糸島と黒田官兵衛

来年の大河ドラマは、福岡にゆかりのある黒田官兵衛です。
おそらくドラマの80%近くが播州での話しになるでしょうね。福岡はどちらかというと息子の長政の代になってからの舞台ですから、福岡で官兵衛とゆかりのある場所は、如水の住まいがあった福岡城御鷹屋敷と福岡城が完成するまで住んでいた太宰府天満宮境内くらいでしょうか。
最近、糸島と黒田官兵衛の関係するところはないか?とよく聞かれます。しかし、関係する場所はほとんどなく、江戸時代に入ってからの場所くらいしかありません。たとえば黒田家のお家騒動に関係する櫻井神社とか、黒田二十四騎の1人で怡土志摩の代官であった菅和泉守に関係する飯氏や泉川、黒田長政の息子である甚四郎政冬が、秋月や東蓮寺と同じように怡土郡の内1万石を分地されて支藩を創設するはずだったが、早くに亡くなってしまったため、支藩はできなかった。などいずれも官兵衛とは直接関係ないものばかりです。

今回紹介する『黒田家譜』の中の内容も、官兵衛は直接関わっていませんが、家臣で二十四騎の1人久野四兵衛が糸島の高祖にあった原田氏の居城高祖城攻めの際、一番駆を果たし、原田氏は秀吉軍に肝をつぶして無血開城するお話です。

原田氏の居城 高祖城

原田五郎右衛門尉信種は、筑前怡土郡高祖の城に在りて秀吉公に従わず。小早川隆景彼を討たんために、その手の兵を卒し、高祖の城に向かわれける。孝高よりも目付として家臣久野四兵衛等を相添らる。原田はいなか士なれば、近郡の城持と小攻合に度々利を得たる事を自満し、人敷千二千を大軍と思い、秀吉公の武威の盛なることを知らず、上方の軍兵たとえ大勢なりというも、公家長袖のごとくならんには、何程の事かあらんと思い侮って、先高祖の前なる大門河原に出で勢揃いぞしける。その形勢ちぎれたる鎧を着、縄手綱かけたる馬に乗たる士敷十騎には過ず。上方勢の攻め来るを待居たり。寄手の兵早良郡より日向山を打越、高祖を指て押来る。原田が兵是を見て、案の外なる大軍なれば、対揚し難く思い、先籠城して薩摩方の後詰をも待べしとて城内へぞ引入れける。かくて隆景の勢城下まで押寄けるに、鴾毛の馬に乗たる武者一番に城下に乗付たり。隆景はるかに見て、あれは誰ぞの問い給うに、孝高の家人久野四郎兵衛なりと答ふ。然るに原田は本丸の上より東の方を見渡せば、敵猶も寄来ると見えて、博多の西早良郡より城の麓まで三四里の間、大勢つづき旗指物馬物のきらめき渡るを見て、肝を消し評議にも及ばず降参を乞ければ、城攻はなくしてやみぬ。隆景より此事秀吉公へ言上せられしかば、秀吉公より輝元・吉川・小早川に賜る十二月廿日の御書の内に、黒田勘解由家人久野四兵衛、筑前国高祖原田居城の一番乗の事聞召たる由御感ありける。

原田軍の形勢は、「ちぎれた鎧を着て縄手綱をかけた馬に乗った侍が十騎ばかりほど」と田舎侍を強調すべく残念な書かれようです。

高祖城本丸より見た大門河原 


怡土・志摩郡 藩境の変遷図

 今年、地元の雷山公民館でお話しする機会をいただきました。話の内容は、「雷山校区は何藩だった?」ということで、近世の藩境の話をさせていただきました。雷山校区があった場所は、江戸時代、福岡藩、中津藩、幕府領の藩が複雑に入り組んでいた地域で、境を示した領境石も多く残っています。

雷山小学校の校庭内に移設された領境石

このブログでも以前福岡藩の家老吉田氏が御境目検分に行った事を書きました。
校区の人たちは、自分は現在何藩があった場所に住んでいるのか?こういうふうに分かれていた
など初めて聞く話ばかりだったそうです。この時に作成したのが下の図です。江戸時代を通していく度も支配領域が変わったので、その変遷を図に表しました。
戦国時代の糸島は、蒙古襲来の恩賞として志摩郡一帯を与えられた大友氏と怡土郡をその領地としていた原田氏(大内氏の配下になったり竜造寺氏の配下になったりした)が割拠していましたが、天正14年に豊臣秀吉が九州征伐によって領地没収され、糸島のほぼ全域が豊臣家の領地になりました。その後、筑前1国を賜った小早川隆景の領地になりましたが、博多は公領のままで、小早川氏が居城とした名島城のすぐ近くに公領があってはやりにくいということで、怡土郡西部と交換して、怡土郡西部が公領、東部が小早川領という形に成りました。その後、黒田長政が筑前1国の国主となりましたが、あいかわらず怡土郡西部は公領のままで、その後、分割されて譜代大名の飛び地として支配されて明治に至りました。



今年は蒙古襲来の年でした。

1つ前の記事が今年の1月ですので、約1年何も書かずにいたことになります。
最近はフェイスブックとやらが流行しており、私もそれに感染していたわけです。
さて、2012年の秋頃から今年(2013年)にかけて元寇防塁や蒙古襲来に関する講座やら調べ物やらが多かったように感じます。
ことのはじめは、元寇防塁を中心とした今津周辺のマップを作成することになったのがきっかけです。自分自身、蒙古襲来の事はほとんど知らなかったので、福岡市西区今津の方にいろいろ案内してもらいました。そこで、はじめて毘沙門山に登ったり、今津の村内を歩いたりしました。また、2013年は糸島市雷山公民館で3回に渡って「中世の糸島」という講座があり、蒙古襲来の話から戦国時代の糸島の様子などを聴く機会に恵まれました。特に今津毘沙門山からの風景は特にすばらしいものでした!

かつて司馬遼太郎と須田刻太画伯が、この地を訪れ(『街道をゆく』)、須田画伯が「マウンテンですね」と称した岩肌が露出した毘沙門山に登ると、眼下に、広大な怡土庄の風景と、中世貿易港今津の風景が見渡せます。

昨年秋に行った毘沙門山から瑞梅寺川の河口を望む風景。
糸島半島の東、博多湾の西側にあたるこの地は、瑞梅寺川の河口で大きな干潟となっていました。昔の港は、現在の港と違って水深があって船がそのまま着岸できるようなものではなく、干満によって干潟となるような場所だったようです。だから、中世の港の多くが河口部が港となっている訳です。

今津は、博多と共に中世貿易港として栄えた場所で、天皇家、仁和寺、鎌倉幕府にとっても特に重要な荘園であった怡土庄の風景が残っている場所です。怡土庄とは、本家は天皇家、領家は仁和寺(法金剛院)で、承久の乱後は鎌倉幕府が所有した怡土郡・志摩郡の二郡からなる巨大な荘園です。蒙古襲来の後は、豊後の大友氏が恩賞として志摩郡を賜り、柑子岳城を築きこの辺りを支配していました。※源平合戦の後、それまで平家王国だった九州には関東から下向してきた武士団が土着します。薩摩の島津家、人吉の相良家、豊後の大友家、豊前の宇都宮家、肥前の千葉家、筑前の武藤家などです。この人たちが蒙古襲来の際には九州武士団として活躍し、戦国時代の話へとつながる話も今年聴きました。

また、山頂からは、博多湾と玄界灘、延々と続く海岸には鎌倉幕府が元軍の上陸を拒むために築かせた石築地(元寇防塁)が大パノラマで見渡せました。この風景を見るたび、おおよそ700年前に、この湾を埋め尽くしたであろう元寇の大船団が目に浮かぶようでした。



 

別府アートフェスティバル「混浴温泉世界2012」

別府で昨日(12/2)まで行われていた3年に一度のアートイベント「混浴温泉世界2012」に行きました。昨年から、縁あって、アートに関係する方々と交流する機会をいただいたため、今回、勉強のために豊後国は別府に数名で乗り込んだ訳です。
さすが温泉の町、駅には手専用の温泉がありました。別府駅を起点にして、
別府の裏路地や各所の作品を見て回ります。

案内は、BEPPU PROJECTの曉甫くん
商店街の中や、老舗のパン屋、レジデンスアパートなどを散策しました。
以前、前原宿で行った唐津街道の宿場散策をした際、複数のお客さんから
「町が違った風景に見える」と言われましたが、こういう感覚だったのでしょう。

海に突き出た桟橋跡で展開するクリスチャン・マークレーの作品やデパートの五階に
あるアン・ヴェロニカ・ヤンセンズの作品を見る際には、総合ディレクターの芹沢高志
さん直々に説明していただきました。

そして、platform04(SELECT BEPPU)という築100年の長屋を改装した建物では、
有名なマイケル・リンの襖絵を見ました。

襖絵を見ながら読書ができるそうです。
古材の森の2Fもこげんしたかー

この長屋の持ち主の方
古い建物は、借り手と貸し手のいい相互関係の
上で成り立つのだな、と改めて感じました。


長崎街道の松並木(曲里の松並木)

長崎街道は、豊前国大里より小倉、黒崎、木屋瀬、飯塚などを通って長崎へ通づる九州の主要幹線道路です。この街道は、九州の諸大名や長崎奉行、文人墨客等が往来しました。これら旅人が街道を通る際、木陰になるように、また街道が人目で分かるように、街道には松や杉などが植えられていました。

しかし、現在はマツクイムシの被害や、道路拡張、戦時中に松脂を取っていたなど様々な理由で伐られ、ほとんど残っていません。

かつては、糸島市松末を通っていた羅漢川の沿った唐津街道にも松並木があり、郷土の日本画家松永冠山が大正11年に描いた作品には、その風景が描かれています。

さて、北九州の黒埼には、曲里の松並木と呼ばれる街道松が整備され残っています。
先日、北九州に行く用事があったので、実際に歩いてみました。

江戸時代後期の代表的な狂歌人であった太田南畝(蜀山人)は、文化元(1804)年に長崎奉行所に支配勘定役として赴任し翌年10月に帰府しました。その道中などを記録した「小春紀行」には、「坂を下るに赤土の岸あり、松の並木をゆくゆく上り下りて又坂を下りゆけば左に黒崎の内海見ゆ」と記しています。

気分は江戸時代の旅人!!

まさに、この浮世絵の風景と同じです。

江戸時代の松は2本程しか残っていなく、そのうち1本は切り株に、
もう一本はこのように表示板がありました。

「古街道」と刻された表示石がかっこいい


福岡藩士辻山家の事

主に福岡藩の事を調べている私であるが、福岡藩に何か縁があるかと問われれば何もないというのが実際のところである。私の出身は、旧筑前国怡土郡有田村の農家であり、江戸時代は豊前中津領の飛び地であったため、これまた福岡藩との直接の関係はない。
しかし、結婚したことによって、福岡藩との縁が出来たのである。ある時、嫁の実家が福岡藩士であったことが判明し、明治期に、辻山吉三郎という人物が旦那寺である上人橋通りにある香正寺の墓が整理される際、写し取ったといわれる文書が出てきたため、嫁の先祖である福岡藩士辻山家について色々と調べる機会を得た。

福岡藩士辻山家は、福岡藩4代藩主黒田綱政の時(元禄元1688年〜正徳元1711年)に、初代文之助が無足組30石6人扶持で召抱えられ、明治まで続いた中下級藩士である。


辻山家は、もと備前辺りに居住していたのを、福岡藩参勤の道中でて召抱えられたと伝えられ、正徳元年よりおおよそ35年を経た延享の頃の分限帳では、辻山文之助は、無足組20石6人扶持で御納戸役である。御納戸とは、藩主の身の周りの世話をする役である。
その後、2代半蔵(〜明和元年10月)、3代吉太夫(〜宝永5年8月)、4代波次郎(天明6年2月)と続き、波次郎は、宝暦11年藩主継高が西郡巡見と称した志摩郡桜井神社や雷神社の参詣に供として随行した。また、安永4(1775)年10月、この年6月に死去した福岡藩主継高の御遺髪を京都龍光寺に埋葬のため、福岡藩の菩提寺崇福寺の裏より乗船し、馬廻頭の竹中伝右衛門はじめ、野田新兵衛、吉岡多膳、早川幸太夫、大格文二郎、そして辻山弥次郎が供として随行している。
5代波江は、江戸参勤を3度仰せ付けられたが、寛政7年5月江戸に於いて病没した。6代文左衛門(〜文政13年)は、右筆として勤務し、7代文之助(〜明治5年)は、文政7年2月に組外勤務を仰せ付けられ、同年5月に長崎警備のお供を仰せ付けられている。

しかし、天保8年3月、登城途中に遅参し、お家取り潰しの危機にまで陥ったが、一族評議の上乱心という事で届けを出した。大目付梶原平十郎(大組715石)よりの沙汰は、文之助は隠居し、吉見新兵衛の弟八十八を養子として迎え、さらに格下の城代組20石6人扶持で辻山家は存続した。八十八は、吉太夫(〜安政3年)と改名し、24年間勤めた後、養子の傳(〜明治7年)に家督を譲り、傳は、嘉永2年右筆見習(秘書官)を仰せ付けられ励んでいたが、明治4年病気により退役を余儀なくされ、長男吉三郎(〜大正12年)に家督を譲り、傳は隠居し、吉三郎が家督を継ぎ、城代組17石6人扶持で明治を迎えている。

福岡市薬院の香正寺にある辻山家の墓

辻山家の屋敷地は、延享の頃は、追廻堀端(現在のけやき通り付近)、その後柳原に移り、幕末期には大西二番町(西新付近)そして、戦前は西職人町(現在の舞鶴検察庁裏付近)に居住していた。頭山満らがつくった結社玄洋社筋向いに辻山家があった。
下の地図は、昭和13年の西職人町付近の地図。左側に麻生邸や、黒田家別邸がある。現在の浜町病院辺り。赤の部分が旧辻山邸で、筋向いの小路先に玄洋社があった。いずれも戦災によってなくなった。
 

  


江戸参府紀行

昨日、出張で江戸に参府してきました。

31歳にして初めて江戸へ参府することとなり、飛行機で福岡より東京へ向かいました。
飛行機に乗るなんて数えるくらいなんで、わくわくしてましたが、近年グーグルアース等
精密な航空写真を見すぎたせいで、それほどの感動が得られなかったのが残念。
でも、飛行機からは、富士山がきれいに見えました。やはり頭を雲の上に出していました。
かつては1カ月近くかかって諸大名達が江戸へ向かったのに、約1時間半で参府できるなんて夢のようですね。江戸では、古材の森がメセナアワード2011のメセナ大賞部門を受賞したので、その表彰式に出席するのが目的で行きました。時間が1時間半ほどあったので、東京駅から会場の表参道駅すぐそばの青山スパイラルホールまで歩いていこうと思い、まずは御城へ

和田倉門を渡って最初に目に入ったのが三の丸巽櫓、その奥には内桜田門と富士見櫓が見えます。この日、金曜日だったので皇居東御苑(江戸城本丸、二の丸)は休園日。仕方なく西の丸下郭を通って堀端を歩きました。

内桜田門

堀端に沿って歩くと大きな門が次々と現れます。これは坂下門

板倉や水野家の上屋敷があった場所は、ただ松の木が生え遠くにはビルが見えるのみです。

有名な、皇居の入口にあたる二重橋と伏見櫓

井伊掃部頭が殺害されたいわゆる桜田門外の変の舞台となった桜田門(これは内側から撮影)

外から見た桜田門

桜田門より桜田掘と井伊掃部頭の上屋敷(左側)現在は国会図書館あたりを望む

右が安芸浅野家の上屋敷(警視庁)、左が筑前黒田家の上屋敷(外務省)を見ました。
この坂を霞が関といい、坂の上からは江戸湾が遠望できたといいます。

かつてはこんな風景だったそうです。右の赤い門が浅野家、左の黒いほうが黒田家で、江戸へ来た人々が見に訪れる観光スポットでもあったそうです。(『泥絵で見る大名屋敷』より転載)

そして、福岡藩上屋敷があった場所(外務省)の横にあった潮見坂も見ました。

以前はこんな風景だったそうです。(横浜開港資料館蔵 『城下町江戸』より転載)

この本を片手に江戸を歩きました。しかし、今回歩いたところは、山の手と云われるように、坂の多いこと多いこと・・・地図で見るとすぐ近くと思っても、実際に歩くと高低があって、思うようにたどり着けない。夏目漱石の草枕の一文に、「東京はばかにひろいからねぇ」と髪結処の親方が言っていたのがなんとなくわかったような気がします。
【この日歩いたルート】
何々坂」というように坂が非常に多かったのが東京の印象でした。赤坂と六本木の境あたりをさまよい歩いている時、計らずも福岡藩中屋敷跡と勝海舟の氷川屋敷跡の近くへ行き、こんな坂のある場所に住んでいたのかと、地図では分からない地形を体験しました。今回のルートは、上の地図にあるように、和田倉門→坂下門→桜田門→国会議事堂→霞が関→金比羅社→汐見坂→霊南坂→アークヒルズ→南部坂→氷川坂…表参道駅



古材の森歴史講座のこと

先週金曜日に行った古材の森歴史講座、
大勢のご参加ありがとうございました。
長々と2時間近くしゃべってしまいました。
「地産地消の歴史」を念頭にお話しする講座。
今回、初めて試みたのですが、好評に付きではなく、
しつこく月一位で開催せねばと思っています。
今回は、前原宿というのがどんな宿場だったのかを
お話しました。つまり、舞台をつくりました。
そこで、次回は、この舞台で実際に演じる人々の
お話をしたいと思います。
主な演目は、唐津藩主の前原宿泊、福岡藩主の通行
幕府役人の通行など。
次回は、伊能忠敬の糸島測量日記をお話するつもりです。
日程が決まったら、またお知らせいたします。
※被写体が自分なので、写真はありません。


彼岸花を食べる話

 
樋口清之の『梅干しと日本刀』を読んだ人が、おそらく最初に驚く話の中に、彼岸花を食べる話が挙げられるだろう。飢えを経験したことのほとんどない現代人には、おそらく想像できないだろうが、昔の人々の生活は、常に飢えとの戦いであった。瓶詰や燻製、塩漬など様々な方法で食料を保存し、食べられる物をすべて食べつくした後、最後に備えてあるのが彼岸花であった。墓地や畦、川岸などに咲く彼岸花は、毒だと教えられている。しかし、彼岸花は、本来渡来植物で、球根であるから遠方に増えることはなく、10年で1m程しか自分の領域を殖やすことはできない。だから、彼岸花は、墓地や川土手に勝手に生えているのではなく、遠く祖先の誰かが飢饉のときを考えて植えたものである。その証拠に、道路や村落、墓地などの人間活動の周辺以外の純自然原野には、日本ではこの植物はみられない。そうして、「毒」だから触ってはいけないと言い伝えて、飢饉と時まで自然繁殖できるように配慮していた。彼岸花を食べるのは、その球根である。球根にはアルカロイド毒があるが、水にさらすと溶解して無毒になる。そして、この球根には多くの澱粉が含まれている。ただ、もともと毒を含む危険な食品なので、安易に食べたりしない方がよい。(樋口清之『梅干しと日本刀』より引用)彼岸花が咲くこのころになると、この話を思い出す。

山家代官所の図

10月21日(金)に古材の森歴史講座を開催いたします!ぜひご参加ください。

さて、以前、前原代官所の間取り図を見つけた事を書きましたが、その資料には、長崎街道の山家宿(現在の筑紫野市山家)にあった代官所の間取り図も載せられていました。これまで山家宿では、藩主が宿泊したり、長崎奉行をもてなしたりする御茶屋と、近年まで残っていた代官の下で働く下代屋敷の間取りは分かっていましたが、代官所については、位置は分かっていましたが、詳細な間取り図までは分かっていませんでしたので、貴重な資料となります。原図をもとに修正加筆をした図を載せます。


山家代官所の様子が少し記載されている資料があります。
福岡藩の儒者亀井南冥の息子である亀井昭陽は、藩校甘棠館が類焼し、廃校になると、家業であった儒者を解かれ、城代組の平士にされていました。その後、文化5年に長崎港にフェートン号が不法侵入するという事件が起こり、今後の連絡方法として、長崎から小倉までの要所に烽火台を設けることになり、筑前では、天山、四王寺山、しょうけ越、竜王岳、六が岳、石峰山の六ヶ所に新設されました。亀井昭陽は、この六峰の番人を命ぜられ、六峰を次々に10日間勤めては10日間休むという輪番勤務繰り返していました。文化六年10月、昭陽は天山烽火台(筑紫野市)に勤務しており、その昭陽を、21日山家代官の息子原左太夫と下代の箕形と医師の平嶋を引きつれて慰問行き、その3日後、今度は昭陽を山家宿に招待しています。ここで代官所の様子が記されています。
「山家の宿場町に入ってすぐ左に曲がると、原左太夫が代官屋敷の門に出迎えていた。庭には谷川の水が巡り、カキツバタの花が池に彩を添えている。吹く風が心地よい。座敷に上がると、壁に鍾馗の図が掛けてある。」代官屋敷の座敷には、かつて昭陽が賛をした鍾馗の図が掛けてあり座敷からは、谷川の水を引き込んだ池があったことが記されています。

代官屋敷は、下代屋敷の奥にありました。
※代官所の間取り図は、筑紫野市歴史博物館で10/8から開催される特別展で展示される予定です。


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