方史研究〈46〉 (JUGEMレビュー »)

福岡藩主のおもてなし作法を所収しています。
recommend
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM